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精神世界の鉄人のブログ

UFOやチャネリング、霊、輪廻、超能力などの不思議な話題から、ビジネス、経済、政治、歴史、文化などの社会問題、そして、恋愛や結婚、ダイエット、旅などの現実的な話題まで、幅広く、日々感じたことを、書き綴ってみますね。

関東には、「補陀落渡海」の痕跡が、たくさん残っています。

 

あたまえのことですが、もしも、和歌山県の砂浜から太平洋に出て、そのまま、海の藻屑になっていたら、これほど多くの痕跡は残っていないはずです。

 

間違いなく、「補陀落渡海」の僧侶たち、つまり、「天照派」であり、日本人の始祖である、イザナギとイザナミの子孫である、本当の天皇家の人々は、死なずに、西日本から、「小舟」に乗り、東日本という新天地で、新たな人生を歩み始め、彼らの理想郷をつくったのだと思います。

 

それが、「江戸」という町であり、「江戸時代」だったのです。

絶対平和主義の「天照派」の子孫たちがつくりあげ時代だったから、260年くらい平和だったのです。

 
江戸時代に、「お伊勢参り」というのが流行りましたね。
 
「一生に一度は伊勢詣」
 
昔は、こう言われたらしいです。
 
他にも、「熊野詣」もありましたね。
 
「伊勢へ七度熊野へ三度」
 
とも言われていたそうです。
 
実は、あれの本当の意味は、大いなる里帰りだったのです。
 
旅行記の最初の頃に書きましたね。
日本人の始祖である、イザナギとイザナミが、最初に結婚式を挙げたのが、伊雑宮だったことを…
そして、熊野から、「補陀落渡海」で、東日本へ亡命してきたことを…
 
江戸時代の人々は、DNAの中に、その記憶があり、その記憶が、騒いだのかもしれません。
 
「本当のお父さんとお母さんの故郷に帰りたい! 自分の魂のルーツに帰りたい!」
 
この気持ちが、「お伊勢参り」や「熊野詣」だったのかもしれません。
 
伊勢から始まった、生粋の日本人である、「天照派」の人々が、熊野の那智から、小舟で関東に流れ着いて、「江戸時代」をつくりあげ、そして、その時代に、天下泰平になった頃、故郷の伊勢に、また帰りたくなった。
こう想像したら、また、じわじわと感動の波が湧き上がってきました。
 
壮大なスケールの歴史物語が、ここで生まれていたのですね。
 
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最初に大きな拠点にしたと思われる土地も、東京にあります。
ここから、江戸時代が、始まったと思われる所です。
 
 
再度、おさらいしますね。
 

西日本から小舟に乗って、少しづつ長期間にわたって、東日本の地に移住してきたパイオニアたち、彼らのグループは、イザナギとイザナミを始祖とする子孫たちで、彼らは、最初の38人の子供たちの子孫でもあり、長男の名前が、「別雷尊」。

これは、生まれた時に、身体が、「丹生」という宇宙エネルギーで輝いていて、まるで、身体に雷が落ちた時のように発光していたから、この名前だったそうです。

現代風の表現では、「凄いオーラの持ち主」というかんじですね。

 

 

「天照派」のグループは、関東地方において、いくつの地点から上陸したようですが、ある時期に、東京のある場所で、一堂に会する機会があったと思われます。

 

なんと、その場所は、「浅草」だったようです!

有名な「雷門」です。

 

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「昔は、このあたりに、よく雷がよく落ちたから、雷門というのかな?」

 

私は長年、そう思っていたのですが、違うのです。

38人の子供の長男だった、「別雷尊」の名前から、これは、名付けられたのだと思います。

 

「別雷尊のグループの拠点だった場所」

 

それが、「雷門」の場所なのだと思います。

 

「天照派」のグループの拠点が、ここにもあったのだと思います。

 

 

ここの参道を歩いていて、一番驚いたのが、これです。

最初の「雷門」の次の門です。

 

なっ、なんと!

デ~ンと大きく、「小舟町」と書かれているではないですか~!

今までに、これの意味に気が付いた人が、どれくらいいたんだろう?

 

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見てください!

 

「小舟に乗って、関東にやって来た人々が住んでいた町」

 

こう言っているのです。

 

 

実は、日本国内において、隠している秘密などないのです。

歴史の秘密は、どうどうと目の前に提示しているのです。

 

問題は、

 

「それの意味を、正しく解釈できるかどうか?」

 

だったのです。

 

 

 

浅草の近くに、「日本橋小舟町」という名前の街もあります。

 

現在は、東京都中央区の地名になっていて、昔は、日本橋区にあたる日本橋地域内だったそうです。

地名に、「日本」がついている所は、それほどたくさんはありません。

まさに、ここが、「日本」の発祥だったのです。

「邪馬台国」や「大和」や「倭」ではなく、「日本」という共同体が、形作られたのが、ここだったのかもしれません。

 

「小舟町」=「日本」

 

こう言ってもいいくらい、「補陀落渡海」で東日本に向かった、「天照派」の人々、つまり、愛と平和の一族が、日本の礎を固めたのだと思います。

 

「古代において、日本という国は、小舟から始まった!」

 

この驚愕の史実は、これから、少しづつ広がっていくかもしれませんね。

 

 

 

先月、仲のいい友人と一緒に、「小舟町」のあたりを散策しました。

JR東京駅から、歩き始めたのですが、足元に、「円錐」の形の石が、たくさん置かれていたのに気が付きました。

 

 

 

まさに、「天照派」の拠点だったのですね。

改めて、それに気が付きました。

 

 

 

 

では、そろそろ、二つ目の秘密の扉を開いていきますね。

 

 

地図を見ながら、いろいろまわりました。

 

日本銀行です。

この時は、改装工事をしていました。

 

 

 

隣にある「貨幣博物館」にも立ち寄りました。

 

 

 

館内は、撮影禁止なので、写真はありませんが、ここで初めて知ったことが、たくさんありました。

 

 

一つ目の話です。

 

「金座」

 

この単語は、知っていましたか?

あまり知らないと思います。

一般的に、「銀座」は、よく知られていますが、「金座」の存在を知っている人は、少ないですね。

 

 

江戸時代の地図です。

青い部分は、「皇居」のお濠と川です。

 

「本町一丁目」の左側の土地が、現在の「日本銀行」です。

つまり、現在の日銀の敷地内に、「金座」があったのです。

 

 

 

実は、ここで、「金貨」である「大判小判」をつくっていたそうです。

 

 

 

「慶長小判」です。

 

 

 

わかりましたね。

日本の錬金術師たちは、ここが拠点だったのです。

そのグループの正体が、「補陀落渡海」によって「小舟」でやってきた、「天照派」の人々だったということです。

そして、彼らの住処が、「小舟町」だったのです。

 

「どういう人たちが、日本の紙幣を印刷しているのだろうか?」

 

この素朴な疑問について、あまり考えたことはないと思います。

 

「天照派」の人々は、長い弾圧の歴史の中で、なるべく目立たないように、しかし、押さえるべき権力は、しっかりと掌握して、いざという時には、その権力を発動する時もある。

こういう姿勢を持っているようです。

 

 

二つ目の話です。

 

「銀座」

 

この土地は、現在では、ショッピング街として有名ですが、実は、江戸時代には、「銀貨」がつくられていたそうです。

 

「銀貨がつくられていた土地」

 

この意味もあったそうです。

 

 

これを見た時に驚きました。

見てください!

 

「豆板銀」という銀貨だそうです。

 

 

 

ハイ!

「補陀落渡海」の「小舟」ですね。

 

image

 

 

さらに、三つ目で、こういう土地もあったそうです。

 

「銅座」

 

ここは、「大阪」と「長崎」が、主な拠点だったそうですが、「江戸」にも支店のような所があったそうです。

 

「銭貨」

 

これをつくっていたそうです。

写真は、江戸時代を通じて一番使われた銅貨だそうです。

「寛永通宝」と呼ばれるもので、銅がメインですが、鉄製や真鍮製なんかもあったそうです。
 

 

 

これは、「銭形平次」で有名になりましたね。

 

 

 

 

この日、散歩していて、さらに面白いことに気が付きました。

 

「日銀」の建物を、上空から撮影した写真だそうです。

よく、「円」の文字の形だと言われていますが、私には、別のものに見えました。

 

 

 

中央の部分が頭部で、両側が両腕に見えませんか?

さらに、口が閉じられていて、頭頂部に、一本角があるように見えませんか?

 

ハイ!

口を閉ざした狛犬、「エンキ」ですね。

 

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これは、「日銀」の近くにある「東京証券取引所」です。

ここでも、記念撮影しました。

 

 

 

横からの写真ですが、これは、何に見えますか?

 

 

 

すぐにわかりましたね。

口を開けている狛犬、「エンリル」ですね。

 

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まとめると、現代においては、こうなるのです。

 

 

〇「金座」=「日本銀行」=「口の閉じた狛犬(エンキ)」=「お金が出てくるところ」=「IN」

 

〇「銀座」=「銀座のショッピング街&東京証券取引所」=「口の開いた狛犬(エンリル)」=「お金が動くところ」=「OUT」

 

 

日本の「お金」というのは、このように、「IN」と「OUT」の流れがあり、「陰」と「陽」の関係になっているのです。

面白いですね。

 

最近では、「仮想通貨」なども広がってきているので、また新しい別の流れもできそうですね。

 

 

「日銀」のあたりは、現代の日本の中心なのですが、この近くには、有名な「兜町」という土地もあります。

そこには、「銀行発祥の地」と書かれた、小さな記念碑もあります。

 

 

 

そこから、徒歩1分くらいの所には、「郵便発祥の地」もあります。

 

おそらく、ここは、「補陀落渡海」の時から、始まっていると思います。

つまり、「聖徳太子」が、東日本に派遣していた忍者たちが、ここから、西日本と密かに、連絡をとりあったのが始まりなのかもしれません。

 

 

 

 

「小舟町」という街には、なにもありません。

大きなビルもないし、大きな会社もありません。

 

image

 

 

「皇居」や「日銀」から、徒歩5分くらいの超高級地でありながら、地味なのです。

近くには、「三菱」や「三井」、それから、「三越」などの「三」の文字が入る財閥系の建物もあります。

 

これほどの土地が、普通の商店街や住宅街に見えるというのが、凄いのです。

ここまで地味な土地は、東京の超がつく中心地で、ここだけだと思います。

 

ちょうど、ここだけ、ポッカリと穴が空いたようになっているのです。

 

もしかしたら、「江戸時代」には、この町が、アメリカの「ワシントンD.C.」やイギリスの「シティ・オブ・ロンドン」のように、ある種の特別区だったのかもしれません。

 

 

住所なども珍しく、「丁目」の設定のない単独町名だそうです。

 

 

 

 

この町の近くに、小さな神社もあります。

「椙森神社」です。

 

 

 

拝殿の前でも、記念撮影しました。

 

 

 

名前に、「森」が入っていることから、もしかしたら、大阪にある、「鵲森宮」とも関係あるかもしれません。

「聖徳太子」が創建した神社ですね。

 

 

「三つ巴」の瓦です。

 

 

 

拝殿の前には、「補陀落渡海」の「小舟」、それから、「黒潮」を表現していると思われる石碑もあります。

 

 

 

正面からです。

 

 

 

「小舟」が、黒潮をかき分けて進んでいるように見えませんか?

 

 

 

このあたりの土地では、この神社を中心にして、お祭りもあるそうですが、写真の神輿は、私には、「補陀落渡海」の「小舟」に見えます。

 

調べると、日本においては、「神輿」というもの自体は、かなり昔からあるのですが、文献に記録として書かれ始めたのは、奈良時代で、710年くらいからだそうです。

ちょうど、「補陀落渡海」が始まって、しばらくしてからの時期ですね。

 

そもそも、「神輿=補陀落渡海舟」だったのです。

 

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「三つ巴」のマークがありますね。

 

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もう一度、「補陀落渡海舟」です。

四隅に、朱い鳥居があるのに注目してください。

 

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さらに、ここから、ちょっと歩いた所には、「小網神社」という神社もあります。

鳥居の前で、記念撮影です。

 

 

 

ここには、小舟に乗った弁天様がいました。

「アカウミガメ」だと思われる亀も、一緒ですね。

「黒潮に乗ってきた補陀落渡海舟」ですね。

 

 

 

 

結論です。

 

「日本の金融や郵便など、この国の中枢の組織には、昔、補陀落渡海で渡って来た人々の子孫、つまり、本当の天皇家である、天照派が深く関わっている」

 

こういうことです。

 

 

 

次回、「天照シークレットツアー」、感動のフィナーレです。

 

 

 

 

 

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振り返ってみると、私の宇宙考古や古代史の探索は、ちょうど4年前の春、奈良県の明日香村から始まっています。

だから、私の旅も、節目節目には、奈良が関係しているようです。

 

今回の奈良県の旅も、そういう意味では、一つの節目だったのかもしれません。

 

 

 

旅の途中では、ちょっと面白そうな名前の寺や神社があったら、車を停めて、ちょっと探索することを繰り返えしていました。

 

そうやって、立ち寄った場所の一つが、「石光寺」でした。

場所は葛城市で、當麻寺の近くです。

 

 

 

 

ここにも、「三つ巴」と「鬼瓦」がありました。

やはり、「天照派」の拠点だったみたいですね。

 

 

 

境内に入ると、これが、すぐに目に飛び込んできました。

 

 

 

これは、旅行記の最初の頃に紹介した、「神武派」と「天照派」の仲直りの時、「葵祭」の象徴であり、京都の上賀茂神社の「立砂」ですね。

もしかしたら、ここでも、そういう儀式があったのかもしれませんね。

 
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片方が「〇」で、もう片方が「□」というのが、面白いです。

この二つを、くっけると、「前方後円墳」になりますね。

 

 

 

本堂です。

 

 

 

掲げられている文字が、私には、「宇宙服を脱いだ二人の宇宙人」に見えました。

下半身が蛇みたいですね。

「イザナギ」と「イザナミ」かな?

 

 

 

この寺について、ネットでも、調べみました。

だいたいこういう説明です。

 

「石光寺(せっこうじ)」は、浄土宗の寺院である。

山号は慈雲山で、本尊は阿弥陀如来。

出土遺物等から飛鳥時代後期(白鳳期)の創建とみられる古寺で、「中将姫伝説」ゆかりの寺院である。

境内には、中将姫が蓮糸曼荼羅を織成する際に、蓮糸を染めたという井戸「染めの井」と、糸を干したという「糸掛桜」があり、「染寺」と通称されている。

 

さらに、興味深い伝承もあります。

 

役小角の開山と伝えられる。

「元亨釈書」に記載される縁起によれば、天智天皇の時代、霊光を放つ大石が見つかり、天皇の勅命を受けて、この石に、弥勒如来を彫らせ、堂宇を建立したのが始まりとされる。

 

面白いですね。

他にも、こういう話もあるそうです。

 

当寺は、中将姫の蓮糸曼荼羅織成伝説ゆかりの地として知られ、境内には伝説にちなむ、「染の井」と「糸掛桜」がある。

中将姫は、大納言藤原豊成の娘とされる。

説話によれば、美貌で知られた中将姫は17歳で出家して、ある日、中将姫は、蓮の茎を集め、糸を採り出し、石光寺の庭に掘った井戸に糸を浸したところ5色に染まった。

中将姫は、そのハス糸で、一夜のうちに当麻曼荼羅を織りあげた。

天平宝字7年(763年)のことという。

 

 

 

境内を散歩していると、弥勒堂という建物があり、中に入ると、「当麻曼荼羅」のレプリカも、展示してありました。

 

 

 

その建物には、こういう仏像も展示してありました。

 

 

 

「船来観音像」というそうです。

明らかに、「補陀落渡海」を意味していますね。

やはり、ここにも、「補陀落渡海」で辿り着いた僧侶がいたのかもしれませんね。

そして、もしかしたら、女性であり、尼さんだったのかもしれません。

 

 

 

井戸もありました。

 

 

 

「中将姫」の像です。

 

 

 

説明書きです。

 

 

 

ある本に、面白い話が書かれていました。

 

中将姫は、継母から虐待されていたそうですが、ある時に、この継母から殺害されそうになり、身の危険を感じて逃げたそうです。

そして、家臣の夫婦に助けてもらったそうです。

 

姫は、いろいろな人々に、匿われたり、助けてもらったそうですが、助けた人の一人に、お礼として、ある秘薬をプレゼントしたそうです。

それは、普通のお湯に入れただけで、天然温泉のように身体が温まり、健康になるという秘薬だったそうです。

 

その子孫が、後に、「株式会社ツムラ」という会社を創業したそうです。

主成分が、婦人薬「中将湯」原料の生薬で、「薬剤中将湯」という入浴剤にになったそうです。

そして、その入浴剤が、ある時から、「バスクリン」というネーミングで、日本中のお風呂で使われ始めたのだそうです。

 

そういえば、子供の頃、「バスクリン」が入った風呂、好きでしたね。

こんな歴史が隠されていたのですね~!

 

いや~、古代史って、面白いな~!

 

 

綺麗なお姫様だったのですね。

髪形が、子供の頃の聖徳太子に似ていますね。

もしかしたら、頭には二本角があり、それを、髪形で隠していたのかもしれません。

「鬼=大丹生(おおにゅう)=天皇家」だったかもしれませんね。

 

 

 

 

 

さて、いよいよ、奈良県の旅でのメインの目的地に向かった話です。

 

「松尾寺」というお寺です。

 

小雨の降る中、車を運転して、寺に向かいました。

 

着きました。

貫禄のある門ですね。

 

 

 

 

 

階段を登っていきました。

 

 

 

境内は、「三つ巴」と「鬼瓦」ばかりです。

 

 

 

 

 

 

境内は広いです。

 

 

 

 

聞くとこころによると、聖徳太子が拠点にしていた、「法隆寺」の奥の院が、この「松尾寺」だったそうです。

この二つの寺は、2キロくらい離れていて、その道の半分くらいは、原生林で、ほとんど人が足を踏み入れたことのない場所になっているそうです。

 

私は、そういう地理的な条件から推測して、ここが、「補陀落渡海」の最重要作戦本部だったと思っています。

 

つまり、聖徳太子が、イザナギとイザナミの子供たち、38人の依存を救済する計画を立てて、その指令を全国に送っていた場所が、ここだったと思うのです。

そして、その指令は、「志能便(しのび)」と呼ばれていて、日本最古の忍者であり、スパイだった人々を使って、やっていたと言われています。

 

 

 

本堂です。

 

 

 

この寺の本堂の奥には、興味深い像も、置かれていました。

 

写真撮影が禁止だったので、写真はありませんが、なんと、「天照派」の敵方になる、「神武派」の中でも、一番、「天照派」を弾圧していた、「天武天皇」の息子の像が、あったのです。

その息子とは、「舎人親王(とねりしんのう)」という名前で、三男だと言われているそうです。

 

調べてみると、「天武天皇」の奥方だった「持統天皇」は、夫のあまりの弾圧の酷さに、とても悩んでいたそうです。

 

そして、「天武天皇」が亡くなった後には、弾圧されたり、虐殺されて亡くなった「天照派」の人々の魂の鎮魂のために、多くの神社を建てたりしたそうです。

このように、「天武天皇」の親族の中でも、「天照派」の人々に、同情的だった人は、たくさんいたようです。
 
おそらく、その流れで、息子の一人が、「天照派」の人々を救済するために、「松尾寺」を建てたのだと思います。
つまり、「補陀落渡海」には途中からは、敵側のトップも、陰では協力し始めたということです。
裏の日本史、凄いですね~!
 
 
 

階段を登ると、立派な「三重塔」があります。

 

 

 

この塔も、瓦には、「三つ巴」と「鬼瓦」の模様が刻まれています。

 

 

 

「法隆寺」の奥の院である「松尾寺」には、さらに、その寺の奥の院があったのです。

この「三重塔」の裏山に、この寺の奥の院があるのです。

 

 

 

ちなみに、この裏山は、「補陀落山」と呼ばれているそうです。

その山の頂上に、神社がありました。

 

 

 

「松尾山神社」という名前の神社です。

拝殿です。

 

 

 

祭神が、「牛頭天皇」ですね。

「イザナギ」ですね。

 

 

 

そして、この末社に、注目してください。

「末社」というのは、「松尾山神社」のさらに元になった神社ということです。

 

 

 

なんと!

