定住をせず、羊を追って暮らす遊牧の民にはまず「国」という概念がなかった。
自分達が「モンゴル人」であるという民族意識はあったものの、固有の文字を持たなかった彼らには明文化された掟というものもなかった。
漠然とした決まりはあったが、それすら強い者は時に応じて自分に都合のいいように作りかえてしまう。まるで幼い子ども同士が遊んでいる時のルール並にいい加減なものだった。
国家による法も宗教による戒律もない、人類が発祥してすぐの時代の生活はそんな状況だったんじゃないだろうかと、「モンゴル」を見て思った。
もちろんこれは映画なので、実際の当時のモンゴル人達の暮らしぶりとは違うかもしれない。
ただこの映画を見ていると、統一国家による法の整備や宗教の戒律を生活の指針とすることは人類が発展するために不可欠なことなのだと思えてくる。どこかで何かの歯止めを設けないと、人間という動物は幾らでも殺し合いを続けてしまう。女や子どもまで殺し続けると、人類という種の絶滅にまでつながりかねない。
テムジンは悲惨極まりないと言える己の境遇の中で、人を恨むことではなく、どうすれば人が人として生きやすくなるのかを考えた(この場合の「人」イコール「モンゴル人」である)。
それには「掟」があればいい。
しかし、その「掟」を有名無実なものではなく、モンゴル人全てが従う強力なルールとするためにはどうしたらいいのか?
テムジンは考える。
自分が強くなれば、自分の配下の人間をそのルールに従わせることができる。
強くなれば強くなるほど、配下の人間は増えていく。部下もその家族も。
勢力を拡大すれば、それだけ「掟」に従う人間を増やせる。そうすれば、モンゴル人は平和に暮らせる。
その思いから彼はモンゴルの各部族を従え、ついにはチンギス・ハーンとなってモンゴル帝国を開くことになるのだ。
これは一種、非常に美化したチンギス・ハーン像といえるだろう。
彼の行動は征服欲の趣くままではなく、最終的には人類の恒久平和を目指したものだと言っているからだ。その考え方がどれだけ受け入れられるかというのは別問題として。
しかし「モンゴル」はタイトルが示すとおり、チンギス・ハーンの伝記映画ではなく、モンゴルの人々の誇りと威信をかけた作品なのだ。美化して描かれたテムジン像を通し語られるのが「人類が存続するためには掟が必要」という根源的でかつ壮大なものであることは素晴らしいと思う。
それにテムジンがテングリ(狼の姿をしているモンゴル人の守り神)から得た掟はとてもシンプルで僅かなものだった。
うろ覚えになってしまった上順不同だが、「女子どもは殺すな」「恩義は忘れるな」「主人を裏切るな」「敵とは最後まで戦え」、ぐらいだったように思う。これだけシンプルなら、守るのもそれ程難しくはない。
チンギス・ハーンはモンゴル帝国の祖だから英雄なのではない。
モンゴル人に守るべき掟を与えたから英雄なのだ。
これはそういう映画だった。