「あるベース」と「ないベース」で異なる幸福度
ひとが世の中や物事を見る時の傾向って、「あるベース」と「ないベース」に分かれるんじゃないかと。どうも、先日からそろっとこころの法則研究家を名乗りだしたMadokaです。ものの見方で、「自分にはこれがある」とか「これを持っている」とか、「ある」ことに目を向けている人と、「あの人がもっているあれが自分にはない」とか「これも持ってない」とか「ない」ことに目を向けている人では実はかなり幸福度が異なっているんじゃないかと思いつきまして、ここで考えてみますね。よく聞くたとえ話で、半分に水が入ったコップを見た時次の二つのうちどっちを思うのかというのがあります。A「半分しか水が入っていない」B「半分も水が入っている」これ同じものなのに捉え方が全然違います。Aの「半分しか水が入っていない」と言う人は、「ない」方に目を向けています。Bの「半分も」と言う人は、「ある」方を見ています。どっちのセリフを聞いたほうが「安心感」とか「幸福感」を多く感じますか?最近は、心屋仁之助さんはじめ、プロも一般人もいろーんな方がブログで情報を無料でばんばん公開しています。そういうワークショップや講演会ももう至る所で行われている。フェイスブックとか見ているとそういう情報が自動的に入ってきます。仕事で悩んでいて、藁にもすがる勢いでなにか助けにならないかと目を皿のようにしていた時にはそういうブログを片っ端から読んでいました。それで救われた部分もたくさんあるのですが、あるときから読めば読むほど焦って苦しくなった時があったんです。その時私が思っていたのは、「こういうふうにしないと成功できない」「こういうふうにできないとだめだ」。他人のブログで自分が思いつかないようなことを書いているのをみつけたとき、私はそれを「自分にはないもの」と思って、「ないベース」で捉えてたんです。読めば読むほど自分にはなくて他の人が持っているもの、才能が気になってくる。だって他の人は、特殊だったり、すごい苦労してたりとか、いい経験してるんですよ。離婚してたり、うつ病克服してたり、アダルトチルドレンだったり、借金かかえてたり、子供のころ両親に愛されてなかったり、悟ってたりとか。やっぱ私は平凡な家の出だし、ブログかく人っていうのは誰もが納得するような苦労話もってないと内容がおもしろくないかなあとか。はい、これ「ない」が2回もでてきてますねー、「ないベース」の考え方です。その時私は、ひとしきり焦った後、意味もなく自分で自分を焦らせてるんじゃないかと気がついて、もう読むブログを1つか2つに決めて(心屋仁之助さんと岡田哲也さんのだけ)、あとはどんだけ気になるタイトルがフェイスブックでシェアされていても、読まない!って決めて断情報の時期を作りました(おもしろ系のまとめは読んでましたが)。そうしたら、インプットの時間が減って、自分のアウトプット=ブログを書くことにかける時間が増えて、さらにこれは他の人と内容かぶっているかもとか気にしてかけなくなっていたのが、気にせず自分の個人的な体験と思いに基づいてかけるようになっていったんです。逆に、他の人のブログをみて「あ、こういうのもありなんだ。じゃあ私もこういうふうにするのもありかな」と思うのはあるベースの考え方ですね。同じ自分の発想の外にある事柄でも、こういうふうに受け取れるなら「ある」世界へ移っていけます。先日お話を聞く機会があった方で、同じ親の元で育った姉妹なのに感じ方の違いでかなり状況が異なっているというお話がありました。姉:親が子供っぽくって自分がなんとかしてあげないとと思い、物心ついた時から両親のフォローに回っていた。妹:両親のだめなところに気がつかない&気にしない。なので両親の手助けなどはせず、自分の好きなことをやっていた子供時代。大人になった後どうなったかというと姉:大人になっても親が甘えさせてくれなかったことを心残りに思い、親以外の人にも心が許せず、無気力になってしまい、体調を崩して仕事を辞めてから何年も働けていない。妹:人の良いところを見るのがうまく、両親以外の人ともうまくやり、結婚、子供をもうけている。