そこに祀られている神様は、「十九所大明神」と書かれているではないですか~!

 

そうです。

「19組の夫婦」です。

イザナギとイザナミの「38人の子供たち」です。

 

「天照派」の人々の始祖です。

 

日本という国の基盤づくりをした、「聖徳太子」の拠点だった「法隆寺」、その奥の院の「松尾寺」、さらに、その奥の院が、「松尾山寺」、そして、さらに、その源の神様が、「十九所大明神(三十八人の神様」だったということです。

 
日本という国家は、元々は、この子孫たちを中心にして始まったのです。
 
 
 
 
ここでの参拝を終えて、この神社に来る前にあった祠が、「十九所大明神」を祀っている所だということが、わかったので、改めて、そこで参拝しました。
最初は、何も書かれていなかったので、素通りしてしまったのです。
 
ここです。
 
 
 
二つあるので、どちらが、「十九所大明神(三十八人の神様」なのか、わかりませんでした。
 
 
 
そこで、この二つの祠に向かって、
 
「せっかく、ここまで来たので、どちらが、十九所大明神なのか教えてください! そこに参拝したのです!」
 
と心の中で、神様に頼みました。
 
そして、この二つの祠の裏側にまわりたくなったので、裏から見てみました。
 
 
 
すると、右側の祠の裏に、上から雨水が垂れていました。
 
 
 
わかりましたか?
 
ビックリしました!
 
雨水で、「上(神)」と書かれているではありませんか~~!!
 
 
 
「ここか! こちらの祠が、十九所大明神で、38人の神様だったんだ~!」
 
こう思って、ここで、心を込めて参拝しました。
 
「松尾寺って、本当に凄い神様がいるんだな~!」
 
しみじみと、そう思いました。
畏敬の念が、湧き上がってきました。
 
 
 
奈良県での全ての旅行を終えた後、近鉄奈良県の近くの商店街を散歩しました。
ここは、大好きな商店街なのですが、暗くなると、ほとんどの店が、すぐに閉まるのです。
 
 
 
商店街の前にある像を見て、また驚きました。
以前は、意味がわからなかったのですが、今回わかりました。
 
 
 
「天照派」の象徴である、「円錐台」の形のピラミッドですね。
気が付いたら、「富士山」でもあったのですね。
上には、「行基」というお坊さんが、立っていますね。
このお坊さんも、「天照派」のリーダーだったみたいですね。
 
 
 
ネットで調べると、こういう説明がありました。
 
 
行基は、668年に大阪で生まれ、奈良で仏教について学びました。
彼は、この時代の僧侶の規則をやぶり、寺院の外にでて、民衆のために、たくさんの社会事業をおこないました。
737年にペストが大流行した際には、病と重税に苦しむ農民のために、池や橋、家をつくり、食料や薬をあたえました。
朝廷から、これらの活動を弾圧されても、行基は活動を続けたと言います。
これらの活動から、行基は民衆に、行基菩薩とよばれ、尊敬されるようになります。
弾圧していた朝廷は、行基のもつ技術力や民衆を動員する力を、大仏建設に協力を仰ぐ事になります。
745年には、日本で初めて、大僧正という僧の最高位になり、行基の指導のもとに、大仏がつくられることになりました。
 
 
まさに、「愛」と「平和」のグループ、「天照派」の活動をしていた方だったのですね。
 
 
 
 
「天照シークレットツアー」、まだまだ続きます。
次回から、舞台は、関東地方に移ります。
 
では、そろそろ、二つ目の秘密の扉も開きますね。
 
ギッ、ギギギギ…
 
 
 
 
 

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奈良県にも、「補陀落渡海」に関係していたところが、いくつかあります。

前回書いたように、「出発した所」と「漂着した所」と「作戦会議の所」の3タイプあったと思います。

 

まずは、「補陀落渡海」には、あまり関係ないのですが、奈良県において、私が歴史的に見て、重要だと思う所に行った話も、簡単に書いておきます。

これらの場所の詳しい説明は、いつか、別の機会に書こうと思います。

 

 

 

まずは、奈良県葛城市にある、「當麻寺」に行った話題です。

 

天の降る中、レンタカーを借りて、ここまで運転しました。

ここには、以前から行きたいと思っていたのですが、ようやく行くことができました。

私の名前、「トーマ」と音が似ているので、ずーと気になっていた寺です。

 

 

門の前です。

 

 

 

どこから高校生たちだと思うのですが、もしかしたら、修学旅行で来ていたのだと思います。

 

 

 

だいたい、修学旅行で、京都や奈良を訪れても、その頃は、それほど歴史の知識がないので、友達とのおしゃべりばかりが、思い出になりますね。

それから、大人になり、歴史に詳しくなってから、再訪すると、まったく別の景色に見えて、

 

「ここって、こんな凄い場所だったんだ~!」

 

と驚くというのが、多くの人の典型的なパターンだと思います。

 

 

 

「三つ巴」の瓦もありました。

 

 

 

金堂という建物の中には、土で造られた巨大な仏像がありました。

撮影禁止なので、内部の写真はありませんが、ここで大きな気づきがありました。

これについても、別の機会に書こうと思います。

 

 

 

 

境内には、立派な三重塔もありました。

 

 

 

 

 

 

奈良県葛城市の周辺は、「天照派」の拠点だった所です。

南北朝時代の「南朝」でもありました。

 

この地図を見ながら、面白そうな名前の神社や寺探して、それから、ブラブラまわりました。

「ブラタモリ」よりも面白いと言われている、「ブラトーマ」です。(笑)

 

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「當麻寺」からすぐ近くに、相撲の開祖と言われている人物に関わっている、「當麻蹴速の塚」もありました。

 

 

 

 

 

 

 

祠です。

 

 

 

「三つ巴」の瓦なので、もしかしたら、「相撲」にも、「天照派」が関わっているかもしれませんね。

そういえば、この格闘技は、刀で斬り合って、殺し合わなくて済みますね。

平和的な解決を好む、「天照派」が好んだ闘技だったのかもしれません。

 

 

 

相撲館にも立ち寄りました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

建物の中には、正式な土俵と同じ大きさのものが、造られていました。

土俵に上がって、相撲の「ハッケヨイ!」のポーズをとってみました。

「相撲」や「土俵」には、とてつもない秘密があることに、最近気づいたのですが、これも別の機会に詳しく書きますね。

 

 

 

壁には、いろいろな絵が展示されていますが、一番興味深いと思ったのが、この絵です。

なんと、織田信長が、相撲を見物している絵です。

ちなみに、信長も密かに、「天照派」のグループだったようです。

 

 

 

 

他にも、面白そうな名前の神社や寺などを、ぶらぶらまわりました。

ここから、車でちょっと行った所に、「二上山」があります。

 

 

 

そして、その山の登山口には、「二上神社」がありました。

 

 

 

名前からして、「イザナギ」と「イザナミ」の二柱の神様を祀っていると思いました。

 

 

 

広い境内です。

 

 

 

いろいろな説明も書かれていました。

興味深いですね。

 

 

 

 

 

 

 

拝殿には、「龍」の絵が飾られていました。

 

 

 

五本指なので、中国の龍ですね。

 

 

 

やはり、ここも、「天照派」の拠点だったみたいです。

「三つ巴」、それから、「日食」を意味する、「日」と「月」のシンボルがありました。

 

 

 

 

 

 

ここらから近くにある、「たなばた神社」という神社にも行きました。

 

 

 

「彦星の木」と「織姫の木」がありました。

「イザナギ」と「イザナミ」ですね。

「滝君」と「三葉」でもありますね。

 

 

 

 

「笛吹神社」という神社にも、立ち寄りました。

正式には、「葛木坐火雷神社」といいます。

旧忍海郡14ヶ村の総鎮守社という説明がありました。

「海を忍んで渡った」という意味ですね。

 

 

 

正式には、「葛木坐火雷神社」といいます。

「雷」の文字は、「イザナギ」と「イザナミ」の長男だった、「別雷命」の名前と関係していると思います。

 

ネットで調べると、「旧忍海郡14ヶ村の総鎮守社」という説明がありました。

「海を忍んで渡った」という意味ですね。

おそらく、「補陀落渡海」の作戦会議の場でもあったのだと思います。

 

 

 

さらに調べると、「旧忍海郡14ヶ村の総鎮守社」という説明がありました。

意味深ですね。

「海から人目を忍んで渡った」という意味ですね。

おそらく、「補陀落渡海」の作戦会議の場でもあったのだと思います。

 

 

ここから、車でちょっと走った所に、この名前の駅もありました。

 

 

 

境内は、広いのですが、あまり説明書きがありません。

いきなり行っても、この神社の意味は、わからないだろうと思います。

 

 

 

「三つの祠」が並んでいたりして、所々に、「天照派」の痕跡も残っていました。

「三つの祠」は、「三つ巴」を暗示しているようです。

 

 

 

 

ここから、車でちょっと行った所に、「鴨都波神社」もあります。

 

 

 

詳しいことは、省略しますが、「鴨」は、「イザナギ」と「イザナミ」の生んだ38人の子供たちと、その子孫の意味だそうです。

つまり、「天照派」のことです。

 

 

 

だから、この名前は、

 

「鴨(天照派)の人々、つまり、都(三八子)の子孫が、波を越えてやってきた所」

 

こうなるのです。

 

「補陀落渡海」の意味なのです。

 

 

拝殿です。

 

 

 

「拝殿に向かって90度の所に、本当の御神体がある」

 

とも言われています。

 

そこには、三つの祠がありました。

 

 

 

そして、これです!

 

 

 

裏側から見たほうが、よくわかると思います。

 

ハイ!

 

「補陀落渡海の小舟」ですね。

黒い石なのは、「黒潮」の意味だと思います。

 

 

 

 

 

奈良県御所市にある、「葛城一言主神社」という神社にも、立ち寄りました。

 

 

 

 

 

ここは、以前から、

 

「面白い名前の神社もあるんだな…、どういう意味だろう?」

 

と思って、気になっていた所です。

 

調べてみると、

 

「いいことも、悪いことも、全てのことを、一言で言いきってしまう神様のいた所」

 

こういう説明をされています。

 

これでは、何がなんだか、わかりませんね。

 

 

もう少し詳しく説明しているサイトを読むと、「古事記」に登場する話だそうです。

 

雄略天皇が、葛城山へ鹿狩りをしに行ったとき、紅紐の付いた青摺の衣を着た、天皇一行と全く同じ恰好の一行が、向かいの尾根を歩いているのを見附けた。

 

雄略天皇が、名を問うと、

 

「吾は悪事も一言、善事も一言、言い離つ神。葛城の一言主の大神なり」

 

と答えた。

 

天皇は恐れ入り、弓や矢のほか、官吏たちの着ている衣服を脱がさせて、一言主神に差し上げた。

 

一言主神は、それを受け取り、天皇の一行を見送ったとある。

 

これも、よくわからない話です。

 

古文書などが、読んでいても、あまり面白くなく、ほとんどの人が、興味をもてないのは、このように、言いたいことが、ハッキリと書かれていなくて、本当の意味がわかりにくいからだと思います。

 

理由は、書いた人たちが、いろいろな事情で、当時の権力者に、その真意を知られたくなくて、暗号のようにして、真意を隠したのだと思います。

 

だとしたら、「一言主」の意味は、何でしょうか?

 

「おそらく、結論は、とてもシンプルな意味なんだろうな? 本当に本当は、何が言いたいのかな?」

 

こう思いながら、境内を歩き回り、その暗号を解こうとしました。

 

 

参道には、祠がありました。

 

 

 

この祠に、一応、「三つ巴」のマークがあったので、「天照派」の拠点だったらしいことは、わかりました。

 

 

 

階段を登っていきました。

 

 

 

拝殿です。

 

 

 

 

 

掲げられている文字です。

 

 

 

 

二体の像がありました。

この二人は、「イザナギ」と「イザナミ」なんじゃないかな?

 

 

 

 

境内を歩きながら、いろいろな可能性を考えたのですが、なかなか、その意味がわかりませんでした。

 

途方に暮れて、

 

「やっぱり、わからない…、まあ、いつの日か、この謎が解ける日もくるだろう…」

 

こう思いながら、半分諦めて、神社から出ようとした時に、入口の鳥居の文字を、もう一度見てみました。

 

 

 

草書体のように、文字が、少し崩して書かれていました。

 

 

 

 

これを見て、ようやく、この神様の本当の意味が、わかりました。

 

「一言」

 

この崩された文字を、もう一度、細かく見てください。

 

 

「一」

 

 

 

「二」

 

 

 

「三」

 

 

 

ちょっとわかりずらいけど、「一ニ三」の文字が暗号のように、入っていたのです。

 

「一言」=「一ニ三」

 

こうなるのです。

 

ハイ!

 

「一二三(ひふみ)神示」=「日月(ひつき)神示」

 

でしたね。

 

そうです。

 

「一言主」=「一二三主」=「日月主」

 

こうなるのです。

 

 

つまり、

 

「日月(天照派)の主(リーダー)が、拠点にしていた場所」

 

これが、この神社の意味だったのです。

 

昔、ここでも、「天照大神」に象徴されるような、「愛と平和のグループ」である、「天照派」が、「補陀落渡海」の作戦会議をやっていたのだと思います。

いやー、面白いですね!

 

 

 

次回から、この旅行記も、いよいよ佳境に入ります。

そろそろ、秘密の扉を開けていきましょう。

 

今回の旅では、二つの扉を開けます。

 

まずは、一つ目の扉を開けますね。

 

ギッ、ギギギギ…

 

 

 

 

 

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先月も、「補陀落渡海」の調査で、関西と関東をまわりました。

 

関西では、大阪、和歌山、奈良を主にまわりました。

特に、奈良県には、いろいろな痕跡が残っていました。

この時の旅行について、少しづつ書いていきますね。

 

 

 

最初は、大阪の話題です。

 

基本的には、「補陀落渡海」は、和歌山県の那智から、始まっているのですが、そこだけでなく、四国の高知県足摺岬のあたりなど、複数の場所で、行われていたようです。

 

大阪や奈良にも、その痕跡が残っているのですが、それらの痕跡は、補陀落渡海の出発地だった所もあれば、前回書いたような「黒潮ロード」には乗らずに、別の潮流で流れ着いた漂着地、もしくは、そもそも、補陀落渡海を計画していた陰のフィクサーである、聖徳太子の作戦会議室だった所もあると思います。

 

だから、私は、関西地方には、これらの3タイプの場所があったと推測しています。

 

 

今年になってから、「空海 KU-KAI 美しき王妃の謎」という映画を観たのですが、冒頭のシーンで、「遣唐使船」が、日本海で嵐に遭遇して、大変な航海をやっている場面が、目に飛び込んできました。

 

 

 

学生時代、授業で習ったのは、

 

「遣隋使船や遣唐使船は、日本海の荒波で遭難した船が多く、無事に日本に帰国できた船は少なく、帰還率は6割くらいだった」

 

という話でした。

 

 

しかし、この話は根本的におかしな話です。

 

そもそも、日本を代表するようなエリートであり、将来有望な若者を、沈没する確率が、4割もある船旅に行かせるでしょうか?

 

わかりやすく、現代風に言い換えると、

 

「海外留学に行きませんか? そのかわり、往復の飛行機は4割くらい墜落して、乗客は全員墜落事故で死にます。それでも日本の将来のために、留学してくれませんか?」

 

こう言われて、その海外留学に行く学生がいるかという話です。

誰もいないと思います。

 

 

これが、遣唐使船です。

けっこう頑丈にできていますね。

 

 

 

そうなのです。

「遣隋使船」や「遣唐使船」も、「補陀落渡海」だったのです。

 

「天照派」の多くが、僧侶になり、お寺を住処にしていた時に、お隣の中国にも、大量に亡命していたのだと思います。

 

「日本には、もう居場所がない。大陸に行って、新天地で生まれ変わって、人生をやり直そう!」

 

こう思った人々が、乗船したのが、これらの船だったのだと思います。

「空海」は、その引率者としての役割もあったのかもしれません。

 

だから、大阪や奈良のお寺や神社は、このための作戦会議室も、いくつか存在していたのだと思います。

 

 

 

先月の関西旅行では、大阪行きは、いきなり決めていったのですが、数名の友人が同行してくれました。

 

 

ご存知のように、大阪は川が多いです。

だから、「補陀落渡海」に関係していたと思われる寺や神社も、たくさんあります。

 

大阪では、いろいろ調べた結果、大阪府堺市あたりにも、これに関係していそうな寺を、いくつか見つけたので、そこにも行ってみました。

 

 

 

 

その中の一つの寺を紹介しますね。

 

 

着いてすぐに、門の前で記念撮影しました。

 

 

 

「瓦」は、やはり、「三つ巴」でした。

 

 

 

名前にも感動しました。

「月蔵寺」ですね。

 

「月」+「蔵」+「寺」=「臓寺」

 

つまり、日本において、「臓器のような役割をしていた大切な寺」

 

という意味です。

 

 

 

さらに、「青陽山」という文字にも、注目してください。

「お日様の光」、つまり、「陽」の色は、普通は、黄色や白、もしくは、オレンジや赤のイメージだと思います。

それが、「青」だと書かれているのです。

 

そうです。

太陽の光が、青くなる瞬間がありますね。

「日食」の時の「ダイヤモンリング」です。

 

 

 

つまり、この寺こそ、古代において、「天の岩戸開き」の象徴である、「日食」を暗号とするグループが集まっていた所なのです。

 

「青陽山」の「山」は、「領地」の意味も含みますね。

つまり、「天照派」の拠点だった所だということです。

 

おそらく、ここで、「補陀落渡海」の作戦も、練っていたのだと思います。

さらに、ここから、小舟を出したり、和歌山などからの小舟を、受け入れたりもしていたのかもしれません。

 

 

門の上の彫刻を見て、大感動しました~!

 

 

 

見てください!

静岡県の「久能東照宮」に刻まれているものと、同じですね。

 

 

 

前回の記事で紹介した、「司馬温公の甕割り」の絵ですね。

 

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こういうことが、わかってくると、お寺をまわるのが、何倍も楽しくなります。

 

 

 

門をくぐって、境内を探索しました。

庭には、「復活」の象徴である、「蘇鉄」もありました。

 

傑作なのは、この寺の前には、製鉄所もあるのです。

何か深い意味でもあるのかな?(笑)

 

 

 

根本には、「鬼瓦」もありました。

「鬼=大丹生=天皇家」でしたね。

 

 

 

屋根の鬼瓦は、顔が鬼で、身体が蛇、つまり、「宇賀神」を表現していました。

「天照派」の始祖である、「イザナギ」ですね。

 

 

 

 

境内にある祠にも、「宇賀神=エンキ=イザナギ」の神様が祀られていました。

 

 

 

 

「小舟」の石碑も、目に飛び込んできました。

 

 

 

「この石碑があるところは、全て、補陀落渡海に関係している所である」

 
とは言えませんが、逆は言えます。
 
「補陀落渡海に関係している寺や神社には、ほぼ間違いなく、この石碑が置かれている」
 
こういうことです。
 
 
 
 
さらに、本堂には、この文字も掲げられていました。
 
 
 
ハイ!
 
「補陀落渡海の小舟」の絵ですね。
 
 
 
静岡県の「海長寺」にあった絵と同じですね。
 
{A0244056-879D-4A8B-A31C-9DF8270FEF37}
 
 
 
 
さらに、境内の一番目立つ所には、「小舟に乗った僧侶」の石像が、建っていました。
 
 
 
裏から見ると、わかりやすいですね。
土台の石たちが、黒色なのは、「黒潮」を表現しているからだと思います。
 
 
 
横から見ると、「一天四海皆帰妙法」と書かれている文字を、読むことができます。
 
「一(はじまり)の天(天の神様)であるイザナギが、四方に散らばった子供たちの子孫が、皆で無事に帰ってくるように、補陀落渡海という不思議な法力を使って救済した」
 
私の目には、そう書かれているように見えました。
 
 
 
和歌山の補陀落山寺から、沖へ出ていく小舟を、模型や人形で表現したものです。

小舟の上に、一人の僧が乗っていますが、実際には、その下のテントのような木箱に釘を打たれ、閉じ込められていました。

 

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寺の境内をまわり終えた後、記念撮影しました。
 
 

 

大感動の寺巡りでした。

 

 

 

最後に、近くのカフェで、3人でお茶しました。

とてもいい店でした。

その時に、私の本、第二巻の打ち合わせもしました。

 

 

 

大阪セミナーの翌日、JR大阪駅の近くのカフェでも、いきなりの告知にも関わらず、何名かの友人たちが集まってくれました。

「現代版の補陀落渡海」の話題で、大盛り上がりでした。

楽しかったですね~!

