1 人間の意志を超越して人に幸、不幸を与える力。また、その力によってめぐってくる幸、不幸のめぐりあわせ。運。「―のなせる業」「―をたどる」 2 将来の成り行き。今後どのようになるかということ。「国家の―」 |
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と二つの意味があるので、ダァさんが主張してるのが1の意味、エリーさんが押し通したのが2の意味ということになって、つまり双方正しいということになりますね。
まあ、そんなことを聞かれてるんじゃないことは百も承知ですが、お二人が仲直りする時の理由付け或いは言い訳には使えそうですね。
この「運命」という言葉の二つの意味は、大まかに1は「過去」を見つめている時、2は「未来」を考えている場合にイメージが分かれて使われるているような気がします。
「未来」はこの先どうなるか分からないから、「運命」にも変化の余地がある。
「過去」はすでに起こった事で変えようがないから、予め定まっていた「運命」と思える。
その人が自分の人生の過去と未来、どちらにより多く目を向けているか、もしくはどちらにより重きをおいているかで「運命」という言葉のとらえ方も変わってくるのではないでしょうか。
不幸なできごとがあった時、それを受け入れるために「運命」という言葉は非常に有効です。
将来に予測されるイヤな事態も、それを乗り越えると決断した時点で心理的にはすでに過去の物に片付けられているので、「運命」に従ってあきらめるという使い方になります。
自分の「運命」が生まれる前から全部決まっているなら、何が起きてもそれは黙って受け入れるしかない……そういう覚悟の人が「運命は変えられない」と言うのかもしれません。
人間生きていれば、いつかは自分自身の力ではどうしようもできない事態に対処する日が来ます。
そういう時、その原因を自分や他人やできごとに求めるのに疲れ果てた時、「運命だったと思ってあきらめる」ことがすごく楽だったりするのです。
疲れてない内は事態が少しでも改善されるよう精一杯じたばた足掻くのもまた一つの生き方ですけどね。
普通人間はその両方の間をふらふら行き来しているもので、全てをがっちり「運命論」で片付けたり、或いは一切の運命宿命を信じなかったりという両極端には走らないものです。
私は今年に入ってから持病の椎間板ヘルニアが悪化して、3月には右脚の激痛で遂にまともに歩けない程になりました。
でも痛い間はまだよかった。
歩けないのは痛いからだと思っていたから。
医者に行って、薬を貰い、痛みがある程度おさまってから初めて気づいたんです。
自分の右足が麻痺して動かなくなっていたことに。
痛みは、右足が歩く機能を全く果たしてないのに気づかず、普通に歩こうと無理をしていたことで腱鞘炎になっていたからなんですね。
痛くなくても、歩けない。
この事実を受け入れるのは、かなり辛いことでした。
それから2ヵ月近くたちますが、まだ足は治りません。
歩く時には右脚をひきずり、僅かな距離を移動するだけで全身がひどく疲れます。
少しずつ動くようになってきてはいますが、完全に治るのかどうかわかりません。
この足が治らないと分かった時、一生右脚をひきずらなければ歩けないと決まった時、たぶん私はそれを運命として受け入れるでしょう。そうするしかありません。
歩けなくなった自分のことを責めたり憐れんだりしても、何にもならないからです。
それよりは事実を受け入れ、それでも自分にできることを探して明るく生きていく方がいい。
でも、できれば元通り普通に歩ける体に戻りたい。
そのために治療が必要ならば、できる限りのことはする。
まだ足が不自由になると決まった訳ではありませんから。
だからまだ私は未来を向いているんです。
最後の最後まで未来を向いて、でもダメだったら笑って運命を受け入れる。
そんな生き方ができたらいいと思います。
難しいけどね。