オスカーウィナーの話題性だけでフォレスト・ウィティカーは使わない。その卓越した演技力が作品に深みを与えてくれるからだ。表面的な泣きの演技で観客を感傷に浸らせるのではなく、彼が演じるキャラクターの心情が映画に人間的な深みを与えてくれるのだ。


「バンテージ・ポイント」での彼の役名はハワード。

最初はただの気のいいアメリカ人観光客として登場するが、彼の持っていたビデオカメラに大統領が狙撃される現場が逐一撮影されていたことから事件に巻き込まれる。


――わけではない。


彼は敏感にその場の雰囲気の微妙な変化を嗅ぎつけられるらしいのだ。茫洋とした表情を浮かべながらも、普段の自分の生活とはまるで違うサラマンカの空気を全身で感じ取ろうと感覚を研ぎ澄ましていたのだろう。だからたまたま居合わせた場所での重要な情報を余さずキャッチしていたのである。


事件発生後、カメラの映像をバーンズに見せることが解決の重要な鍵となるが、しかしその後二人は別々に走り出すのである。

バーンズは大統領を狙撃した犯人を捕らえるため、ハワードは迷子の女の子を助けるために。



巻き戻る時間の中で明らかになるのは、ハワードが家庭に問題を抱えていることだ。その詳細は分からないが、しかしハワード自身はまだ深く妻子を愛していることだけは伝わる。自分の子どもへ向けられずに出口を失っていた愛情を、ハワードは通りすがりに知り合っただけの小さい女の子に全部注ぎむのだった。



ハワードが命がけで助けようとしていた女の子。

この子が映画を最後にまとめる鍵だった。



母の姿を求めて車道に飛び出した女の子の姿に、慌ててハンドルを切ってしまう男。

彼がそれまで見せていた非情で任務を全うさせるためなら殺人をもいとわない人物像とはまるで裏腹な姿。

咄嗟の時に少女の命を救う道を選ぶ優しさこそ、彼本来の姿なのだろう。


少女の存在になど躊躇せず車を直進させていれば彼の計画は成功し、思い通りアメリカを破滅に追い込めたのに。


彼の優しさが、結果的にアメリカを救うこととなったのは皮肉である。


しかし観客は彼がその優しさを示したことで救われる。憎むべきテロリストも自分達と同じ人間であることが理解できるからだ。一方的にテロリストを糾弾するだけの映画では単純すぎてつまらない。かといってテロリスト側の理屈をずらずら並べ立てられても仕方がない。理屈というのは結局どこまでも平行線を辿り、接点は作らない限り生まれないものだからだ。


だが幼い者を守るという優しさは人類に共通する心情だ。

それを見せることでテロリストへの共感を生ませるこの脚本は心憎い。

もちろん最終的にこの少女をすくい上げるのはアメリカ人のハワードなのだが。



バーンズは大統領のために奔走し、ハワードは少女のために全力を尽くす。

他人のために命をかけたことが、結果的に彼ら自身の人生をも救うことになる。

この映画でアメリカが助かったのは、実はそのついでだったりするのだ。