 

 

 

いつも泊まる大阪のホテルからの景色です。

 

 

 

 

次回から、舞台は、奈良県に移ります。

だんだん、日本史の秘密のベールを、ゆっくり剥がしていきますね。

 

 

 

 

 

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房総半島の旅では、「千葉神社」にも、立ち寄りました。

境内には、「千葉天神」という神様が、祭られていました。

 

そこで、気が付きました。

 

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「千葉」という文字を見ていたら、「千葉」の「千」という文字の縦線を、横に並べ替えてみたのです。

 

すると…

 

「三葉天神」になるではないですか!

 

わかりましたか?

大ヒットしたアニメ、「君の名は。」の主人公の女の子、「三葉」です。

 

 

そして、和歌山県の那智の「補陀落山寺」の近くには、「那智の滝」がありますね。

もう一人の主人公の男の子、「滝君」ですね。

 

つまり、

 

「那智の滝」 ⇒ 「千葉」

 

これが、「黒潮ロード」の暗号だったのです。

 

「滝君が三葉に会いに行った」

 

こういう意味になるのです。

 

 

アニメ映画の「君の名は。」です。

これも、「イザナギ」と「イザナミ」の二人の話を、現代風に描き直したのだと思います。

 

{9326880D-F524-4023-8FC6-8F65123E30A5}

 

 

そういえば、このアニメの監督の名前は、「新海」でしたね。

 

「新天地を目指して、海を越えて行った人々」

 

この名前には、この意味も入っているかもしれませんね。

 

これは、全て偶然でしょうか?

 

いや、違います。

 

そもそも、

 

「偶然は神である」

 

というのが、この世界なのです。

 

 

そして、「千葉神社」の神紋です。

 

image

 

 

これの意味を、いろいろ考えてみたのですが、これは、「太陽」と「月」を表現している意味も、含んでいると思います。

 

古代史においては、歴史の期間が長いので、その間に、いろいろな出来事があり、意味も一つではなく、重層的に複数の意味が重なっていることも、多いのです。

 

そして、「太陽」と「月」の二つで行われる天体ショーが、「日食」なのです。

「日食」とは、光が闇に隠れて、再び光出す現象ですね。

 

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ハイ!

 

「天の岩戸開き」ですね。

 

「天照派の拠点だった所」

 

という意味です。

 

 

 

特筆すべきことがあります。

 

私は、「補陀落渡海」を調べていて、

 

「九十九里浜のあたりから、日光まで歩いて移動した時は、大変な道のりだったに違いない」

 

と思っていたのですが、実際には、小舟で流れに逆らいながらも、上流へと向かうことができたようです。

もしかしたら、追い風の時には、とても楽に行けたのかもしれません。

 

 

現在の千葉県銚子市のあたりから、栃木県日光市まで、古代においては、「香取浦」という大きな湾と無数の川があり、なんと、太平洋から、「日光」のあたりまでは、「鬼怒川」を使って、舟で一気に行くことができたようです。

 

「熊野」 ⇒ 「日光」

 

この間は、小舟で行けたということです。

 

1000年前の想像図だそうです。

 

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「補陀落渡海」の僧たちが、後に、「補陀落寺」を建てた場所は、この川沿いが多いですね。

こうやって、地形で推測すると、かなり正確な歴史が把握できますね。

 

 

今年の春、黒潮の流れから、千葉県の銚子市のあたりに、何かありそうだと思い、仲のいい友人を誘って行ってきました。

 

海から歩けるくらいの場所に、「熊野神社」もありました。

 

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「どうして、千葉県の銚子市に、紀伊半島の熊野神社があるのか?」

 

ほとんどの人は、こんなことは、考えもしないでしょうが、「補陀落渡海」を知っていれば、その理由がわかりますね。

そうです。

ここにも、一人の僧が乗った小舟が、辿り着いていたのです。

 

 

この拝殿の横に、ズラーッと並んだ祠がありました。

その数、17です。

そして、その側に、階段があり、ちょっと上がった所に、もう一つだけ、祠がありました。

17の祠と、階段の上の1つの祠合わせて、18ですね。

 

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それから、正面にある、1つの拝殿を合わせると…

 

17+1+1=19

 

こうなります。

この祠は、19組の夫婦を表現しているのです。

つまり、イザナギとイザナミの38人の子供たちです。

拝殿は、その中でも、特別な夫婦、「別雷尊」と「玉依姫」だと思います。

 

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大感動しました~!

熊野から太平洋を隔てた、こんな遠い地に、ちゃんと、38人の子供たちの子孫は、生き延びて、この新天地で、新しく生活を始めた証拠が、この神社なのです。

 

 

銚子の旅の途中に、見つけた神社です。

こんな名前の神社があったなんて、初めて知りました。

 

その名も、ズバリ、「渡海神社」です!!

そのまんまじゃないですか~!!

 

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そして、これです。

 

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同行した友人と一緒に、

 

「うわ~~~!!!」

 

と、感動して、大声で叫びました!

 

 

わかりましたか?

これが、この神社の御神体なのです。

 

ハイ!

「補陀落渡海」の小舟ですね。

海を渡って来た小舟が、この神社には、御神体として、祀られているのです。

 

image

 

 

正面からです。

下にある黒っぽい岩は、「黒」の波」を、表現しているのかもしれません。

 

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後部からの撮影です。

補陀落渡海の小舟の後部とソックリです。

 

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静岡県にも、「補陀落渡海」の痕跡は残っています。

 

「補陀落渡海」に関係ありそうな名前を気を付けて見ていると、このお寺も目に留まりました。

「海長寺」という名前です。

 

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場所は、静岡市内で、清水港から歩いてすぐの場所です。

 

私は、これを見て、

 

「長い海の航海を経て、辿り着いた場所」

 

瞬時に、こう解釈しました。

 

何度も書いているように、「天照派」は、大々的には、メッセージを伝えません。

暗号のように、わかる人だけに、わかるように、メッセージを伝えるのが、彼らのやり方なのです。

 

 

境内には、大きな「ソテツ(蘇鉄)」がありました。

 

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「ソテツ(蘇鉄)」という名前を調べると、

 

「枯れかかったときに、鉄クギを打ち込むと、よみがえる」

 

というのに由来しているそうです。

 

「鉄を受けると元気になる(蘇鉄)」という伝承から、今でも、茎に、クギを打ち込んだり、根もとに釘をばらまいているものも、多いそうです。

 

まさに、「補陀落渡海」の象徴ではないですか!

 

「小舟に乗り込み、四方八方から釘を打たれ、鉄の箱のよう閉じ込められ、出られないようにされ、海の彼方で、死ぬことにした。しかし、実際には、その後、黒潮に乗り大海を漂い、遠くの土地の浜辺で、仲間から救助され、新天地で生まれ変わったように蘇り、第二の人生を歩み始めた」

 

こういうことです。

 

「ソテツ(蘇鉄)」=「補陀落渡海」

 

こういう方程式ができました。

 

 

境内の奥のほうに、不思議な形をした石碑のようなものが、目に留まりました。

 

{3CBB9137-933B-4243-AEF9-A85628241E1E}

 

 

「なんだろう?」

 

こう思って、近づいてみました。

先ほどの看板にもありましたね。

下の方に、金色で描かれた絵のようなものを見てださい。

 

 

最初は、

 

「古代文字かな?」

 

と思ったのですが、だんだん、この絵の意味がわかってきました。

 

もうわかりましたね?

 

小舟に乗った、一人の僧の絵です。

袈裟を着ているようにも見えますね。

 

寒くて寂しい、太平洋の真ん中で、小舟の箱の中から、微かに息をしている姿かもしれません。

 

そうです。

これは、「補陀落渡海」の絵だったのです!

 

{A0244056-879D-4A8B-A31C-9DF8270FEF37}

 

 

「うわ~~!!」

 

同行していた友人と二人で、この石碑の前で、またまた叫んでしまいました!

 

 

 

 

この寺から、ちょっと離れた所に、「久能山東照宮」があります。

 

「久能山東照宮」を、ネットでも調べてみました。

すると、こういう記述がありました。

 

〇「久能山東照宮」について 

 

久能山の歴史

 

遥か遠い昔、この山は観音菩薩の霊場とされ、観音信仰の聖地でした。

久能山の歴史、「久能寺縁起」によると、推古天皇の御代(7世紀頃)、秦氏の久能忠仁が、初めて山を開き一寺を建て、観音菩薩の像を安置し、「補陀落山久能寺」と称したことに始まります。

久能山の名称も、ここから起こりました。

 

なんと、ここは、元々の名前は、「補陀落山久能寺」だったというのです!

 
7世紀頃だから、「聖徳太子」の時代です。
しかも、創建者は、「秦氏」です。

 

見事に繋がりましたね~!
驚きました。
なんでも調べてみるものですね。
 
 
他も、こういう説明も見つけました。
 
〇「久能山東照宮と日光東照宮の違い」
 
「日光東照宮」は」、徳川秀忠や家光が陰陽道などにのっとって、江戸の守り神として、神格化した徳川家康の遺体を、安置させるために作られたもの。
「久能山東照宮」は、徳川家康が静岡で亡くなり、遺言により作られたもの。
つまり、日光は、親孝行で作られたもの、久能山は、家康自身の希望場所である。
 
なるほど、わかりやすいですね。
 
 
入口の門の前で、記念撮影しました。
 
{5DFFA115-91C9-4FA8-9E24-5190545436C8}
 
 
この看板を見て、ビックリしました!
わざと、草書体で、くずして書いていますね。
 
パンフレットでは、
 
「東照大権現」
 
という説明ですが、違うと思います。
 
「天照大権現」
 
こう書かれているのだと思います。
もしかしたら、昔は、「草書体」というのは、このように、「暗号」のような役割をしていたのかもしれませんね。
 
{5C70B28D-C788-41EA-9F33-08D2AAEA5E0D}
 
 
 
「徳川家康」の手形がありました。
意外と、小柄だったのですね。
身長、155センチ、体重、60キロだったのですね。
私は、「38歳」という年齢が、やたらと気になりました。(笑)
 
{54B0BC56-2937-4149-9F94-E35141BA1605}
 
 
拝殿で、参拝しました。
 
{90449BC3-2B30-4D71-ABE1-5D81FC3087AB}
 
 
こういう所には、密かに目立たない所に、本当にメッセージ性のある模様や絵などが、刻まれていたり、描かれていることが多いです。
 
驚いたのが、この彫刻です。
同行した友人と、驚嘆しました。
見てください!

 

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わかりましたか?

これを、わかりやすくした絵を、入手しました。

 

{388D2BA5-E57D-4FDD-A497-72F4B4086512}

 

 

一般向けの説明文には、こう書かれています。

 

「家康公からの伝言」

 

この絵は、「司馬温公の甕割り」の絵です。

 

古代中国の有名な政治家、司馬温公が、7歳の時のある日、友人と遊んでいましたが、友人が誤って、水を一杯張った水瓶に落ちてしまいます。

「このままでは、友人が溺れ死んでしまう」と思った温公さんは、機転を利かし、水瓶を割ることによって、友人を助けることができたというお話です。

 

家康公からの伝言は、「命を大切にせよ」です。

 

 

どうですか?

これを読んで違和感を感じませんか?

 

「江戸時代」という凄い時代を創り上げ、日本とう国家の基礎も創り上げた、超偉大な人物の眠る聖地、さらに、そこの一番大切な拝殿の真ん中に、こんな子供でもわかるような逸話の絵なんて、描かないと思いませんか?

 


もうわかりましたね。

そうです。

これは、「補陀落渡海」の絵です。

 

おそらく、熊野から静岡の浜辺に打ち上げられた小舟から、一人の僧を、二人の仲間が救出している場面だと思えば、しっくりくると思います。

 

中国風の服装や髪形は、カムフラージュです。

私は、この髪形は、「二本角」、つまり、「鬼=大丹生=天皇家」を表現していると思います。

 

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小舟の上で、鉄の箱のように釘打ちされた板を、仲間が、こじ開け、浸水していた海水と一緒に、ドバ~!という音とともに、補陀落渡海の僧が、箱から出てきている場面だと思います。

 

 

もう大感動でした。

 

同行した友人と一緒に、何度も、何度も、

 

「凄いね~! 凄いね~!」

 

と言い合って、この発見を喜び合いました。

 

 

「補陀落渡海」

 

やはり、これが、日本史における最重要な出来事だったのです。

 

 

 

そして、これは、ダジャレで、オヤジギャグになりますが、

 

「家康」=「イエス」

 

こういう話もあります。

 

「家康」 → 「いえやす」 → 「いぇーやす」 → 「いえす」

 

「徳川家康」=「イエス・キリスト」

 

つまり、同じ魂グループだったということです。

おそらく、「聖徳太子」も、そうだと思います。

 

「イエス・キリスト」 → 「聖徳太子」 → 「徳川家康」

 
こうやって、同じ魂が、この三者の間を、繰り返し、転生していたのかもしれません。
だから、この三者とも、「神人」なのです。
 
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次回から、いよいよ本格的な旅行記が始まります。
お楽しみに!
 
 
 
 
 

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絶対平和主義で、他人への攻撃ができないために、弾圧されたり、冷や飯を食わされていた、「天照派」の人々は、西日本で、閉塞状態になっていたようです。

 

陸地から、東日本を目指そうと思っても、要所には、関所のようなものがあり、見張り番がいたと思います。

 

そもそも、仮に、東日本に行っても、荒れた僻地だったので、行っても、そこでは、過酷な生活が待っていることは、明白だったと思います。

 

それでも、西日本に住んでいても、これから先、永遠に苦しい生活が続くのは、目に見えていました。

 

「よし! 凄い冒険になるかもしれないけど、東日本に移住して、新しい土地で、新しい時代を築いていこう!」

 

ある時、こう決意したのだと思います。

 

海から、東日本を目指そうと思っても、そんなに遠くまで行こうと思ったら、大きな船を造船しないといけなし、そんな技術もお金もなかったので、途方に暮れていたようです。

 

 

そんなとき、一人の救世主が現れます。

 

「聖徳太子」

 

この人物が、助けたのです。

聖徳太子の登場で、日本史の中で、最高にスリリングなドラマが、始まったのです。

 

救世主というのは、「天照派にとっての救世主」という意味です。

 

私は、「聖徳太子=キリスト説」を、主張していますが、まさに、日本においては、聖徳太子が出現する前と後では、西洋での「紀元前(B.C)」と「紀元後(A.D)」に分かれるくらいの時代の大変化だったのです。

 

聖徳太子というのは、この大プロジェクトを実行するために、日本に誕生したのだと思います。

 

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彼らにとっては、「西日本」は、まるで、監獄にいるように、不自由な土地でした。

 

そこで、新天地の「東日本」への脱出を試みたのです。

いよいよ、ここから、「プリズンブレイク」の古代日本版が、始まったのです!

 

 

 

前回紹介した、「熊野権現神社」の神社の隣に、日本史における、最重要な寺があります。

 

「補陀落山寺」という小さなお寺です。

「世界遺産」でもある重要な場所です。

 

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本堂の前で、記念撮影しました。

 

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「補陀洛山寺」は「補陀落渡海(ふだらくとかい)」の出発点だったことで、知られているそうです。

私は、この渡海のことは、全く知りませんでした。

 

 

ネットで調べると、こういう説明が出てきます。

 

 

「補陀落(ふだらく)」とはサンスクリット語の「ポータラカ(Potalaka)」の音訳で、南方の彼方にある、観音菩薩の降臨する霊場であり、観音菩薩の降り立つとされる伝説上の山である。

その山の形状は、八角形であるという。

インドの南端にあるとの説から、その土地は、スリランカだという説もあった。

 

観音信仰とともに、チベットや中国にも、「補陀落」は、想定されたようです。

チベットでは、ラサ北西に建つ、観音の化身、「ダライラマ」の宮殿を、「ポタラ(補陀落)宮」と呼び、中国では舟山諸島の2つの島を、「補陀落」としたようです。

 

日本においては、南の海の果てに、「補陀落浄土」はあるとされ、その南海の彼方の補陀落を目指して、船出することを「補陀落渡海」と言ったそうです。

そして、この信仰を広げたのが、前述した、聖徳太子だったのです。


日本国内の補陀落の霊場としては、那智の他に、高知の足摺岬、栃木の日光、山形の月山などがあったそうです。

 

記録に残された40件ほどの補陀落渡海のうち、半数以上が、この熊野那智で行われています。

熊野は、補陀落渡海の根本道場といってもよい場所だったようです。

 

聖徳太子の時代から、江戸時時代まで、これは、行われていたそうです。

 

 

チベットの「ポタラ宮殿」とも関係してたのですね。

そういえば、チベットも絶対平和主義の人たちが多く、そのために、迫害されていますね。

日本の「天照派」と、同じルーツだと思います。

「ポタラ宮殿」の地下は、地底王国の「チャンバラ」があると言われていますね。

 

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「補陀落山寺」の本堂の中には、当時の様子を描いた絵もありました。

 

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ネットで調べると、こういう説明が出てきます。

 

 

那智の浜からは、25人の観音の信者が、補陀落を目指して、船出したと伝えられています。

 

補陀洛山寺境内にある石碑に、それらの人々の名が、刻まれています。

 

平安前期の貞観十年(868)の慶龍上人から、江戸中期の亨保七年(1722)の宥照(ゆうしょう)上人まで25人。

平安時代に5人、鎌倉時代に1人、室町時代に12人(そのうち11人が戦国時代)、安土桃山時代に1人、江戸時代に6人。

補陀落渡海の多くは11月、北風が吹く日の夕刻に、行われたそうです。

 

渡海僧は当日、本尊の千手観音の前で、読経などの修法を行い、続いて隣の三所権現を拝し、それから船に乗りこんだとも伝わっています。

 

渡海僧は、30日分の食料と灯火のための油を載せて、小さな屋形船に、乗りこんだそうです。

 

 

説明は、さらに、このように続きます。

 

 

渡海僧が、船の屋形のなかに入りこむと、出て来られないように、扉には、外から釘が、打ちつけられたそうです。

 

渡海船は、白綱で繋がれた伴船とともに、沖の綱切島あたりまで行くと、綱を切られ、あとは波間を漂い、風に流され、いずれ沈んでいったものと思われる。


渡海僧は、船が沈むまでの間、密閉された暗く狭い空間のなかで、かすかな灯火を頼りに、ただひたすらお経を読み、死後、観音浄土に生まれ変わることを願い、そして、船は沈み、入水往生を遂げたのでしょう。

 

船のしつらえや渡海の方法などは、時代により異なるのでしょうが、補陀落渡海とは、いわば生きながらの水葬であり、自らの心身、を南海にて観音に捧げる、捨身行だったのでした。

 

 

こう書かれています。

これが、一般的な認識です。

 

 

境内には、この石碑があり、名前も刻まれていました。

記録に残っているだけの名前です。

実際には、もっと多くの人が、この渡海をやっていたと思います。

 

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渡海僧が乗りこんだ船を、復元したものが、境内にある建物のなかに、展示されています。

 

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奇妙な形をした小さな船です。

船の上には屋形が、作られています。

その屋形の前後左右を、4つの鳥居が囲んでいます。

 

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人が、一人だけ入ることができる、テントのような小屋がありました。

前述したように、ここに、僧侶が一人だけ入り、外からは、釘が打たれ、中から出られないようにしていたそうです。

 

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もちろん、現在のようなスクリューなどはなく、櫂も帆もなかったそうです。

だから、一度、海に出たら、クラゲのように、ただ漂うだけだったのです。

 

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ここからが、いよいよ本番です!

 

「補陀落渡海」は、このように、昔も現在も、狂信的でカルトっぽい儀式だったと、世間一般では思われています。

 

しかし、よく考えてください。

 

こういう、「即身成仏」の行為をやる意味は、何なのでしょうか?

