好きでもない映画なのに、書きたいことがいっぱいあるというのはやっぱり凄い作品なのかもしれないわ、「ノーカントリー」。


このあとネタバレになるので映画未見の方は御注意下さい。




ネタバレ感想(ココ )で、私はジョシュ・ブローリンの演じた役をランボーになぞらえたけれど、ではハビエルは一体何に当たるのかとずっと考えていた。


「ノーカントリ-」は1980年代が舞台である。

ベトナム戦争の終結は1975年。

ランボー的存在の誕生が70年代に遡るのなら、それと対決する存在も同じ時代に端を発するものだろう。


70年代に始まったものって、何だろう?


そこまで考えてピンときたのは、たぶん私がジョン・カーペンター監督のファンだからだろう。

彼の出世作である「ハロウィン」(Wiki )が全米公開されたのは1978年。

ホラー・アイコン、マイケル・マイヤーズが誕生したのはバリバリの70年代だったのである。

現代まで連綿と続く、ショッカーやスプラッタを含むホラー映画の系譜は、まさにこの時から始まった。


そして1980年、満を持して(ウソ)登場するのが「13日の金曜日」、さらにその続編を待って活動を始める殺人鬼ジェイソン(ボーンに非ず!)の時代がやってくる。


そう、ハビエル・バルデム自身が気づいていたかどうかはわからないが、彼が演じていたのはまさにホラー映画に出てくる現実を超越した殺人マシンそのものだったのだ!


70年代から80年代にかけてアメリカを震撼させたホラー映画の悪夢が、21世紀になって生身の体を持ち現実の存在となってスクリーンに現れた姿がアントン・シガーだったのだ。この名前はもうマイケルやジェイソンと並べて語ってもいいかも。



70年から80年にかけて次々登場した有名ホラーの殺人鬼達には顕著な特徴がある。

彼らとは、人間はコミュニケーションがとれないのだ。


マイケルやジェイソンは体は人間で出身はアメリカかもしれないが、言葉はまるで通用しない。返事をしないでひたすら殺し続ける彼らにそもそも言葉を理解する能力があるかどうかもわからない。

「エルム街の悪夢」のフレディーは自分のお喋りに熱中するばかりで、人の話など聞きゃしない。彼は夢の世界の住人なので、住む世界が最初から異なっているのである。


同じ国に生まれていても、同じ言葉を喋っていても、彼らと会話を成立させることはできない。


コミュニケーションの断絶。


それこそが当時生まれたホラー映画の最も恐ろしいコンセプトだった。


人間はライオンとは意思の疎通ができない。

だから彼らに「食わないで」と哀願しても無駄なことを知っている。

それ故ライオンの群れに入る時は充分な装備と用心と注意が必要なことがわかっている。


でも同じ人間なら。

言葉が通じなくても、人間同士なら笑顔一つで生まれるコミュニケーションもある。

同じ国で生まれたなら共通の言語が、同じ町で生まれたなら共通の習慣が、太いコミュニケーションのパイプとなる。

人間同士なら意思の疎通ができるれば「殺さないで」と頼むこともできるし、それ以前に「殺すなかれ」という共通認識が共同体に存在していれば見ず知らずの他人を見ていきなり「殺される!」と脅えることはない。


ところが同じ人間の形をしたものでも意思の疎通ができなければ、それは容易に殺人者に変貌する。

「やめて、殺さないで」

というこちらの意志が伝わらなければ、相手はその手を休めることなく殺戮を続けるだけだ。


そういった存在が、ひょっとしたら身近に紛れ込んでいるかもしれない……というのが70年代に生まれた恐怖だった。

その発想があまりに恐ろしいため、殺人鬼達はマスクやかぎ爪といった特殊な持ち物でマーキングされた。

マーキングされていれば、それは意思疎通できない存在として遠くからでも分かるから、君子なら危うきに近寄らなければ安全でいられるのである。そういう安全弁を設けなければ、当時は恐くていたたまれなかったのだ。



残念なことにその恐怖は現実のものとなり、アメリカでも日本でも他の国でも、前日までコミュニティーで普通の生活を営んでいた者が一夜あけると無差別殺人者となって学校でマシンガンを乱射したり駅前で通りすがりの人々を刺したりする事件が相次いでいる。



現実がホラーの悪夢を追い越してしまったのだ。

その恐怖は虚構ではなく、すでに日常のものとなった。

もはや殺人鬼をいちいちマーキングする必要さえない。


ごく普通の男が、相手の意志をまるで無視して無造作に殺戮を重ねて歩く……それが現代のスクリーンに甦った70年代ホラーの殺人鬼、アントン・シガーである。


どおりで居るだけでたたずまいが不気味なはずだ。

異様な髪型と妙な得物は、かつてはマスクやかぎ爪だった「この男、危険」の目印の名残なのだろう。

彼に英語は通じるが、こちらの意志は通じない。つまり、コミュニケーションは成立しない。何か話したとしても、それは単なる時間の無駄。その時点では恐いというよりイライラするが、その得体の知れなさが次第に恐怖を募らせる。上質のホラー映画の恐がらせ方そのものだ。



つまり「ノーカントリー」は、表向きはともかく、内実は「ランボー対ジェイソンorマイケル」なのである。

超絶肉体派アクションヒーロー対超常ホラー・アイコン。そりゃおもしろいに決まってるわ。


ということは、勝負の行方は見るまでもなく決まっていたわけだ。

ランボーは死ぬが、ジェイソンやマイケルは死なないのだもの。


そんな所にごく普通の保安官が割って入ろうとしても、居場所なんかありっこない。
それでも最後まで生き延びたのだから、彼は主人公の資格充分なのである。