これは同じ状況なのに、姉は両親のできないところ、「ない」に目を向けて、自分が長女だからなんとかしないとと、ないベースで生きてきたVS妹は両親のいいところ、「ある」に目を向けて、自分と他のひとのいいところがある、あるベースで生きてきたの違いに思えます。同じ状況でも感じ方や何を見るかで結果はだいぶ変わってくるようなんです。姉も、子供だったから視野も広くなくて、自分が長女だからなんとかしないとって思い込んで、それ以外の選択肢がないように思えていたかもしれない。でももう大人になった今は自分の好きなように感じ方は選んでいいわけです。自分を幸せに運ぶ考え方を選んでもいい。これをやらないといけない、こうしなくてはいけない、という考えで行動するのもないベースの考え方です。「あれもやらないと」「これもやらないと」と考えている時に持っている前提は「自分はできていない」です。私の主張している法則「前提が体験を創る」で考えると、「自分ができていない」という体験が現れることに。こわっ。この「あるベース」と「ないベース」の考え方ですが、心屋仁之助さんの本やブログに親しんでいる方でしたら、「天国思考」と「地獄思考」と置き換えてもらうとわかりやすいかと思います。まとめこちらhttp://ameblo.jp/kokoro-ya/entry-10710519909.html「地獄思考」の人は、「ほしいほしい」「くれくれ」と欲しがる餓鬼地獄にいるわけです。自分には「ない」ので「ほしい」と言っている、「ないベース」の考え方です。この地獄思考と天国思考の話、7日間無料動画講座でも見られるのですが、この人たとえ話の天才じゃないかと思いましたー。この地獄思考の人たちというのは、それが自分を苦しくする考え方なのに、やめられない。血の池地獄につかって、それが自分たちに「おにあい」だと言っている。逆に天国思考の人たちは、裸でわーっと遊んで楽しくしている。この人たちが入るのは透明なお湯の気持ちのいい温泉。地獄思考の人たちはそれが羨ましくて血の池から出ようとするのですが、そんな裸なんてとんでもない、無理!と言って、また血の池に戻って、はー、見えないのが一番こっちのが落ち着くわとい続けるそうです。(きになる方はこちら心屋仁之助のBeトレ動画講座「7日間で人生がなんとなく変わっていく」http://www.kokoroya-be.com/douga.html)そうなのです、「〜しないと」「〜がないといけない」とかないないって言っている地獄住まいでも、慣れているならそっちのが自分には落ち着くんです。マゾですね。自分をいじめている方が落ち着く。自己否定村の出身の私もこの地獄思考、ないベースの考えで生きていたことがあるので、ふとするとそこに戻ることもあります。他の人のブログ見て、嫉妬したり、こういうふうにかけないと自分もだめなんじゃないかとか比べてみたり。アクセス数、この人は私の何倍だーとかね。そういうときは「ふわ!ないものに注目して血の池に戻ろうとしている!」と思って、いったんやめて、気をそらすようにしています。「こうしないと」って思ったり、「ない」が目につく時、それは「自分以外のなにかになろうとしている時」なんじゃないかと。実は本当の自分でいるためには、たりないものはなにもなくて、すでにそのために必要なものはすべてを持っている。「輝いて見えるあの人」とか「成功しているあの人」みたいに、自分以外のものになろうとすると、持っていないものばかりになる。もし、なぜか焦っていたり、自分に「ない」ものばかりがきになるなと思ったら、自分が物事の「ない」面ばかりに目をむけていないか、そして自分が「自分以外のなにか」になろうとしていないか問いかけてみてください。「ないベース」から「あるベース」に切り替えてもっと気持ちを楽にできるかもしれませんよ〜。IH(インテグレートヒーリング)セッション IHヒーリング概要、お申し込みページ キネシオロジーを使った総合的なヒーリングです。自分の潜在意識の声が聞きたいという方に。IHってなあに?という方はこちら 受けた方の感想はこちらです。