ましては、何のために、わざわざ、海の彼方に行って、死ぬ必要があったのでしょうか?

 

ただ死ぬだけのために、これをやっていたとしたら、ただの馬鹿だと思います。

 

 

勘の良い方は、もうわかりましたね。

 

そうです。

 

「西日本」から「東日本」への脱出が、真の目的だったのです!

 

「空と海の彼方の極楽浄土へ行くために、舟に乗って、太平洋の彼方に行き、そのまま沈没して、海の藻屑となり、即身成仏する」

 

というのは、「神武派」たちのグループの目を、ごまかすための偽りの儀式だったのです!

 

 

本当のことは、隠されていました。

 

実際には、こうだったようです。

 

途中まで、付き添いの数隻の舟が、綱を引っ張り、途中の小島から、突き放したようです。

 

「よ~し! 行ってこ~い!」

 

こう叫んだかどうかは、わかりませんが、沖の向こうまで、その小舟を流したそうです。

 

 

すると、浜辺から4キロくらいの所に、当時から、「黒潮」が流れていたのです。

この「黒潮ロード」に乗れば、それは、大きな河のような流れで、「東日本」まで運んでくれたのです。

 

ちなみに、黒潮の最大流速は、最大で4ノット(約7.4km/h)にもなり、軽くジョギングしているくらいのスピードなので、1週間以内では、確実に、「東日本」にある、どこかの浜に漂着したと思います。

 

そして、当時から、忍者のような存在たちがいて、秘密裏に、いろいろな手配をして、「東日本」の浜に漂着したら、事前に、その場所に着いていた人々が、打たれていた釘を外し、中から、その僧侶を助けたのだと思います。

 

そして、その背後で、この秘密の脱出劇を、計画して動かしていたのが、「聖徳太子」のグループだったというわけです。

 

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「黒潮」について、いろいろ調べると、面白いことがわかりました。

 

もともと、黒潮は、赤道のあたりから、フィリッピンのあたりの海の流れを、日本に連れてくるそうです。

ただし、いろいろな理由から、沖縄の南西諸島あたりまでは、プランクトンの量が少なく、栄養に乏しいそうです。

 

それが、東シナ海から、「屋久島」の近海を通って、太平洋に流れ込むときに、海流が、その近くにある、「琉球海溝」という深い穴に、落ち込むそうです。

 

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その時の流れで、「急流」ができ、そこから、ジェット状になって、大きな海流の流れができるそうです。

 

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それから、「屋久島」から出た海流は、なぜか、プランクトンの量も、大量に増え、栄養豊富な海流となって、日本列島の太平洋岸を、流れるのだそうです。

 

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これは、私には、

 

「琉球海溝」=「龍穴」

 

「海流」=「海竜」

 

だと感じました。

 

 

つまり、大きな意味では、

 

「黒潮」=「龍神」

 

だということです。

 

日本を守護している「龍神」が、海流となって、日本列島を育んでいるのです。

 

 

左側の緑っぽい色の海が、南西諸島からの海流です。

そして、右側の黒っぽくて青い色の海流が、「黒潮」です。

 

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「黒潮」が、日本列島の海にも陸にも、豊かな自然を与えているのです。

日本においては、この潮流は、神のような存在なのです。

 

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どうですか?

とても面白い話だと思いませんか?

 

「西日本」 ⇒ 「東日本」

 

これを繋ぐメインストリートが、海だったというのは、驚きですね。

しかも、大きな船ではなく、「小舟」だったというのも、ビックリです。

 

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私たちは、歴史においては、必ず、「民族大移動」という大人数でのイメージがありますが、それは、大陸の話です。

 

聖書には、そう書かれていますが、日本では、全く状況が違い、秘密裏に、一人づつ、長い年月をかけての移動だったようです。

 

その期間、聖徳太子の時代から、江戸時代にかけて、なんと、1000年間くらい続いていたそうです!

 

これだけの長い年月をかけて、少しづつ、「天照派」の僧侶、つまり、本当の天皇家の一族を、東日本に逃がし、そこで、おそらく、現地の女性と結婚して、子孫を、広げていくという活動を、していたのだと思います。

 

目的は、「平和」と「愛」の遺伝子を、未来の日本に残すためです。

 

 

西から東に移動したパイオニア達のルートは、研究している学者も、ほとんどいないと思います。

もしかしたら、ここまで、突っ込んで調査してまわったのは、私が初めてかもしれません。

 

まだ、名前も付いていないので、「シルクロード」のように、「黒潮ロード」と名付けようと思います。

 

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余談です。

 

「アカウミガメ」という亀は、子亀の時に、親亀が生んだ卵から生まれると、真っ直ぐに海を目指します。

これは、本能的な行動みたいです。

 

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それから、うまく黒潮までたどり着き、その潮流に乗ることができた亀だけが、生き残り、大人になることができるそうです。

「補陀落渡海」で、大海原に向かって流され、黒潮に乗った小舟は、まるで、黒潮を目指す子亀のように思えてきました。

 

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「補陀落渡海」の痕跡は、東日本にたくさん残っています。

それは、房総半島にも多く存在しています。

 

 

「西日本」から、「小舟」が辿り着いた場所にも行ってきました。

 

ここには、

 

「玉依姫という名前の神様が、陸に上がってきた場所」

 

という伝説が残っています。

 

「イザナギ」と「イザナミ」の38人の子供、その長女の名前が、「玉依姫」でしたね。

つまり、「天照派=大丹生家=天皇家」のグループが、ここから上陸したという意味なのです。

 
 

 

場所は、千葉県の「九十九里浜」です。

 

これも、もうわかりましたね。

 

「九十九人の王子のグループが辿り着いた浜」

 

こういう意味だったのです!

 

 

さらに、この「九十九里」という漢字を分解すると、

 

「九」+「十」+「九」+「十」+「口(くに)」+「土」

 

となり、意味は、

 

「三十八の国土」

 

という意味になります。

 

 

 

着く場所が、どうして、港ではなく、ただのビーチだったのでしょうか?

 

砂浜だからいいのです。

砂浜だと、大きな船は、接岸できません。

沖に錨を下ろして、小舟で来ることになります。

砂浜という地形は、小舟じゃないと、上陸できないのです。

 

大きな船が接岸できる港だったら、すぐに、追っ手に見つかってしまいます。

このプロジェクトは、秘密裏の脱出劇だったことを、忘れないでくださいね。

 

 

昔、ここで、「天照派」の僧侶が、「小舟」から、仲間によって救助されて上陸したと思ったら、大感動でした。

「浜鳥居」という名前だそうです。

 

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思い出してください。

和歌山県の「補陀落山寺」の隣にあった神社にあった案内板のことを。

99番目の王子の拠点、「浜の宮王子社跡」です。
 
「浜の宮王子」⇒「浜の鳥居」
 
こう繋がるのです。

 

海水でビショビショに濡れながら、上陸したのだと思います。

 

 

「九十九里浜」に上陸した後、僧侶たちは、だいたい、このルートを歩いたようです。

 

「浜鳥居」→「神洗神社」→「神埼神社」→「玉前神社」

 

大まかな地図です。

 

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この鳥居から、車で、ちょっと走った所に、「神洗神社」があります。

そこに、「神洗池」という池があります。

真っ先に、ここで、ベトベトに張り付いた海水を洗い流したようです。

 

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それから、「玉崎神社」の辺りで、休憩したようです。

 

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「玉崎神社」の「玉」は、「玉依姫のグループ」だという意味だと思います。

「三つ巴」のマークがありますね。

「天照派」の拠点だった所という証拠です。

 

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房総半島においては、「玉前神社」のあたりに、一旦、落ち着いたグループもいたようです。

 

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拝殿です。

黒色は、珍しいと思います。

いろいろ考えたら、この色は、漆黒の闇、つまり、「宇宙」を表現していると思います。

 

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そう思いながら、拝殿の屋根のあたりを見て、

 

「うわ~~!!」

 

と、大声で叫んでしまいました。

 

「宇宙の源」から、ツインレイである、「イザナギ」と「イザナミ」の魂が、最初は、「繭」のような形から、二つに分かれて、それから、二人の男女になる様子が描かれています。

 

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大感動でした~!

やはり、ここは、「イザナギ」と「イザナミ」の子孫たちの拠点だったのです。

 

 

 

「補陀落渡海」の痕跡は、関東地方には、他にも、たくさん残っています。

最終的には、和歌山県の熊野から渡海したグループは、栃木県の日光のあたりで、落ち着いたようです。

 

 

東日本においては、「天照派」が、「黒潮ロード」に乗って、小舟で漂着した場所が、

 

「千葉県」&「茨城県」&「神奈川県」&「東京都」&「静岡県」

 

主に、この5ヵ所だったようです。

 

それから、「埼玉県」を通って、北関方面の「群馬県」と「栃木県」に向かったのが、大きな流れだったようです。

 

 

京都の「丹後」から始まり、関西を経由して、和歌山県の「熊野」から、小舟で、「東日本」を目指した「天照派」のグループの主なルートを、シンプルに書くと、赤線のようなルートになります。

 

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今年になってから、栃木県の宇都宮市内をまわっていたら、この神社の名前が、目に飛び込んできました。

「二荒山神社」という名前の神社です。

 

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「二荒山神社(ふたあらやまじんじゃ)」と発音するそうです。

 

もうわかりましたね。

 

「補陀洛山寺(ふだらくさんじ)」=「二荒山神社(ふたあらやまじんじゃ)」

 

こうなるのです。

 

この神社は、和歌山県の「補陀洛山寺」と、完全に繋がっているのです。

 

つまり、和歌山県東牟婁郡那智勝浦町の「補陀洛山寺」の僧侶たちは、小舟で、「黒潮ロード」を渡って来て、関東の地へ上陸した後、栃木県宇都宮市にある、「二荒山神社」にも、辿り着いたということです。

 
 
この神社の拝殿の近くの灯篭の中に、不思議なシンボルがありました。
 
なんと、神紋が、「菊の三つ巴」です!
私は、いろいろ調べた結果、この神紋が、日本の古代史において、最重要なシンボルだと思っています。
 
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この神紋は、「三つ巴」と「菊花紋」が、合わさっていますね。
 
「日本という国家の中枢や奥底には、天照派のグループがいますよ」
 
こういう意味だと思います。
凄いシンボルですね~~!!
 
このシンボルは、重要な鍵になるので、よくおぼえておいてくださいね。
 
 
 
それから、しばらくして、別の日に、栃木県日光市にも行きました。
 
ここにも、同じ名前の神社があります。
 
「二荒山神社(ふたらさんじんじゃ)」
 
という神社です。
 
有名な「日光東照宮」の隣にある神社です。
ここにも、「三つ巴」がありました。
 
{2E4D4B81-6DBD-47AB-B7DD-495AFBFE3117}
 
 
 
ここも、和歌山県熊野のお寺と、密接に繋がっているのです。
 
だから、こうなります。
 

「熊野 補陀洛山寺」=「宇都宮 二荒山神社」=「日光 二荒山神社」

 

 

一説によると、「日光」という名前は、弘法大師空海が、この地を訪れた際に、「二荒」を、「にこう」と読み、「日光」の字を当て、この地の名前にしたとも言われています。

 

「補陀洛」→「二荒」→「日光」

 

こうなったそうです。

 

和歌山県の「補陀落山寺」、それから、栃木県の二つの「二荒山神社」が、見事に繋がりましたね。

 
 
やはり、「天照派」のグループが、終の棲家に選んだ土地が、ここだったのです。
ここで、メインのグループは、ここで居住を始めたと思います。
 
 
そして、大切なことは、「日光」という太陽の光は、古代において、いったん、ここで隠れるのですが、「日食」が、暗くなったあと、再び輝きだすように、そして、「天の岩戸開き」の天照大神が、籠ったあとに、再び顔を出すように、日本という国は、「不死鳥」というのが、シンボルマークでもあり、特性なのです。
 
「外国から、どんなに叩かれても、戦争で負けても、経済が悪くなっても、必ず復活する」
 
これが、「日本」という国の底力なのです。
 
そして、それを裏で支えているのが、裏の古代史に登場する、この旅行記の主役、「天照派」の人々なのです。
 
 
 
 
 

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トーマ

 
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前回の続きです。

 

 

「イザナギ」と「イザナミ」の子供たち、38人は、その後に、たくさんの子孫を増やしたそうです。

 

この一族の直系である、長男と長女の子孫は、「天皇家」になったのですが、ある時期に、この子孫の一人が、「初代天照(アマテル)」を名乗ったそうです。

この頃から、「天皇」という称号が生まれたそうです。

 

念のために書いておきますが、この天皇は、古事記などに登場する、「アマテラス」とは別人で、意味も違うそうです。

「古事記」は、後の天皇などが、かなり歴史を湾曲して書いているそうです。

 

しかし、私が、いろいろ調べたところでは、まったく関係ないわけでもなく、こういう名前が似ている人物やグループなどは、同じ魂の仲間だと思っています。

 

 

このグループは、ある期間、現在の三重県いなべ市のあたりを、拠点にしていたようです。

 

 

「初代天照(アマテル)」の時代から、何百万年も経った後、新しい時代が始まったそうです。

 

その時代は、それまでの平和な時代ではなく、動乱の時代になったようです。

きっかけは、大和地方に、「神武天皇(アヌ王)」がやってきたのが、始まりだったようです。

この天皇のグループは、権力志向だったようです。

 

 

ここでは、「38人の子供」の子孫を、「天照(アマテル)派」と呼ぶことにします。

このグループは、「平和」が何よりも大切だと思っていて、「自由」や「知恵」、それから、「愛」のグループだったと思います。

 

そして、後から、日本の歴史に登場した「神武天皇」が、シュメール文明においては、「アヌ王」で、「平等」を大切だと思っている神様だったようです。

さらに、「力」の崇拝者でもあったようです。

権力によって、人々を、平等に統治するという考え方ですね。

 

これらの推測は、私個人の感覚的なもので、科学的な根拠があるわけではありありません。

 

 

わかりやすくまとめます。

 

〇「天照派」=「イザナギ(エンキ)」と「イザナミ(ニンフルサグ)」

「自由」、「知恵」、「愛」のグループ

 

〇「神武派」=「神武天皇(アヌ王」と「ヤハウェ(エンリル)」

「平等」、「力」のグループ

 

私は、どのグループがいいとか、悪いとかの判断は、やらないほうがいいというスタンスです。

 

国政というのは、世の中の状況によって、穏やかに統治したほうがいいこともあれば、多少は荒っぽく、人々を弾圧しなくては、治まらない時もあるからです。

 

 

この二つのグループを、さらに、わかりやすく表現すると、

 

〇「天照派」=「理想主義」

〇「神武派」=「現実主義」

 

こうなると思います。

 

現在の日本でも、これは、引き継がれていて、目まぐしく変化する国際情勢の中で、常に、「理想」と「現実」の問題で、政治は論争されますね。

具体的には、「平和憲法」と「自衛隊」の問題なのです。

これも、いろいろな見方ができるので、「どの意見が正しいか?」というのは、とても難しい問題なのです。

 

「天照派」の人々は、古事記の「天照大神」とは、直接は関係ないと思いますが、やはり、性格が似ているのです。

つまり、このグループは、「絶対に戦わない」という共通の姿勢があるのです。

 

 

古事記には、「アマテラス」が、弟の「スサノヲ」の乱暴ぶりに、腹を立てる場面がありますが、その怒り方が、ユニークなのです。

 

ご存知のように、天岩戸に隠れるのです。

要するに、「引きこもった」ということです。

 

本来の日本人の怒りの表現は、これなのです。

 

たとえば、江戸時代なども、「鎖国」をやっていますが、あれは、当時の日本人たちが、西洋人たちが、「大航海時代」などと言って、世界中を植民地化して、残酷で酷い行いをしているのを見て、怒ったのだと思います。

 

「あんな野蛮な人たちとは、お付き合いできません」

 

こう思って、国内に引きこもったのが、あの時代だったのだと思います。

 

おそらく、現代の日本でも、「ニート」や「引きこもり」をやっている若者は、世の中に対して、怒っているのだと思います。

生粋の日本人の怒りの表現は、「引きこもる」のです。(笑)

 

 

それに対して、「神武派」は怒ると、相手を殺したり、殴ったり、怒鳴ったり、場合によっては、戦争をしたりします。

怒りの表現の仕方が、ストレートで、わかりやすいのです。

 

 

この視点から見ると、現在の日本人にも、「天照派」と「神武派」の二つのタイプの日本人がいるような気がします。

 

現代の日本の社会では、やはり、「天皇家」は、「天照派」だと思います。

そして、「内閣」に代表されるような政治家たちは、「神武派」が多いような気がします。

 

 

 

「天照派」の話を続けます。

 

ツインレイとして、丹後半島に生まれ、38名の子供を産んで育てた二人は、「初代」の「イザナギ&イザナミ」です。

それから、1500代も、この系統は続いたそうです。

 

そして、最後である、1500代目の「イザナギ&イザナミ」の子供が、「天照派」の初代になる、「天照天皇(アマテルカミ尊)」という男性だったそうです。

繰り返しますが、「古事記」の話とは、別の話です。

 

 

 
それにしても、「神武派」の弾圧は、いろいろな理由から、徹底的に酷くやったようで、「天照派」のグループは、ある時期は、生きていくのに最低限必要な、土地や仕事も奪われて、「ホームレス」のような身分になってしまったそうです。
部落差別の問題も、このあたりの歴史も関係しているそうです。
 
 
去年の12月には、「酒見神社」にも行きました。
場所は、愛知県一宮市です。
 
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「酒見神社」という名前は、もともとは、
 
「逆身神社」
 
という名前だったそうです。
 
この意味は、
 
「天皇が逆さの身分である流人となった」
 
この酷くて残酷な歴史を忘れないようにするまえに、建造されたそうです。
とても奥深い古代史が隠されている場所みたいです。
 
 

 

古事記の「天照大神」に代表されるように、生粋の日本人というのは、本来、争ったり、喧嘩したりすることが、とても苦手な民族みたいです。

 

とても愛に満ちていて、平和が好きな民族なのです。

 

何かに腹を立てて、怒っても、相手に仕返ししたり、怒鳴ったりせずに、静かに、その場を立ち去ったり、無言になったり、無視するという態度をとります。

本当に頭にきた時も、天岩戸に隠れるように、「引きこもる」という行動で抗議するのです。

 

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何かに対する怒りが、頂点に達しても、頭にきた相手を、殺すのではなく、その怒りを、自分に向けたりして、自殺という抗議行動を選択する人も多いのです。

 

現代の日本において、多くの人々、特に感性が豊かで、敏感な若者たちが、引きこもったり、ニートになったり、登校拒否や出社拒否、それから、すぐに職場を辞めて、転職を繰り返したりするのも、静かな怒りの表現なのだと思います。

社会に対して、無言の抗議をしているのです。

 

 

ストレートな感情表現に慣れている大人たちは、これらの行動が、わかりません。

 

「どうして、学校に来なくなったんだろう?」

 

「どうして、入社したばかりの会社を、すぐに辞めたりするんだろう?」

 

「どうして、いつまでも親元にいて、社会に出て働かないんだろう?」

 

こう思っていると思います。

 

 

これが、彼らの怒りの表現の仕方なのです。

口に出して、反論したり、抗議したりしないのです。

 

「静かな怒り」

 

なのです。

 

 

引きこもってしましまった人々が、世の中に出てくるようにするには、怒ってもダメだし、なだめたり、おだててもダメです。

 

「天照大神」を、天岩戸から出そうと思ったら、皆で、裸踊りをするくらいの宴会を、やらなくてはいけないのです。

 

つまり、

 

「ワクワクすること」

 

これが、世の中に、たくさん出てきた時に、引きこもっている人たちも、隙間から、外の世界を覗きこみ、岩戸から出たくなるのです。

 

「世の中は面白い! ワクワクすることで溢れている!」

 

私の旅行記は、一貫して、そう主張しているのです。

だから、天岩戸の中に、引きこもっているような人たちに、特に読んでいただきたいのです。

 

 

 

「神武派」に代表される、「武闘派」、それから、「天照派」に代表される、「穏健派」、古代の日本には、この二つのグループが、存在していたようです。

 

 

「神武派」は、「天武天皇」などのように、名前に、「武」が入っている天皇が、多かったみたいです。

文字通り、イケイケの武闘派が多かったようです。

 

このグループは、前述したように、「イザナギ」と「イザナミ」の「38人の子供」の直系の子孫である、穏健派の「天照派」を弾圧していたようです。

 

 

 

「天照派」は、三重県いなべ市が拠点だったようですが、ここには、重要な神社が、二つあります。

 
一つ目は、「賀毛神社」です。
 
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ここは、現在、京都にある、「上賀茂神社(賀茂別雷神社)」の元の神社だそうです。
 
「賀毛神社」=「元・上賀茂神社」
 
ということです。
 
 

二つ目は、ここです。

ここから、すぐ近くに、「鴨神社」という神社もあります。

 

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ここは、京都の「下鴨神社(賀茂御祖神社)」の元の神社だそうです。

 

「鴨神社」=「元・下鴨神社」

 

だそうです。

 

 

 

調べてみると、最終的には、

 

「奈良」=「天照派」=「南朝」

 

「京都」=「神武派」=「北朝」

 

こうなったそうです。

 

そして、奈良を拠点にした、「天照派」が、リーダーとして選んだ天皇が、「後醍醐天皇」だったそうです。

 

一方の「神武派」の天皇は、「光明天皇」だったそうです。

 

「北朝」と「南朝」には、いろいろな複雑な流れがありますが、その根底には、この二つのグループがあったということが、わかって、納得しました。

 

 

 

歴史に登場する、「聖徳太子」や「空海」などは、この二つのグループの狭間で、苦しみながらも、「天照派」のグループをこっそりと助けていたようです。

 

「空海」は、うまく助けていたようです。

「天照派」の一部を、四国に逃がして、四国八十ハ箇所に、見張り番を置き、「神武派」から匿っていたそうです。

 

徳島県美馬市にある、「神明神社」です。

正式には、「磐境神明神社」 というそうです。

ここで、「天照派」の一部は、匿われていたそうです。

「いなべ」という土地から逃げてきた一族だったので、ここでは、「忌部(いんべ)」と呼ばれていたそうです。

 

 

神殿が、独特な形をしています。

 

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一方で、「聖徳太子」は、死後に、「天照派」を助けていたことが、「神武派」に、バレてしまい、法隆寺を焼かれたり、子孫を殺されたりしたそうです。

 

「天照派」の子孫たちは、その後、日本史の中で、途中から入ってきた外来の宗教である、「仏教」を隠れ蓑に活用したようです。

たくさんの人々が、僧侶になり、お寺に身を隠していたようです。

 

 

 

さて、ここで、これらの歴史を、さらに突っ込んで考えてみましょう。

 

こういう話を知ると、なんとなく、「神武派」が、極悪非道の存在に感じますが、物事には、いろいろな解釈ができます。

 

もしも、日本の国土に、穏やかなグループである、「天照派」だけが、住んでいたら、その後の大陸からやってきた、「元寇」などの襲来には、とても対抗できなかったと思います。

 

「神武派」は、まだ、弾圧したりしただけですが、もしも、「元」の軍隊が、日本を支配していたら、「天照派」は、拷問さたり、虐殺されていたかもしれません。

 

日本にも、「神武派」のような武闘派は、必要だったのです。

 

 

「ドラえもん」という漫画に、「ジャイアン」というガキ大将が出てきますが、たまに、隣町の不良グループがやってきたら、彼が、率先して、その不良グループから、「のび太」などの町のメンバーを、守ったりするシーンが出てきます。

 

「蛇の道は蛇」

 

「毒を以て毒を制す」

 

こういう諺もありますね。

 

「悪」に対抗できるのは、やはり、「悪」なのです。

 

 

だから、私の中では、

 

「神武派」=「ジャイアン」

「天照派」=「のび太」

 

こういう解釈になっています。(笑)

 

 

大学時代、心理学の教授から、面白い話を聴きました。

 

その教授が言っていました。

 

「人間というのは、競争をすればするほど、賢くなるし、強くなる。しかし、同時に、自分さえよければいいという、利己主義になり、人格が悪くなる。嫌な人間になるのです。一方、競争を全くやらないと、誰にでも好かれるような、愛情深い人格になりやすいです。いい人になるのです。しかし、同時に、いつまでたっても、賢くもならないし、強くもなれないのです」

 

「競争」と「知能」と「人格」は、こういう関係にあるということでした。

 

 

つまり、「神武派」は、競争が好きで、どんどん、賢く強くなって、権力を握ったいったグループだったのだと思います。

 

一方の「天照派」は、競争が嫌いで、ひたすら、皆と楽しく、幸せに暮らすことに、主眼を置いたグループだったのだと思います。

 

どちらも偏っていたのです。

 

 

 

英語の「ライバル」という単語は、「川」を意味する「リバー」と、語源的に似ているという話を、ある本で読んだことがあります。

つまり、人間というのは、大昔から、よく、川を挟んで、「A」という村と「B」という村に、分かれたのです。
その川を境にして、村や町が生まれて、お互いに、土地や農作物などの問題で争うことが、多かったのです。

「ライバル」という単語が、それほど、悪いニュアンスだけではないことからも、わかるように、こういう争いによって、お互いに、切磋琢磨して、文明を向上させてきた面もあります。
日本風にいうと、「好敵手」ですね。

お互いに、戦争することもあれば、協力して、お祭りをしたり、いろいろと複雑な人間模様が、多く生まれたのが、「川沿い」という土地なのです。

 

「競争」という行為自体は、中立なのです。

それが、ネガティブに表現されたものが、「戦争」であり、ポジティブに表現されたものが、「祭り」であったり、「オリンピック」などのスポーツの祭典だったりするのです。

 

 

 

ここからは、私の想像ですが、おそらく、「神武派」が、あまりにも酷い弾圧をしたので、さすがの「天照派」も、いろいろな対抗策を考えたと思います。

 

それは、時に、「働かない」というストライキだったり、究極の抗議行動として、「自害する」という人々も、たくさんでてきたのかもしれません。

 

考えてみれば、わかりますが、人々の上に立ち、威張りたい権力志向の人々も、下の人々がいるから、威張ることができるのです。

下の人々が、奴隷のように働いてくれないと、豊かな生活はできないのです。

 

そこで、ある時期に、

 

「まあまあ、そんなに怒るなよ。仲直りしようぜ。! そうだ! 一緒に、お祭りでもやらないか?」

 

「神武派」のグループが、「天照派」のグループに、こうやって、下手に出るという懐柔策を提案したことがあったそうです。

 

 

そこで、「神武派」が、真っ先にやったのが、京都の町に、「賀毛神社」を真似て、「上賀茂神社」という神社を建てたそうです。

それから、「鴨神社」も真似て、「下鴨神社」という神社も建てたそうです。
 
そして、二つのグループの仲直りを兼ねて、盛大なお祭りをやったそうです。
 
それが、「葵祭」だったのです。
日本で最初の、全国的なお祭りだったそうです。
昔は、「祭り」といえば、「葵祭」のことを意味するくらい、「祭り」の代名詞になるくらいのイベントだったようです。
 
 
「向日葵(ひまわり)」という単語を見てもわかるように、「葵」には、本来、「ひまわり」の意味も含んでいたそうです。
 
つまり、
 
「向日葵」=「太陽」
 
ということです。
 
「葵祭」というのは、
 
「この世の中の全ての人々が、愛の光で、包まれますように…」
 
こういう願いを込めた儀式だったそうです。
 
 
数年前に、京都に行った時、「上賀茂神社」の拝殿の前の「立砂」というのを見ました。
「立つ」とは、「神様の出現」に由来する言葉らしいですね。
 
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あとで知ったのですが、この二つのピラミッドは、「天照派」と「神武派」の二つのグループを表現しているそうです。
 
「これからは、二つのグループは協力して、仲よくやっていこう!」
 
ここで、そういう取り決めをしたのだそうです。
 
 
 
後の世に、徳川家康という英雄が、「天照派」の子孫を助けるのですが、どうして、家康が、天照派の人々を助けていたのかというと、家紋に、全ての意味が隠されていたのです。
 
 
上加茂神社の神紋です。
「二葉葵」ですが、小さい葉っぱもあるので、実は、「三葉葵」ですね。
 
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これは、ご存知、徳川家の家紋、「三葉葵」です。

 

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繰り返しますね。

 

武闘派である「神武派」、それから、穏健派である「天照派」、この両者が仲直りした記念に、最初にやった祭りが、京都の「葵祭」でした。

 

そして、調べてみると、昔、その祭りを執り行い、両者の仲をとりもったグループがいたようです。

それが、いわゆる、「加茂族」です。

その子孫が、どうやら、「徳川家康」だったようなのです。

 

ネットでの説明です。

 

徳川氏は京都・葵祭で有名な、加茂神社の氏子だから、加茂神社の神紋、葵を家紋として用いました。
賀茂神社の裏の神山には、葵が沢山生えており、この草を神殿の飾りや神の降臨(葵祭)に使用し、それを加茂神社の神紋としました。
神社の神紋は「二葉葵」で、それを徳川氏は、神社のシンボル、「巴」と掛けて「葵巴」としました。
その「葵巴」こそが、一般にいう「三葉葵」である、徳川家の家紋となりました。

 

 
 

「天照派」は、奈良県の吉野も、重要な拠点だったようです。

 

「イザナギ」が、童子の頃、吉野において、「青根ヶ峰」という山にも立ち寄ったそうです。

 

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その時に、宇宙から、自分が誕生した時のことを、鮮明に思い出したのだそうです。

 

宇宙の源の世界では、「植物」と「動物」と「人間」が、完璧なバランスを保ちながら、美しく回転していたそうです。

 

それを思い出した、「イザナギ」は、その山の頂上にあった三つの石を、横に並べて、「宇宙の根源」の世界を、忘れないように、そして、後世の子孫たちも、この真理を伝えようとしたのだそうです。

 

「植物の石」-「動物の石」-「人間の石」

 

こんなかんじで、山頂に置いたそうです。

これが、後に、「三つの霊石」と呼ばれるようになったそうです。

 

それを、「丹生家十八家」が、守っていたのです。

 

「三つの霊石」を、何百万年にも渡って、守護されてきたそうです。

十八の家が、20年交代で見張っていたそうです。

 

今でも、「伊勢神宮」は、20年ごとに、「式年遷宮」をやりますが、これは、その時からの慣習を、引き継いでいるのだそうです。

 

「三つの霊石」を守るために、「丹生家」がつくった拠点が、「吉野」という村の始まりだったそうです。

 

このように、「丹生家」は、心のやさしい人々なのですが、魂の芯の部分はとても強く、絶対的に正しいと信じたことは、永遠にやり続けるという超頑固な気質も、もっているのです。

 

 

 

実は、「三つ霊石」は、現在も、ひっそりと隠されて置かれているのです。

 

吉野にある、「水分神社」の目の前、歩いてすぐの所に、名前も書かれていない、無名の神社があります。

この無名の神社の裏に、宝物が隠れていました。

 

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「人丸塚」と書かれていますが、本来は、

 

「人生塚」

 

だったそうです。

 

「人が生まれた塚」

 

という意味です。

 

「植物」-「動物」-「人間」

 

この根源を表現している、「三つの霊石」です。

 

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前述したように、「神武派」と「天照派」が、京都の「葵祭」をキッカケに、急速に仲直りをしたのですが、しかし、いつの時代でも、どこの国でも、気が強い子供と気が弱い子供が、一緒に遊んだら、気が弱い方の子供は、毎回、ナメられて、イジメられ、不愉快な思いをするというのは、普遍の事実だと思います。

 

おそらく、穏健派の「天照派」の人々は、武闘派の「神武派」から、いろいろな圧力によって、精神的にも、肉体的にも、とても不自由な思いをしていたと思います。

 

そして、西日本を中心に、囲い込まれているような形になり、逃げ場のない状況で、閉塞状態になっていたと思います。

 

陸地は、おそらく、関所みたいな場所があり、要所には、見張りがいたと思います。

当時の東日本は、とても不便な場所だったし、大きな船を建造して、外国に逃げようと思っても、それもできなかったと思います。

 

「神武派」の天皇だった、「天武天皇」は、特に酷い弾圧をして、「天照派」の人々には、

 

「土地をもってはいけない。職業についてもいけない。他の部族と結婚してもいけない」

 

こういう法律をつくり、乞食の立場に、追いやったそうです。

それで、仕方なく、お寺のお坊さんになって、そこで、質素な生活を始めた人々も、多かったようです。

 

 

 

「イザナギ」と「イザナミ」の38人の子供の子孫たちは、そうやって、虐げられた状況の中、心の優しい、何人かの権力者たちに助けられながら、少しづつ、移動していったようです。

 

特に、奈良県の吉野から、和歌山県の熊野の奥地に逃げていたようです。

 

 

昔から、不思議だったのですが、そもそも、どうして、「熊野」というのでしょうか?

この土地に、たくさんの「熊」が生息している「野山」というわけでも、なさそうです。

 

調べると、元々は、「熊」という文字は、「畏」だったそうです。

 

「畏れ多い」 

 

という表現で使いますね。

 

つまり、「熊野」という土地は、「畏の」という意味で、

 

「畏れ多い神々の住む聖地」

 

という意味だそうです。

 

 

他にも、京都の丹後地方にある、「イザナギ」と「イザナミ」が降臨した聖地、「籠神社」の「籠る」という意味も含んでいると思います。

 

そして、「熊」は、昔から、「冬眠」するので、

 

「冬になったら、いったん引きこもって、それから、春になったら、また復活して出てくる」

 

そういう、「死と再生」の象徴の動物でもあったそうです。

 

「アマテラスオオミカミ」のシンボルが、「熊」だったということです。

 

 

 

熊野周辺には、「王子神社」というのが、たくさんあります。

 

これらは、大阪あたりから始まり、和歌山県の熊野まで、北から南に、広く分布しています。

それらは、総称して、「熊野九十九王子(くまのくじゅうくおうじ)」と呼ばれていたそうです。

 

一般的には、「九十九」というのは実際の数ではなく、「数が多い」という意味で使われることが多いですね。

しかし、実際、最盛期には、99ヵ所の「王子」と呼ばれる土地があったそうです。

 

 

私が、いろいろ調べた限りでは、どうやら、99番目の「浜の宮王子」という場所が、最重要だったようです。

 

「浜の宮王子社跡」です。
ここが、99番目で、おそらく、「天照派」のグループが、熊野においては、最後に辿り着いた場所だと思います。
 
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「天照派」のグループの神社は、「三つの扉」や「三つの窓」があることが多いです。
拝殿が、三つに分かれているのです。
 
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これは、宇宙から地球に生命体がやってきたことを、表現しているそうです。
 
「植物」-「動物」-「人間」
 
この三つのグループが、バランスよく、回っている状態が、地球が健康な状態だということです。
 
逆に言えば、「天照派」の人たちは、人間社会で偉くなったり、権力を握って威張ったりすることに、まったく興味がないのです。
 
「地球の自然が美しく、健全に保たれていれば、それでいい」
 
彼らは、本来、これだけを考えている、純粋で無欲な人々なのです。
 
しかし、権力志向の人々には、こういう人々がいるということが、そもそも、理解できないのです。
だから、必要以上に、弾圧したりしていたのです。
 
 
境内には、旗が、風でなびいていました。
「三つ巴」のシンボルマークを、もう一度、見てください。
 
「植物」-「動物」-「人間」
 
この三つを、バランスよく回すのが、彼らの願いなのです。
 
これだけのために、地球に生まれてきた、純粋で素晴らしい人々なのです。
そのグループが、生粋の日本人であり、私たちの祖先なのです。
 
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次回に続きます。
 
 
 
 
 

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5月に入ってから、凄い気づきがありました。

 

具体的な日付としては、ゴールデンウイークの最終日にあたる、5月6日(日)なのですが、この日は、私の人生の中でも、一つの区切りが終わったような気がしたくらい、感動的な一日でした。

 

 

4年前の2014年の春から、本格的に宇宙考古学や古代史を学び、今年の1月からは、さらに、「補陀落渡海」について、集中的に調べていました。

なんでも、徹底的にやらないと気がすまない私は、根っからのオタク体質もあって、これについてとことん調べました。

 

そして、千葉県野田市の「愛宕神社」に秘密がありそうだと思い、仲のいい友人を誘って、二人で行ってきたのですが、その神社で、とんでもない発見があったのです。

詳しいことは、この旅行記の最後に書きますが、そこが、「補陀落渡海」のファイナルアンサーが、全部凝縮された場所でした。

 

そこで、私たち二人は、ちょうど、卒業式で、校長先生から卒業証書を授与してもらうように、神様から最後の回答をもらったようなかんじになりました。

全てではありませんが、「補陀落渡海」については、大まかで学び終わったのです。

一つのことを、学び終わることができるくらい、今年になってからの約5か月は、朝から晩まで、四六時中、こればかり調べていました。

 

それから、心地のいい疲労感とともに、二人で、近くのファミレスで食事したのですが、その時に、それまでとは、全く違う視点の凄い気づきが生まれたのです。

 

なんと、「補陀落渡海」の学びを終えた後は、もっと凄い学びが始まったのです。

 

そのファミレスからは、今度は、「新しいステージ」に、突入したのです。

ちょうど、高校生の学びが終わり、大学に入学して、大学生の学びが始まったような、そんな気がしました。

 

「新しいステージ」とは、それまでは、わからなかったので、いったん保留にしていた、「人類創世」についてでした。

 

この話は、あまりにも衝撃すぎて、どこまで、インターネット上に公開していいのか迷っています。

まあ、今年の7月くらいに発売予定の「地球を創った魔法使いたち」の第2巻には、全部書くつもりです。

副題は、そのものズバリ、「人類創世」になると思います。

楽しみにしていてください。

 

 

「人類創世」については、先日行ってきた京都の旅行記の中で、ちょっとだけ書くと思います。

 

今回の旅行記は、「補陀落渡海」についての完結編になると思います。

まわった所は、大阪、和歌山、奈良、東京、千葉です。

その中でも、特に奈良と千葉と東京での出来事を、まとめてみますね。

 

 

 

これは、先週末に、京都を旅した時に現れた雲たちです。

 

綺麗な形の彩雲や龍雲などが、空に現れて、感動しました。

同じような雲を見た方、全国にたくさんいたみたいですね。

 

この時期は、日本の空は、とてもいいエネルギーが充満していたみたいですね。

 

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さて、いつものように、本格的な旅行記に入る前に、今までのおさらいを、やっておきましょう。

その方が、この旅行記を、より楽しめると思うので、ちょっとだけ、お付き合いくださいね。

 

 

 

宇宙には、生命を創る元のエネルギーのようなものがあり、それは、「丹(に)」と呼ばれているそうです。

太陽で創られ、「植物」と「動物」と「人間」の三つの生命の元になっているそうです。

 

そして、宇宙空間にあり、目に見ない、「障壁賀」という、宇宙の子宮のような所があり、ここに、「生(しょう)」と呼ばれる別のエネルギーのようなものが、充満しているそうなのですが、ここで、二つが合体するそうです。

 

そして、「丹生(にしょう)」というエネルギーが、生まれるそうです。

 

「丹(に)」+「生(しょう)」=「丹生(にしょう)」

 

「丹生」とは、「丹生遺伝子」の意味で、生命そのものを表現するのだそうです。

このエネルギーが生まれた後、宇宙の子宮である、「障壁賀」の中では、「植物」、「動物」、「人間」の三つに、区分けされるそうです。

 

太古の大昔、最初に、「植物の丹生」が、地球に降り立ち、次に、「動物の丹生」が、最後に、「人間の丹生」が、降り立ったそうです。

三つとも、月を経由して、地球に来たそうです。

 

最初に、「植物の丹生」が降り立ったのが、現在の日本の京都府与謝郡峰山町にある、「藤社(ふじこそ)神社」だそうです。

それから、「動物の丹生」が降り立ったのが、同じく京都府与謝郡峰山町の「比沼麻奈為(ひぬまない)神社」だそうです。

 

太古の昔は、「与謝郡」と「与謝の海」を合わせた場所を、「与謝津(よさかい)」と言って、ここだけが、地球上で、唯一、生命を導き、育てることが、許されていた場所だったそうです。

 

そもそも、「丹波」のように、「丹」がつく土地は、「丹(に)の波動を出している土地」という意味なのだそうです。

 

 

肝心の「人間の丹生」が降り立った場所ですが、それが、現在の「籠神社」の奥宮である、「眞名井神社」なのだそうです。

720万年前の話だそうです。

 

最初の「人間の丹生」は、「零迦児(むかご)」として、風にふかれながら、ふらふらと漂い、この土地に、ふわりと舞い降りたそうです。

それは、なんと、松の木の上にあった、「コウノトリ」の巣に、スッポリと入ったのだそうです。

 

それから、その、「零迦児」は、巣と一緒に、海に落ちて、しばらく、与謝海を漂ったそうです。

何度も何度も、脱皮を繰り返して、だんだん、人間の姿になっていったそうです。

その間、ずーっと、「コウノトリ」の群れが、外洋に流されないように、見守っていたそうです。

 

昔から、世界中に、「コウノトリが、赤ん坊を運んでくる」という話がありますが、これが由来だそうです。

 

 

「舞鶴」という地名も、元々は、「コウノトリが、舞い戻った」ということから、できた名前だそうです。

おそらく、この「零迦児の入った巣」を、海に漂っている途中で、危なくて見てられなくなり、口で咥えて、舞鶴の地へ運んだのだと思います。

 

 

最終的には、「零迦児の入った巣」は、舞鶴の「丹生川」の入江の辺に辿り着き、山羊の乳を与えられながら、洞窟の中で、動物たちに見守られながら、育ったそうです。

 

 

丹後半島には、「コウノトリ」を神様として、祀っている神社もあります。

「久久比神社」という名前です。

 

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こういう神社が、昔からあるということが、有力な状況証拠になるのです。

先ほどの「コウノトリ」の話が、まったくのデタラメであれば、こういう神社など、そもそも存在しないのです。

 

 

 

何度も書いていますが、中近東を拠点にした、シュメールの文明の神々、「アヌンナキ」のファミリーは、50万年前に、故郷である、「二ビル星」から、UFOでやってきたそうです。

 

しかし、その「アヌンナキ」の王である「アヌ王」、その子供になる、「エンキ」と「ニンフルサグ」の二人が、それよりも古い、720万年前に、なんと、宇宙の根源からダイレクトに、日本の丹後半島に、降臨していたということです。

 

念のために、再度書いておきます。

この神々の正体です。

 

エンキ」=「イザナギ」

「ニンフルサグ」=「イザナミ」

 
こうなるのです。

 

 

二人は、月を経由してやってきて、「匏(ひさご)」、つまり、「瓢箪(ひょうたん)」に似た、「繭(まゆ)」のような姿の生物として、成長したようです。

それからも、何度か脱皮を繰り返して、人間として成長したそうです。

「瓢箪(ひょうたん)から駒」という表現の語源は、このあたりに由来しているそうです。

 

 

一説によると、天橋立から、ちょっと離れた冠島で、完全な人間の姿になったそうです。

 

「眞名井神社」です。

「三つ巴」の紋章は、「植物」と「動物」と「人間」の遺伝子も、表現しているのだと思います。

 

「三つ巴」のシンボルマークは、大切なキーワードになるので、よく覚えておいてくださいね。

 

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「イザナギ」と「イザナミ」の二人ですが、最初の頃は、中近東にあった、「エデンの園」に住んでいた、もう一組の人祖である、「アダム」と「イブ」のように、周囲には、植物と動物以外には誰もいないという環境で、二人っきりの童児と童女として、寄り添いながら、生きていったそうです。

 

小鳥たちや小動物たちしか、遊び相手はいなかったのです。

 

ある日のこと、小鳥やリスが、交尾をしているのを見て、童女の方が、顔を赤らめたそうです。

 

それから、童女は、童児に、

 

「これからは、寝屋を別にしましょう」

 

と言ったそうです。

 

お互いに、異性を意識するようになったということです。

 

童児も、それに同意して、それが、きっかけで、二人は別々の場所で暮らすことになったそうです。

 

しかし、永遠の別れというわけでもなく、二人の約束は、

 

「ある程度の年齢になったら、また再会しよう!」

 

というものだったそうです。

 

現在の福井県小浜市にある、遠敷川の「鵜瀬」で、二人は、一旦、涙の別れをしたそうです。

 

童女のほうは、その後、現在の滋賀県の琵琶湖にある、「竹生島」で、初潮を迎えたそうです。

後世、成人した女性を守る、「弁天様」は、ここから発生しているそうです。

そういえば、多くの祠は、池の中にあったり、赤い鳥居や赤い祠、赤い橋などですね。

あれは、童女(イザナミ)が、琵琶湖に囲まれた竹生島で、赤い血を流したことが、始まりだそうです。

 

それから、童女は、滋賀県犬上郡多賀町のあたりで、しばらく暮らしたそうです。

 

「イザナミ」は、その後は、三重県の員弁、それから、三重県の麻生田でも、3年間ほど生活していたそうです。

 

それから、「イザナギ」と再会を約束していた場所、現在の伊勢市宮後町にある、「伊勢神宮」の外宮の別宮、「月夜見宮」に行ったそうです。

そこで、二人は、お互いに成長した姿で、久しぶりの再会をしたそうです。

そして、ここで、結婚式を挙げたそうです。

 

 

そこでは、「イザナミ」が、麻生田で織った、「白妙」を二人とも纏って、誓いの言葉を神に述べたそうです。

 

「絶対に争ったり、殺し合ったりせずに、助け合います」

 

というのが、その誓いの言葉だったそうです。

現在でも、天皇が結婚する時にやる、「大嘗神祇祭」という儀式では、これをやるそうです。

 

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この誓いの言葉の理由は、最初の人祖である、この二人が、「人間の元」の状態で、地球に来る前に、その宇宙の根源のような世界、宇宙の子宮である、「障壁賀」の中が、とても調和がとれていて、争いごとの全くない、素晴らしい世界だったために、その理想の世界を、この現実世界でも再現しようと思ったようです。

 

考えてみたら、現在の日本の「平和憲法」は、この時に、すでに出来上がっていたのです。

 

「絶対に戦わない」

 

この姿勢は、戦後、GHQから押し付けらたものではなく、なんと、そもそも、この世界に、人類が最初に誕生した頃からの、神との約束だったのです。

 

「平和憲法」というのは、気が遠くなるほど、遠い遠い、超古代からの「尊い教え」だということです。

「日本」だけでなく、「地球」そのものを救うための教えだったのです。

 

 

 

それから、イザナミは、自分が子供の頃に住んでいた滋賀県犬上郡多賀町のあたりが、とても気に入っていたので、そこでの定住を決めたようです。

 

二人は老化もせず、若い身体のまま、数千年生きたそうです。

そして、その間に、子供を、たくさん産んだようなのです。

 

子供たちは、男女合わせて38人いたそうです。

男児が19人、女児が19人だったそうです。

 

38人の子供たちが、ある程度育ち、それから、さらに、その38人も、たくさんの子供を産み、大勢の子孫に恵まれたそうです。

 

それで、ある程度、落ち着いた頃を見計らって、二人は、元来た天に戻ることにしたそうです。

 

その場所は、滋賀県米原市にある、「醒ヶ井」という所にある、「武奈山」と「比婆山」を、二人のお墓に決めたそうです。

この二つの山は、距離にして、3キロくらい離れているそうです。

 

最初に、「イザナギ」が、「武奈山」の頂上にある墓に入り、肉体は、そこに埋めたようです。

 

それから、本質である霊体は、

 

プシュー!

 

と、天高く飛びあがり、そのまま、「金星」に向かって、天に飛んでいったそうです。

 

しばらくして、今度は、「イザナミ」が、「比婆山」の頂上にある墓に入り、肉体は、そこに埋めたようです。

 

それから、また、霊体が、

 

プシュー!

 

と、「イザナギ」の後を追うように、同じく、「金星」の方角に飛んで行ったそうです。

 

 

 

「イザナギ」と「イザナミ」が生んだ、38人の子供たちは、それそれ、男子が19人、女子が19人で、それぞれ、カップルになり、結婚して世帯をもったそうです。

19組のカップルだったのです。

 

その中でも、最初の長男と長女のカップルは、別格の扱いになったそうです。

この夫婦は、「大丹生・皇(おにゅうけ・すめら)」という名前が付けられ、後に、この子孫が、「天皇家」の家系になったそうです。

 

長男の名前が、「別雷尊(わけいかずちのみこと)」という名前だったそうです。

 

とても元気な身体で、拳を振り上げて、生まれたそうです。

そして、宇宙の源のエネルギーである、「丹生」の波動で、身体が輝いていたそうです。

それが、まるで、雷でも落ちて、発光していたように、見えたのかもしれません。

現代風の表現では、「凄いオーラをまとった身体」だったのだと思います。

 

長女の名前は、「玉依姫(たまよりひめ)」と名付けられてそうです。

「玉のように美しい」という表現がありますが、ここからきていると思います。

この一族の中では、美しい女性の美称として、この表現を使っていたそうです。

 

この二人の夫婦が、「大丹生家(天皇家)」の始まりだそうです。

 

 

他の18組の夫婦は、「丹生家(にゅうけ)」となり、「天皇家」を補佐するグループになったそうです。

 

まとめると、「38人の子供」の中で、長男と長女の2人は、「天皇家」になり、残りの36人は、「補佐の役割」になったということです。

 

 

この最初の日本人の数を表現している、「三十八」という数字は、実は、とても特別な数字であり、日本の古代史の中で、様々な形で、暗号として隠されて、伝えられてきたようです。

 

 

たとえば、後世になって、人がたくさん集まる場所は、「都」と呼ばれるようになるのですが、この名前には、

 

「三(み)」+「八(や)」+「子(こ)」=「都(みやこ)」

 

という意味が隠されてたそうです。

 

「38人の子供が、最初に住んでいた土地」

 

というのが、「都」の隠された意味だったのです。

 

「京都」は、もちろんのこと、「東京都」、「宮城」、「三ノ宮」、「都城」、それから、沖縄県の「宮古島」など、「みやこ」の文字が入る地名は、全部、この38人の子供に、関係ある土地なのかもしれません。

 

 

 

この後、この38人の子供たちと子孫は、滋賀県の多賀大社の辺りから、三重県いなべ市に引っ越して、三代に渡り、ここに滞在したそうです。

 

「いなべ市大安町石榑」という土地が、日本初の「都」になったそうです。

 

 

38人の子供たちの痕跡は、日本中に、いくつか残っています。

 

福井県福井市には、「三十八社町」という町があります。

 

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滋賀県の「石山寺」の境内にも、「三十八社」の文字の書かれた鳥居があります。

 

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次回に続きます。

 

 

 

 

 

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先月、初めて、高尾山に行きました。

 

ずーっと行きたかったのですが、忙しくて、なかなかチャンスが無かったのですが、念願かなって、ようやく訪れることができました。

 

いいかんじのハイキングでした。

景色も最高でした。

 

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以前に、「ブラタモリ」という番組でもやっていましたが、ここは、地質学的にも、とても貴重な土地らしいです。

登山道は、両側が、まったく色の違う植物群になっています。

 

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この道は、太古の時代に、日本列島の二つの地層が、ぶつかって隆起した地点になっているそうです。

 

おそらく、最近から流行っている、「ゼロ地場」というやつだと思うのですが、とても気持ちがいい空間です。

東京都内では、ここが一番気持ちがいいところかもしれません。

 

 

 

左右で森の明るさが違うところが、けっこうあります。

 

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暗い森は、カシやヒイラギなど、常緑広葉樹が中心で、濃い緑と厚い葉が特徴みたいです。

明るい森は、イヌブナなど、落葉広葉樹林が中心で、葉の色も厚みも薄くなっているようです。

 

高尾山の登山道は、尾根筋であり、北側と太平洋側とで、気候に差があるようです。

常緑広葉樹と落葉広葉樹の分布の境目が、存在しているのだそうです。

 

さらに、地層が露出している場所があり、その地層を確認すると、砂や泥の存在を確認できるようです。

 

1億年前に、いろいろな造山活動があり、マントルなどが複雑に動いて、形成された山だそうです。

さらに、スギやヒノキの人工林もあり、高尾山には、多種多様な植物が生い茂っているようです。

 

 

 

ここは、天狗伝説でも有名ですが、実際に、私の知り合いで、この山で、天狗と遭遇した人が、何人もいます。
 
出てくる前には、必ずどこからか、
 
♪ ピーヒャラ、ドンドン ♪
 
という笛と太鼓の音が聞こえてくるそうです。
 
それから、身長の大きな天狗と小さな天狗が、ペアで登場するそうですが、これは、男性と女性の夫婦かもしれないと言っていました。
 
 
天狗の像です。
 
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記念撮影しました。
 
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面白いものを手にしている天狗もいました。
 
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同行した友人が、「スタンガンを持っている!」と言ったのを聞いて、大笑いでした。
 
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「八大龍王」という名前の神様もいました。
 
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金色に輝いて、カッコイイですね~!
 
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この神様を、シンプルに表現すると、
 
「龍」+「人」=「八大龍王」
 
こうなりますね。
 
「龍」と「人」、この二つの生命体が合体している神様は、他にも、たくさんいますね。
 
 
 
この日は、高尾山の後に、井の頭公園にも行ったのですが、ここには、「宇賀神」の像もありました。
 
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この神様も、
 
「龍」+「人」=「宇賀神」
 
こうなります。
 
 
ということは、両者は、同じグループの神様だということが、推測されますね。
 
「八大龍王」=「宇賀神」
 
こうなるのです。
 

 

 

宇宙考古学や古代史の最近の流行として、

 

「共通項を探す」

 

という動きがあります。

 

数学でいえば、それまで、「違い」を探して、どんどん、「展開」していった流れから、現在は、「共通項」を探して、「因数分解」するような作業に、流れが変わっているのです。

 

時代や土地、それから、神話や伝説、また、人間と神々など、時空間や存在に関わらず、「似たような人生」、「似たような名前」、「似たようなシンボルマーク」、「似たような服装」など、どこかが似通っていたら、それらの複数の人物たちは、とりあず、「同じ魂のグループ」、もしくは、「生まれ変わり」だと見なすのです。

 

このやり方だと、面白いことがわかったり、意外な事実に気が付いたりして、最高に面白い作業になります。

 

 

 

たとえば、事実かどうかは、とりあず横に置いて、一般的な伝承によれば、「キリスト」は、「馬小屋」で生まれたと言われています。

 

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同様に、「聖徳太子」も、「馬小屋」の近くで、生まれたと言われています。

 

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このことから、

 

「キリストと聖徳太子は、同じ魂の生まれ変わり、もしくは、同じソウルグループのメンバーだった可能性がある」

 

こういう仮説が成り立つのです。

 

「キリスト」=「聖徳太子」

 

だということです。

 

 

他にも、こういうものもあります。

 

ロシア正教の宗教画には、「キリスト」が、不思議なハンドサインをして描かれているものがあります。

 

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そして、京都の広隆寺にある、「弥勒菩薩半跏思惟像」も、同じようなハンドサインで、彫られています。

 

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よく見ると、この二人の人物の指の形が、同じですね。

 

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このことから、

 

「キリストと弥勒菩薩も、同じ魂の生まれ変わり、もしくは、同じソウルグループのメンバーだった可能性がある」

 

こういう仮説も、また成り立つのです。

 

「キリスト」=「弥勒菩薩」

 

だということです。

 

つまり、いつの時代でも、画家や彫刻家が、いろいろな作品を作るのですが、意識しているか無意識かに関わらず、天界の神々が、未来の人々に、いつの日か、神の世界のカラクリを、解き明かしてくれる日のために、暗号のように、様々な仕掛けをしていたということです。

 

 

 

以上のことを踏まえて、下記の写真たちを、繋げて考えてみると面白いです。

 

 

これは、先月に行った、千葉県銚子市の満願寺に置いてあった、手水舎です。

一枚岩だそうです。

 

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同じように、これは、諏訪大社の手水舎です。

 

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どうですか?

これらの二つの岩の穴の中には、一人の人間が、すっぽり入りそうではないですか?

 

 

続いて、この写真を見てください。

マヤ文明の遺跡から出土されたものだそうです。

 

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ハイ!

 

わかりましたね。

 

「龍の形をしたUFO」です。

 

つまり、「UFO」の中には、「龍」の形をしたものも、あるということです。

 

太古の時代に、地球にやってきた宇宙人の中には、「龍」の形をしたUFOに乗ってやってきた存在も、いたのかもしれません。

 

私たちは、宇宙人の乗り物である、「UFO」と「龍神」を、別物と考えていますが、もしかしたら、源は同じ存在で、時代や土地によって、見せる人間たちの価値観に合わせて、姿形を変形させているのかもしれません。

 

 

これは、有名な彫刻で、鹿島神宮の祭神、タケミカヅチ神が、ナマズを抑えている場面だと言われています。

 
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しかし、宇宙考古学的に解釈すれば、「ナマズ」は、実は、「UFO」で、この男性は、宇宙飛行士で、持っている「杖」のようなものは、操縦するための「コントロールレバー」だったとも、解釈するこができます。
こちらのほうが、面白いですね。
 
 
これは、東京都内の水天宮に行った時に撮影した、境内の手水舎です。
 
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もうわかりましたね。
 
これらの話を統合すると、ある面白い仮説が導きだされます。
 
「神社や寺にある、手水舎というのは、太古の時代に、地球にやってきた、龍の形をしたUFOだった」
 
こういう大胆なストーリーが、浮かび上がってくるのです。
 
 

 

ご存知のように、世界中、どこに行っても、龍の神話、伝説、壁画などが存在しています。

特に、日本には、龍を祀った神社も多く、神話も山ほどあります。


不思議なのは、これほど、身近な存在でありながら、ほとんどの人が、

「空想上の動物だ」

と思っていることです。

たとえば、

「干支の中でも、龍だけが、空想の動物であり、架空の存在だ」

というのは、よく聞く話ですね。


しかし、世界中に、龍に関する話が、たくさん存在していること自体、簡単に、空想だけで終わらせてはいけないと思います。

「龍は、実在の動物だ」

と考えたほうが、自然なのです。
 

 


これは、チャネリング情報ですが、ある本によると、宇宙が誕生して、しばらくしてから、神様は、自分の姿を、ある程度、形作ろうと思い、試行錯誤したそうですが、いろいろとやってみた結果、二つの形が、好きになったようです。


全知全能の神が、好んだ姿は、

一つは、龍の形。

二つ目が、人間の形。

理由は、この二つの姿が、オシャレで機能的、そして、いろいろな体験を、楽しめそうな形だったからみたいです。


それで、しばらく、この二つの形のまま、宇宙空間を、旅していたそうです。

いろいろな神話で、龍の上に人間が乗って、一緒に飛んでいる場面がありますが、それを、イメージしてくださいね。

「まんが日本昔話」のオープニングのアニメーションが、一番わかりやすいかな?

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この時点では、どちらかというと、物質的な肉体ではなく、非物質な霊体だったみたいです。

存在している次元も、現在の私たちが、暮らしている3次元ではなくて、もっと自由度の大きい、5~8次元くらいだったようです。


これは、前述したように、南米のマヤ文明の壁画です。
龍の形の宇宙船に、人間型の宇宙飛行士が乗船して、操縦しているようにも見えます。

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長いこと、いろいろな宇宙や惑星を旅したそうですが、しばらくして、この地球を、見つけたそうです。

それから、この惑星での体験を楽しもうと思って、物質化しようと思ったらしいのですが、その頃は、まだ地球ができたばかりだったので、少し環境を整える必要があったみたいです。




環境が、過酷だったために、最初は、人間の姿の神様ではなく、龍の姿の神様から、地球に降り立って、生態系のバランスなどを、調整したようです。

最初に地球に降り立ったのは、「龍神」のほうだったのです。

さらに、その時には、霊体の龍の姿ではなく、3次元の過酷な地球の環境に適応するために、振動数を落として物質化して、「恐竜」という姿になったそうです。




その恐竜も、大きく三つの姿に、分かれたそうです。

空を飛べるようになったものが、「天龍」で、地面を走れるようになったものが、「地龍」、海を泳げるようになったものが、「海龍」みたいです。


それから、環境が整った時点で、次に、いよいよ、「人間」が誕生したそうです。

中南米の古代遺跡の壁画などには、その時の様子が描かれている絵も、いつくか残っているようです。

これは、龍の口から、人間が誕生する様子を描いた絵です。
ちょっとわかりにくいかな?

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これが本当だとしたら、人間はサルから進化したのではなく、龍から生まれたということになります。

高次元で霊的な龍神から、人間が創造された様子なのか、それとも、物質的な次元で、実際に恐竜の口から、人間が出てきたのかは、わからないようです。

解釈によっては、当時の神々(宇宙人たち)、つまり、「アヌンナキ」の一族が、人間を創る時に、恐竜の遺伝子を主に使ったことを、象徴的に描いたものかもしれません。


考えてみれば、

「人間がサルから進化した」

という進化論が一般的ですが、これなどは、150年くらい前に、ダーウィンが、言いだしただけで、もしそれが本当ならば、世界中に、それらしい神話や伝説があってもいいのに、どこにもありません。

しかし、

「人間と龍が戦った」

「人間と龍は仲良しだった」

というように、人間と龍との関わりを残した神話や伝説は、世界中に山ほどあります。

このことから、やはり、人間の誕生には、龍が関係していたと考えるのは、自然なような気がするのですが、どうでしょうか?


特に、日本の神話には、龍に関する話がたくさんあります。



有名な「因幡の白うさぎ」の物語などにも、「ワニ」が登場しますが、学者たちが、

「その時代に、日本の海には、ワニなどいなかったから、サメだったのだろう」

と解釈していますが、これも、そのまま、海の恐竜である「海龍」だったと解釈することもできます。

 

 

 

太古の昔、恐竜が死滅した時期に、地球上で、大洪水が起こっていますが、この時の大量の水は、月から滝のように、地球に落ちてきたと言われています。

旧約聖書にも、「ノアの大洪水」は、

「空から、大雨が降ってきた」

という表現ではなく、

「空から、大量の水が滝のように落ちてきた」

と、書かれているそうです。

 

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その時に、月からの水が、地球の草木をなぎ倒したために、生物がまったく住めない場所ができたようです。


それが、「砂漠」です。

現在のアフリカや中国などの砂漠は、その時の滝のような水で、根こそぎ、栄養分などを含んだ土が、弾き飛ばされたようです。


現在の地球上の湖の多くは、その時の水が、最初の頃は、溜まってできたのかもしれません。
その後に、自然な水分蒸発、そして、山からの雨水などで、水が入れ替わったと考えてもいいと思います。

 

 

アメリカの「グランドキャニオン」なども、その時の月から放出された、大量の水の洪水で出来上がった渓谷だろうと、思っています。

 

悠久の時をかけて、造られたのではなく、もしかしたら、一晩で出来上がった渓谷かもしれません。

 

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素朴な疑問です。

 

「どうして、恐竜は、あそこまで大きかったのか?」

ということです。

現在の地球では、海では、「クジラ」で、陸では、「ゾウ」や「キリン」が最大です。

これ以上の大きさは、重力の関係で、身体を動かすこともできなければ、頭部まで、心臓からの血液を回せないとも、言われています。


そこで、いくつかの仮説ですが、一つは、

「恐竜の体重は、意外と軽かったのではないか?」

という説もあります。


恐竜は、爬虫類、鳥類、哺乳類など、いくつかの種類がいたという説が、有力みたいです。

その中の鳥類の一部には、身体の中に、特別な微生物が、存在していて、それが、食物を消化して、分解するときに、特別なガスを発生させ、そのガスを溜めこむ臓器をもっているものも、いるそうです。

そのガスの入った臓器が、ちょうど、ガスの入った風船のような働きをするために、飛行が容易になるのだそうです。


恐竜も、そういう臓器が、あったかもしれないということです。

ガスの風船を、お腹に持ったまま、走りまわっていたかんじですね。

現在では、足跡などから、ティラノサウスなどの走るスピードは、時速80キロ以上だったかもしれないという説もあります。

「身体は大きかったが、体重は軽かった」

この仮説を適用すれば、合点がいきますね。
 

 

ティラノサウルスの模型です。
たしかに、足が速そうですね。

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二つ目は、

「当時の地球は、現在よりも小さかった」

という仮説です。

これも納得ですね。

現在よりも小さい惑星だっために、引力も弱かったという話です。
だから、生物も巨大になったし、俊敏に動けたということです。

 


では、いつ頃を境にして、現在の大きさの惑星になったのかというと、それが、やはり、「ノアの大洪水」の時からという説が有力です。

前述したように、「月」から大量の水が、地球に降り注いだそうです。

141026_125732.jpg

 


この後、その大量の水で、地球が膨張して、引力が強くなったために、ほとんどの恐竜が、その強くなった引力に、適用できなくなり、死滅したという説です。

 


NASAの信頼できるデータによると、月の内部は、ほとんど空洞みたいです。
そして、空洞の一部に、氷の塊が、残っているそうです。
その氷の塊は、地球側に偏って、存在しているそうです。

月が、地球に表側しか見せない動きをするのは、月の中の氷の塊が、ちょうど起き上がりこぶしの重しのような働きをしているからだそうです。

 

 


前述の仮説から、恐竜のことを、読み解く上で欠かせない、「地層」について、新しい解釈が、出てきているそうです。

それは、既存の考え方のように、

「地層というものは、何百万年~何億年という長い時間をかけて堆積するものだから、そこに埋まっている化石の位置を、知ることにより、生きていた時代がわかる」

というものではなく、

「地層の中には、短時間で固まったり、堆積したものもある」

という考え方です。


そもそも、「化石」という現象は、とても珍しいものなのです。

生物の死骸というのは、普通は、陸上で死んだら、微生物や風雨によって、分解や風化され、跡形もなくなるものなのです。

砂漠で死んだ動物などを、イメージしてみてください。
それが、形を残して死んでいるというのは、瞬間的に、泥水のようなもので、密閉されたからなのです。
だから、恐竜の絶滅時に、地球規模の洪水があったことが、推測されるのです。


これは、地層の化石の中から、大きな魚が、小さな魚を、飲み込もうと瞬間が、化石になったものがあることからも、わかりますね。

わかりにくいかもしれませんが、これです。
大きな魚が、下から、小さな魚を、飲み込もうとしている瞬間の化石です。




さらに、植物の葉っぱが残っている化石などが、存在していることからも、かなり短い時間に、コンクリートのような土砂によって、急激に固まったものも、存在しているということです。

急激に固まらない限り、このように、ハッキリとした葉っぱの形は残りません。

やはり、こういう出来事は、「大洪水」の時に起こったと思います。
地球は、その大洪水の時に、一度リセットされているのです。

 


他にも、ユニークな解釈があって、その時の大洪水の時には、逃げ足の遅い生物から、真っ先に、土砂に埋もれたというのです。

たしかに、大洪水で、水かさが増水したら、真っ先に動かない貝などが埋もれます。
それから、魚たちが飲み込まれ、それから、両生類、爬虫類、それから、鳥類や哺乳類という順番になりますね。
つまり、賢い動物ほど、逃げるのが、速くてうまいので、地層の上のほうで、土砂につかまり、化石になるということです。
だから、地層というのは、下から上になるほど、下等生物から高等生物というかんじで、化石が出てきやすくなるということです。

なるほど…、ですね。

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最近では、人間と恐竜の足跡が、同じ時代に、存在していた化石なども、たくさん出てきたり、有名な「イカの線刻石」などには、人間と恐竜が、一緒に生活している姿なども、描かれています。

これも、大半は、偽物やインチキらしいのですが、偽物が、たくさんあるからといって、本物がないという証明にはなりません。

やはり、本物の石も、少数ながら存在しているようです。

火山の噴火の時など、人間と恐竜が、一緒に逃げていたかもしれないということです。

141025_172556.jpg


これなどは、今までの地質学の地層の解釈が、根本的におかしいことの証拠です。
なんと、地層を斜めに縦断している木の化石が、発見されたのです。
本当ならば、10層くらいの地層の間には、膨大な期間があるはずですが、この写真は、これらの地層が、おそらく、1日くらいで、できたものだという解釈ができるのです。

141025_172838.jpg


他にも、最先端の科学でも、アメリカの大学などで、人間の遺伝子を、徹底的に調べると、

「爬虫類的な水生動物の遺伝子が、一番多く、他にも、サル、ネズミ、コウモリなどのありとあらゆる動物の遺伝子情報が、人間には、含まれている」

という調査結果も、出てきているそうです。

「サルから進化した」

というのも、間違いではないそうです。


ここでいう、「爬虫類的な水生動物」という表現は、現在の動物に、当てはまるものが、見当たらいから、こういう表現をしてるそうですが、一説によると、強いて当てはめるならば、

「タツノオトシゴ」

みたいな動物らしいです。

「龍が、落とした動物」

ということですね。

やはり、龍が、遺伝子的にも関係しているようです。
面白いですね。(笑)




こうなってくると、もう、既存の学問の全てを、根本的に見直さなくてはいけない時期にきているということが、わかりますね。

「人間」と「龍」に関する世界中の神話や伝説などが、ぜんぶ本当の話だったかもしれないと思ったら、ワクワクしてきませんか?

学問の世界では、頭の堅い学者が多いみたいので、なかなか、表のメディアでは、ニュースとして報道されませんが、マンガやアニメ、映画、ゲームの業界では、現在、龍に関わる話がたくさん出てきていますね。
 

 


私の感じているところでは、龍たちは、地球の環境が、ある程度、整ったのを見届けて、表面上は、「大洪水による恐竜の絶滅」という姿で、3次元の世界からは、消えたのだと思います。

高次元といってもいいし、パラレルワールドと表現しても、いいかもしれません。
とにかく、役割を終えたから、地上から去ったのです。

 

しかし、現在でも、高次元の世界で、「龍神」として、地上にいる私たち人間を、サポートしていると思います。

霊感がある人たちには、それが見えるようですが、無い人たちにも、しばしば、雲を龍の形にした、「龍雲」として、自分たちの存在を、そっと教えたりしているみたいです。

 

image

 


2009年6月に、長野県の戸隠神社に行った後、JR長野駅の上空に、空を覆い尽くすほどの巨大な九頭龍の形の雲が、出てきました。
写真では、わかりにくいですが、細かい形まで、九頭龍そのままの姿でした。
凄いパワーを、感じました。

090625_122909.jpg

 

「龍雲」が、空に現れたら、人間と龍の大昔からの関わりについて、いろいろ想像してみると、楽しいと思います。
太古の大昔に、一緒に、宇宙空間を旅していた時のことも、思い出すかもしれませんよ。

 

 

 

宇宙創世の時代には、「龍神」と「人間」は、同じツインソウルであり、大の仲良しだったみたいです。

 

これは、友人のはるなさんが描いてくれたイラストです。

かわいくて、癒されますね。

 

image

 

 

 

 

 

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新しい読者の方も、たくさん増えたので、また紹介させていただきます。


「不思議なペンダント・アセンション」の話題です。

このペンダントの体験談が、たくさん届いているのですが、その中から、掲載許可をいただいたものを、シェアさせていただきます。



これは紹介して、もうすぐ11年になりますが、ずーっと静かなロングセラーを続けています。

このペンダントに惚れ込んで、

「このペンダントを、ぜひ、世界中に広げましょう!」

と言って、仲間たちとチームを組んで、いろいろと活動してきました。
たくさんの人に、感動してもらって、とっても嬉しいです。


全部、手作りなので、大量販売できないのですが、私は、できれば、世界中の人に、首から下げてもらいたいくらいです。

何も感じない人もいますが、エネルギーは、確実に魂レベルに流れています。
感じる人は、首から下げた瞬間に、感動して泣きだすくらいです。
これくらいの完成度のヒーリンググッズは、これだけです。

150825_161806.jpg
 

 


皆さんの感動を、シェアします。


※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

 

 

 

〇Kさんの体験談です。

 

 

アセンションペンダントを購入させて頂きました、Kと申します。

 

トーマさんのサイトを10年位前から、拝見させて頂いてて、すごく面白くて引き込まれて、当時はずっとパソコンに釘付けでした^ ^

で、すごく久しぶりに何かのきっかけでブログを発見したら…アセンションペンダントのことが書かれていて、すごーく欲しくなりました!!

で、注文させて頂いて届いて確かにパワーを感じていたのですが。

驚いたのは、次の日彼氏とデートで服の中に付けて行ったのですが、まず、

「その黒い紐何なん?」

と聞かれたので、ペンダントを出して説明をしました。普段はパワーストーンなど全く興味を示さないのに、すごく興味深々で、

「ちょっと貸して」

と言うので付けると、、

「これすごい!凝りがなくなっていく!」

「なんか、常に瞑想してるみたいな状態」

などと言って感激してくれました(๑˃̵ᴗ˂̵)

もともと感受性はすごく高いです^ ^

彼氏の誕生日が近かったので、そのままあげました♪それから、無理せず穏やかに過ごせてるみたいです。

私もなんだかすごくスッキリしました!

そして、もういいかな、、と思ってたんですが私も欲しくなってきたので、もう一つ注文したいと思います^ ^

ペンダントすごいですね!本当にありがとうございます

これからも、必要な人に届いたらいいですね。

 

 

〇Yさんの体験談



ペンダントの紹介をありがとうございます!

感想を伝えたいと思いました。
早速、付けてみた時には、ペンダントのあたりが圧が強くてちょっと苦しい感じでした。

夜は、つけてませんが、次の日は、前の日より気になりにくくなってました。

そして、その次の日、身に着けてお昼寝をしてしまったのです。
すると、夢を見たのです。
起きて、小学校の時にあった事のある、ほぼ似た出来事でシンクロしていたので、とても悲しい思い出での夢だっのでビックリしました。。
起きて、とても胸が痛かったです。

で、その気持ちをマインドマップのように書き出してみました。
すると、ずっと気になっていて、でも胸の奥にしまい込みたかった事だったのです。
その出来事は、小学校の事だったのですが、この2週間前にこの時の一番仲良かった友達が亡くなってお葬式があったのです。

なんか、心残りを気付かされる夢でした。

それから、他の心の奥にしまい込んでいた痛みも思いだしました。
今、必然だったのかなと思っています。

もうこれで、昇華したのかなと前向きに取ってます。

不思議な体験をありがとうございました。

つい、最近トーマさんのブログに出会い、面白くて見るようになりました。

これからも、益々の活躍を楽しみにしてます。

 


○Iさんの体験談

 


こんばんは!

ペンダントが届いて、一カ月がすぎました。

トーマさんのブログを17才から、偶然?見るようになって、ペンダントの紹介があったので、お金を貯め、買う事を決意しました!

トーマさんのお話は、凄く面白く引き込まれるので、50回以上は読んだと思います(笑)

さっそく、ペンダントの感想なんですが、着けてしばらくは、何も効果は、感じませんでした。
しかし、今月になって、突然あまり乗り気ではなかった用事が中止になったり、12月12日にバシャールの本が届いたり(バシャールの本は、その5日前に届くはずでした!)と、シンクロが多くなり、ベストな環境になってます!

また一昨日、寝ていると、なぜか夜中に目が覚めました。
その時、部屋は暗くて何も見えなかったのですが、何故か左手に黄緑色の豆を持っていると分かりました。
5~6粒の豆でした。
その時は、家族のイタズラ?とおもいながら、また寝ました。
翌朝、豆は消えていました!

まぁ、気のせいかと思いながら、バシャールの本を読み始めると、、本の中でこのような記述がありました。

夢の中で、他の惑星に行ったりしている人もいる。
バシャール達の食べ物は、主にエネルギーだが、物質的な食べ物は、黄緑色の豆。

そのページをみた途端、凄くおどろきました!!!!!
私が握っていた豆は、それだったのかー!!っと、叫んじゃいました(笑)

こんな、夢とリンクした不思議な体験は、初めてなので、凄く嬉しかったです。

あれは、夢にしてはリアルすぎて、豆の感触があったので、バシャールの惑星に探検しにいったのかなーと、勝手に思ってます笑!

また、これから不思議なことがたくさん起こりそうです!!!!
トーマさん、紹介してくださり、ありがとうございます。

ミトコンドリアクリーナーも愛用してますが、凄く良いです!
これからも、トーマさんのブログ応援しまーす!!!


○Sさんの体験談


トーマさん こんばんは

初めてメールします。
トーマさんのHPや、ブログは毎日チェックさせていただいてます。
いつも、共感・共鳴できるお話で、
読んでいてとても楽しいです。
いいお話をありがとうございます。

短期間でかなり「精神世界の鉄人」にのめりこみ(笑)、
実は本も購入し、
ペンダントも購入し、
次はミトコンドリアクリーナーか
といったところです。

今日は、アセンションペンダントのご報告をさせていただきたく
メールしました。
数え切れないほど多くの改善がみられましたので、
お知らせいたします。

落ち着いた時間にゆっくりケースを開けたところ、
頭がモアーっと熱くなりました。
視力が急に良くなったというか、
瞬間的に視界が開けたようです。

次に、首にゆっくりかけました。
心臓がカァーっと熱くなりました。
心臓のまわりの脂肪が溶けた感じです。
(イメージです)

熱を感じて、こんなに刺激的な体験するとは!
普通はイヤな熱なのに。。
気持ちいい熱ってあるんですね。

その夜、トイレでかなりのデトックスがなされました。
こんな○んちは、見たことないという
記録的なものです。
(すみません)

夜は、必ず朝3~5時に目覚めていたのに、
朝7時まで熟睡できました。

納品されて24時間で、
これだけの変化ってペンダント恐るべしです、まったく。

その後、時々身に付けたり、
一緒に寝たり、
仕事先に持っていったり、
一緒に行動するようにしました。

・風邪のひき始めで頭痛と咳があったのに、すぐ治った。
・6日間連続でハードなイベントだったのに、全然疲れなかった。
・熟睡できた。
・ニキビ続きの肌がきれいになった。
・いつも困っていた生理痛がまったくなかった。
・陶芸中、2時間が普通なのに4時間も集中できた。
・お腹がすかなかった。
・常に甘いものを食べたいのに、それほどでもなくなった。
・頭皮や肌の乾燥でいつもかゆさがあったのに、かゆみがなくなった。

非常にヒジョーーーーに驚くとともに、
自分を大切にしたくなりました。
生活しやすくなって、
ありがたいことこの上ないです。

ペンダントに頼るのもなんだかなーという思いもありますが、
これは次元上昇のための必須アイテムだ!と、
言い聞かせ(笑)、
ことあるごとに、
おともしています。
ありがたい気持ちをこめて、
きれに磨いて、
太陽に光をあてています。

トーマさんとのブログでの出会いに感謝するとともに、
有明さんやペンダントを作ってくださった方に
お礼を申し上げます。
ありがとうございます。

私だけ健康になっては申し訳ないので、
今は、主人や友人や職場の皆さんが体調が悪いと聞きつけると、
「ちょっと首にかけてみて」と
体験してもらっています。

貸しただけでも以下の改善がみられました。

・主人が首凝り肩こりの時に首にかけたら、
 朝かけて、昼には治った。

・風邪で声が小さい友人とお茶したとき、
 出会ってすぐ首にかけてあげたら、
 3時間で通常に戻り、喉も痛くなくなった。

・冷え性の友人に貸したら、ビリビリ体感後、
 すぐに手があったかくなった。

・40代男性に会話中1時間くらい貸しただけで、
 翌日毎朝やっている筋トレが軽かった。

・40代男性に会話中1時間くらい貸しただけで、
 その夜の飲み会で飲みすぎた。
 でも次の日はだるさもなく、フットワーク良かった。

・人生で一番ひどい生理痛と胃腸の痛みのダブルで弱っていた
 友人に貸したら、3時間で背筋がピンとして、なんとか仕事は乗り切れた。
 首にかけてその夜は熟睡し、朝はちょっと痛みが。。
 しかし、その日どうしても出席しないといけなかった結婚式では、
 まったく痛みがなかった。
 夏でも寒がりの彼女が、カイロなしで薄着の結婚式で
 体が熱い!と感じながら式の受付ができたとのこと。

・30分だけ貸した奥さんは、その後目がはれぼったくなった。
 普段しないのに、夜、子供に思い切り説教して頭がカァ~っとなった。
 いつも冷静で動じない奥さんなので、ある意味発散できたのかもしれません。

本当に不思議なペンダントですね。
不思議としかいいようがありませんが、
友人には大変好評です。
皆、宇宙の話には比較的受け入れてくれる人ばかりなので、
感受性がいいのでしょうね。

また、キネシオロジーももちろん興味ありありです。
オーリングも日々訓練していますし、
「パワーかフォースか」を読んでますますワークショップに
参加してみたくなりました。

私は福岡に住んでいますので、
東京は遠いですが、
機会を見つけて、
トーマさんのセミナーに行けたらなあと思っています。

それでは長くなりましてすみません。


○Rさんの体験談


すご~い事が、昨夜パパをヒーリングしてると、起こりました

私はレイキも、その他のヒーリングも、どこかに習いに行った事はないけど、半年前から身内限定で、病人に触れる事が続いていました。

私って幼い頃から時々氣で、ボールを作って遊んでいて、ある人に、3年前から、とても氣が出やすいと、言われていました。

氣というものが、私から、とても出てるのを、実感したのは、健康のために、習いに行った太極拳(気功)の先生から、言われての事だった。

3年前からはじまった、私の霊的学びの中で、自分が憑依体質で、周りの氣に、敏感なのは理解していたが、この半年ぐらい前から、周りの影響を受けにくくなったせいもあり、しんどそうにしている人を、みると、つい手が伸びて、背中などをさすっていた。

決まって身内の者だけと、限定していたけど、入院中の祖母をさする事が、きっかけで、私の手が異常に熱く、ホッカイロのようになっていくのを

「これは、なんじゃ???」

と不信に思いつつ、さすっていたが、要は、氣が大量に出ていると、うすうす、感じだしていた。

去年は、3人の重病患者(すべて身内)をさすることが、多くなった私は、自分が影響を受けているのを、なんとかしたいと思い、瞑想やチャクラの掃除に、いそしむが、バタバタしていると、なかなか時間がとれず、少しずつ蓄積しては、疲れ⇒瞑想・チャクラの掃除⇒蓄積⇒掃除を、繰り返していた。

ん~~もっと、効率的に宇宙エネルギーを、充電できないものか??
と考えて、今まで興味もなかった、パワーグッズなるものを、手にしてみようと、考えた 。

すると、いつものごとく、天然石についての情報が、色々なところから
運ばれてきたが、私に合うものはなく、結局その情報と石は、友達の妊婦さんに、届けられた。

ん~~何かあるはずなのに・・・

意識が働いていわゆる、「引き寄せの法則」が、動き出したんでしょうね。

精神世界の鉄人さんが、紹介しているではありませんか 、「アセンション」と言うペンダントを・・・

もともと、ペンダントやパワーグッズに、興味を示さない私が、衝動的に
「これや!!!」
と購入をしておりました。

このペンダントが届いたのが、12月はじめです。

待ちに待ったペンダントが届いた日は、末期ガンで入院している、叔父の見舞いに行く前でした。

叔父のお見舞いに行く時の私の体調は、12月の忙しさと二日酔いの
せいもあり、頭は痛く、肩こりはピークにきており、身体は重だるい状態だったので、

「これは、ペンダントの効果が、実感しやすいはずだ 」

と良いように考え、病院までの1時間かかる道のりで、自分の身体の変化を、観察してみた。

10分後・・・ん?んん? 身体が軽くなってきた
30分後・・・ん?んんん? 肩こりがなくなってきた

その後・・
   
ひゃぁ~ 頭の中に、ミントを入れられたみたいに、スッー っとしてきた 。
叔父の病院についた時は、すでに、私の状態が良くなっていた。

でも、なぜか疑いよりも

「そうやろなぁ~」

と納得している自分が、いるのに驚いた 。

このペンダントをつけて、叔父の病院に見舞いに行くたびに、身体をさすっても、私が疲れることはなくなり、叔父も私にさすってもらうのが、気持ちいいようで、楽しみにしてくれているのが、伝わってきた。

そんな時、病室にクリスマスツリーを飾りに行くと、叔父はぐっすり
眠っており、微動だに動かないので、試しに氣を送ってみた 。

叔父の身体はピクピク動き出し、電気治療を受けているようになった。

私はこれを見て、エリックパール氏の【リコネクション】で、エリックが体験した様子を、思い出した。

このペンダントを手にしてから、私の意図とペンダントが、共同作業に、取り組んでくれたようで、身内限定から近しい友人に、手をかざす事が増えた。

ペンダントで、私自身が中和されているからか、前にも増して手をかざすと、様々な変化を体験しだした。

冷えがきつい人に、手をかざすと、(腰と下腹部)手は熱いのに、手の平の真ん中だけ、風が通り抜けるように冷たい感じがあり、痛みのある人の場合、痛みの患部に右手をあて、左手を首の後ろのくぼみ(エネルギーが、入りやすいと言われる場所)にあてると、右腕をピリピリと電気が皮膚の表面を走るように、感じたりするようになった。

受けた側は、下腹部に手を当てた人は、いつまでも下半身が温く、温泉に入ってるみたい という人もいたり、痛みのあった人は
「とれた 」
という人もいた。

そして、冒頭に書いた旦那様のヒーリングで
「すっすごい 」
と実感することが起きた

1月4日、年末年始を、とってもとっても、忙しく動いていた私は、ペンダントのおかげで、本当に疲れることがなくなり、お正月最後に
、子ども達を楽しませるために、家族ででかけていたら、帰り道に旦那様が
「あかん・・・痛い 」
と言い出した。

歯茎にあきらかに、大きなふくらみがあり、膿がたまっているような
袋ができていた。

頭は痛く、首のリンパ節まで痛みと、腫れがひどくなり、虫歯のせいか、又は菌が身体に入ったようだった。

旦那様は私の体質やスピ系についても、理解のある人で、さすがの痛みに
「ヒーリングしてくれ!!!」
と言ってきた。

上に書いたように、最近体験している手順で、ヒーリングをして一時間後、痛みがまったくなくなり、あれだけ腫れていた歯茎が、風船がしぼんだようになって、身体が軽くなった と、めずらしく旦那が大喜びした。

私はヒーラーとして、この施術を職業にするつもりは今はない。

私は沢山の人達が、この天からの贈り物に触れて、心を癒す人・身体を癒す人・魂を癒す人が、どうしたらもっと増えるのか?
をいつも自分なりの答えを探している。

もちろん答えは一つではなく、とってもとっても、シンプルであるともう一人の私は知っている。

旦那様のヒーリングの時、こんなに効果があったのは旦那様が、協力してくれたからだと思う。

いつも私が瞑想するときに、金色に光るエネルギーを呼吸と共に、身体に取り入れ、足の裏から、自分のマイナスのエネルギーを、出すのを、ヒーリング後に行ってくれたから、効果が早かったのでは?
と思う。

私は、とても体験したがるタイプの人間で、今回は、自分を光を通すパイプ役の体験を望んでいた。

このペンダントは、未熟な私が色々なことを経験したがるもんだから、サポートするために、私のところに来てくれたんだと思っている。

最後に、エリックパール氏の著書より・・
すべての人が、人生の目的・・・・
すなわち、他者に供するための独自の贈り物や特別な才能を、もっている。
この独自の才能を、他者への奉仕に結びつけたとき、私達は、至福を感じ、スピリットの歓喜を体験するのだ。
それこそが、目標のなかの究極の目的である。

沢山の方々が、独自の贈り物に、気がつかれるのを、心より願っています。

又、手作りで、1点1点ペンダントを作られた発明家さんとトリプル向日葵さんと私にこのペンダントとの縁をつなげて下さった、精神世界の鉄人さんに、心から感謝いたします


○Iさんの体験談


はじめまして、トーマさん☆
いつもエッセイを楽しく読ませてもらってます。
ペンダントアセンションを購入しました
Iと申します。まだほとんど時間が
たってないのですが、感想を送ります^^

まず最初に来た時に大きいのと銀ではなく
金色だったのに驚きました。よくわかりませんが
プラーナの管みたいなものなのかなと思いました。
そのあと急に眠くなったり、悪夢をみたりして
つけたり、つけなかったり
時々やすませていました。
腰にしていた低温やけどの跡が
すぐなくなったり、健康への意識が高まって
とてもシンクロが増えました。

ペンダントのエネルギーが陽という感じがしました。
外出時につけると自分が人をひきつけるかの
ように会うべき人に会うので驚きます。
家で水漏れや機械の故障などが起きたのですが
なぜかベストなタイミングで工事がおこなわれて
お家が少しづつ綺麗になっていきます。

磨き粉で磨くと真っ黒になるので、驚きました。
ついでにいろいろな自分のアクセサリーも綺麗にしました。
あと水漏れのタイミングで磨き粉であらゆる
蛇口を綺麗にしてみたら、新品みたいになって
磨き粉にも家族全員でわくわくしました。
輝くものを輝かせるっていいですね~
他には珍しく家族と喧嘩をしてしまい
でもこれもまた解放かしらと思って
散歩にでてダイエット気分にひたったり
何だかこれもまたいいか!という
ような気持にさせられます。
ありがとうございます^^

というわけで、なんとなく思いたって
お手紙いたしました。いつもエッセイがとても面白い
ので、感謝というか、楽しみにしています。
不思議な話や21の法則やラズベガスのお話、演じると
いう話やバシャールのお話、体を鍛えてらっしゃるからか
一方向じゃないお話が深くて何とも面白いです。
では、長くなりましたが
今後ともご活躍を楽しみにしています^^


○Hさんの体験談


さっそくペンダントお送りくださいまして
誠にありがとうございました!
手短ですが、着けての感想を送らせていただきます。

さっそく着けさせていただきました。
ビリビリ感は感じられませんでしたが、体温がほわっと上がるのを感じて、
その後わーっと体になじむのを感じました。
面白いのは、ネガティブなことを考え続けることができないことです。
どうやら、ネガティブなことに囚われて考え続けるようなエネルギーが保持
できないようです。
ちょうど、とっても気になっていることがあったのですが、
つけたら即座に、それがもう遠い過去でどうでも良いように感じられました。
説明書に、ネガティブなエネルギーをポジティブに変換して放出、と書いてありましたが、
本当にそのようです!びっくりしました。感激。
また、パソコン作業を続けても疲れにいようです。

このペンダント、とても面白いです!
また変化や面白いことがありましたら、メールさせていただきます。
それから、メールはイニシャルでしたらHP等にお使いくださって構いません。

ありがとうございます。
愛と感謝をこめて


○Mさんの体験談


こんにちは。
日曜日にセミナーに参加したMです。
楽しいセミナーをありがとうございました。

先ほどですが、ペンダント「アセンション」を注文させて頂きました。

懇親会の席で、ミトコンドリアクリーナーと共に、試しに着けてみた時は、
お酒に酔わなかったりと不思議な現象が起こったりもしましたが、
次の日の月曜日も、実は2時間半しか寝なかったのに、もの凄くいい目覚めで、
全く眠くなく、会社でもまれに見る仕事のはかどりようでした。
また、一番驚いたのは、火曜日まで花粉症の症状が出ませんでした!
(水曜からは出てきました)
20年振りに心地よい春でした(笑)

非常に驚きましたので、さらに試してみたいと思い、注文させて頂きました。
上記の効果はミトコンドリアクリーナーの力もあると思いますが、とりあえずペンダントから
体験してみたいです。

ペンダント到着を心待ちにしております。
楽しみです。
どうぞ、よろしくお願い致します。


○Kさんの体験談


期待しまくって しまくって
なかなか届かなくて、3週間以上経って やっと届いたので
寝るときも 起きてる時も つけている。
私の場合は つけて 冷たいとか 温かい、とかは 全くない。

すごい!と思ったのは、
仕事上、繁忙期であり 通常の倍以上の量を こなさねばならず
それは 電話によるお客様対応と 書類の記入量が
倍以上になっている、ということである。

ゆえに休日出勤も含めて、
2連休が1カ月もない、というありよう。

ふだん、肩など こらない私なのに
熱をもったかのように 右肩が ひどく こった。

月祥天家では、私を含め 2人しかいないので
お風呂を 滅多に 入れず シャワーだけで 過ごしていた。

・追い炊きじゃないこと
・毎日は お湯を 洗濯に有効活用しきれないこと
・経済的理由

からである。

しかし あまりの肩の こりように
「湯に!! 湯に浸からないと イカン!」と確信し
夕方から ひたすら眠りこけている夫が
すぐ入ってくれないと 湯が冷めてしまって
最も もったいない状況になるのは 承知で

湯を入れて 浸かった。
生き返った。

しかし。

肩こりが ない状態を 0として
肩のこり具合が 10だったとしたら
湯に浸かったおかげで 治るかと思ったら
8 ぐらいにしか 治まらなかったのである。
この時、ペンダントは まだ届いていなかった。
うー、(・Θ・;) このままでは 繁忙期が終わる4月末まで
この ひどい肩こりは 治らない ということか、と思っていた。

それが。
ペンダントが届いたのは 仕事が終わって帰宅しての夜。
つけて 過ごして ふと気づいたら
無いのである。
肩のこりが。
度合1~1.5くらい。
ガーンマジですか。と私自身が 驚いてしまった。

更にもうひとつ。
身体の一部分が 湿疹でもう15年くらい 続いていて
複数の医者に行っても 血液検査をしても 治らず、
大神島で作られた塩を もってしても
一時的に 治まったが
結局は完全に かゆみが 治まることは なかった。
シャワーの時などは 思いっきり かいてしまうくらいだったのに
「かゆい」ということを すっかり 忘れている。

このペンダントをしたまま、水晶クラスターを持って瞑想してみたら
まばゆいばかりの光が 自分自身の各チャクラから視えたり
どこかとつながって(高次元とかでなくて)
誰か男の人が 一方的に しゃべっているのが ひたすら聞こえる。
話は全く わからないんだけど。
ただの世間話っぽい。

以前 どこかの空港と つながって(?)
ポンポンポンポーン
なんたらかんたら・・・と英語で 飛行に関する場内アナウンスが
聞こえてきたりと いうことがあった。

どうも私の場合は どこか別の場所に 意識だけ瞬間移動して
そこに居て 聞いているかのように 聞こえてくるようなのだ。
そんなのも 最近パッタリ なかったのだが
久しぶりに 何か聞こえた、という体験をした。


○Nさんの体験談


先月、ブログを読んでいて夜中に衝動買いしてしまいました。(^_^;)
独身貴族の時代ならあり得たことですが、私は現在無職の専業主婦で小遣いすらありません。
独身時代の貯金は確かにありますが、自分の服や美容院代も我慢して息子に回してしまうのに、こんな高価なものを買ってしまった~!!と気づいたのは決済ボタンを押した後でした。(笑)
寝る前だったので、思い出してドキドキしてなかなか眠れませんでした。

それが昨日の満月に届きました!!
ジャスト2週間ですが、満月に届くのはきっと何か意味があるんだと思います。
事前にブログで説明は読んでいたんですが、届いた時にすでにずっしりと存在感を感じ、3歳の息子の前で開けると触られまくると思い、寝てからの開封でした。
居ても立ってもいられずに早速首からかけてしまいましたが、本当は優しく拭いてあげてから・・・と読み後からふきふきさせてもらいました。

首からかけながらプチ瞑想をしましたが、胸からお腹にかけてずっしりと重いような何かで押さえられるような感じがしました。
新しい自分へ変化するのにやはり抵抗があるみたいです。
なので、焦らずに少しずつ慣らしていこうと思います。
あと普段猫背の私が、かけた瞬間スーッと背筋が伸びたのにびっくり。
そして、アセンションの効果なのかわかりませんが、昨日は寝る前に3回トイレに行き夜中にも1回、朝も普通に出て、それほど水分は摂ってないと思うのですが浄化なのでしょうか?
さらに先ほど滅多に夜に大の方(汚い話ですみません(^_^;))はでないのですが、お腹を壊しているわけでもないのに、まるで浣腸をしたかのように水のような便が腹痛もなく自然にでました。

発明家の方がホピ族の酋長とアトランティスの過去世を持つと書いていましたが、私もホピ族のカチナダンサーやアトランティスでの過去世があります。
どこかでご縁があったのか、繋がっているのか、どうしても欲しくなったのかもしれません。
これからどんな不思議体験があるのかとっても楽しみです♪
また何かあったら報告させていただきますね。
ありがとうございました~♪(*^_^*)


○Mさんの体験談


お久しぶりです。
お元気でしょうか。
僕は特に体調を崩すこともなく、元気です。

ペンダントを手に入れてから、いろいろありましたので、また報告させて下さい(笑)

まず、体調は、相変わらず良いです!
前にもお伝えしたように、ペンダントを着けている間は、お酒に弱いということは、現状も、ほぼありません。
一度だけ、気分が悪くなりかけたことがあったのですが、そのときはペンダントに対して、感謝の言葉を投げかけてみた所、一瞬で酔いが覚めました。

花粉症も、結局発症することはありませんでした。
去年までの自分がウソのようです。
また、花粉症だけではなく、他のアレルギーに対しても、効果があることが分かってきました。
実は、僕は猫が好きなのに、元々猫アレルギーでして、猫に1mの所まで近づいただけで花粉症よりも強烈なアレルギー状態になってしまう体質でした。
ホームセンターのペットコーナー等は結構危険でした(笑)
しかし、ペンダントを着けた所、猫に触れても症状が全く出なくなりました。
少し疑り深く、何回か試しているのですが、一度も症状は出ていません。
これは非常に嬉しいです!

また、体調のことだけではなく、身の回りも変化しているようで、何度か珍しいことも起こりました。

目立ったこととしては、知り合いのコネで、某有名人にプライベートで招待してもらい、スーパーカーを見せてもらえたりしました。

仕事も、状態が以前よりも良好になり、楽に心地よく出来ている気がします。
ペンダントを着けて以降、物事の角が落ちる(?)ような感触で、色々なことがスムーズに進んでいるように思います。

以上、ご報告です!
素晴らしいペンダントをどうもありがとうございました。

近々、今度はミトコンドリアクリーナーを試したいと思っています。

また連絡しますので、よろしくお願い致します。
それでは!


○Iさんの体験談


お世話になります。
無事ペンダント届きました。
1週間経過しましたので、感想送らせて頂きます。

まずパニック症候群の薬から離脱成功しました。
ペンダントが届く前夜から断薬を決行。 
ペンダント来たら止めれると勝手に妄想しておりました。 
断薬後2-3日は時々辛い感じあるも、4-5日目から結構爽快な気分に。 
プラシーボ効果!?とも疑ったりと。
とにかくメデタシメデタシです。
意外とあっさり止めれました(笑) 
何でこんな簡単に止めれるの??という感じです。
離脱症状は薬を飲んだ期間は続く可能性ありとどこかに買いておりましたので、無理せず冷静に経過観察をしていきますが、心の中ではもう必要ないと決めている自分がいます。
以前トーマさんのキネシオロジー個人セッションで7月末以降には薬止めれるという診断が出まして、「そんな簡単に薬って止めれないよな~」と心の中で思ってましたが、ペンダントのおかげか、7月上旬には止める事が出来ました。 
僕の中では奇跡に近いです。

二番目に、睡眠時間が減りました。
初日は付けて寝たのですが、何度も起きてしまい。
パワーがみなぎっている感じでした。 
二日目以降は枕元において寝る様にしました。
それから大分落ちついて寝れる様になりましたが、不思議な事に、目覚めが良く、又、眠りが深い現象が続いております。
今までは目覚めが良ければ、眠りが浅くて、見た夢をすぐに思い出せてたのですが。
今では眠りが深く、でも朝バチっと目が覚めるので、とっても不思議です。

最後に、最近小さなゲップがよく出る様になりました。 
何かの好転反応かなと。

未だ1週間ですので、まだまだこれからが楽しみです。
この様なご縁を下さいましたトーマさんに感謝しております。


※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※


たくさんの体験談、ありがとうございました!



なんの変哲もない普通のペンダントに見えますが、凄まじいヒーリングパワーを放っています。
首から下げると、すぐに、宇宙のエネルギーが、全身をまわるのを感じると思います。
大切な方へのプレゼント用に、購入される方も、多いみたいですね。





☆購入希望の方は、下記のサイトから、友人の有明さん(トリプル向日葵さん)に、お願いします。

○「トリプル向日葵」

http://triplehimawari.ocnk.net/




 

 

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トーマ

 
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