日本の新進気鋭の画家の特集をNHKで見た(ココ )。


全然知らなかったその画家の特集を見ようと思ったのは、一にその絵が特異であること、二に画家本人が類い希なる美女であったことによる。


何故こんな美女がこんな……臓物を露わにしたりひきずったり、皮膚を裂いてその内側を見せびらかすような絵ばかり描くのだろうと不思議に思った。


私は高校生の頃に「ブス」だという理由でふられて以来、ずっと顔にコンプレックスを抱いて生きてきた。

だから美人だったら何の苦労もしないで人生送れるだろう等とつい考えがちになってしまう(実際には人間そんな簡単じゃないことは百も承知なのだが)。


しかしこの美しい女性の描く絵は、美人を見ると誰もが漠然と期待する物語「王子様と結婚していつまでも幸せに暮らしました」的な、美女=幸福という固定概念とは対極にあるものだった。


そこにあるのは、美人に生まれたが故の不幸そのもの。


彼女の美しい顔は、見る者にそこで思考停止をさせ、その顔の奥にある内面や深い感情に立ち入ることを踏みとどまらせるのだろうか。


彼女は他人が自分の顔は見ても心を見ないことを知って、深く傷ついているのだ。


代表作はどれも自画像ではないが、描かれているのは彼女の自己投影に他ならない。モデルとしてそこに存在する彼女の顔はどれも美しく、唇には微笑みさえ浮かべている。仏像やモナリザと同じような微笑み。それは自分の内面の感情を人に悟られぬように形作られた唇のカーブだ。


静かなのは顔だけで、その他の人体のパーツはどれもこれも、髪の毛から足の先に至るまで悲鳴をあげている。


私の内面を見て! 私の内側を見て!! 

血を流し、苦しんでいる、私の本当の姿を見て、と。


この美しい人は、一体今までにどれだけの声にならない悲鳴をあげてきたのだろう?


彼女にとって己の美はまるで呪いのようなものなのか?


ノー。

彼女は自分の美しい顔を愛している(番組の中でちゃんと自分がナルシストだと分析していた)。

だから作品のだけでも顔だけはそのまま美しく描写しているのだ。


現在の彼女は自分の美貌の価値を知り、最大限にそれを生かすための努力を惜しまないといった感じだ。テレビ出演のせいもあるだろうが、さすがに美意識が高い。


その彼女が描く臓物や髪の毛は、だから大変美しい。

細密画のような正確な描写は、科学を通り越してアートとなる。

そこに血はほとんど見なかった。

リアルな残酷絵と一線を画しているのはそのせいかもしれない。



これは最初に絵を見た時に第一印象として感じたことである。



その後インタビューを聞く内に、彼女が過去に壮絶な暴力を受けた体験があることがわかり、絵を見るのが痛々しくなってしまった。


美人で本人の意志とは関わりなく目立つ故に、同性からのイジメ、異性からのセクシャルハラスメント、そういったものに彼女は子どもの頃から毎日曝されて生きてきたのだろう。



周囲から抜きんでて美しい人というのは、非日常的な光景であるから、異常とほぼ同義語なのだろう。

その美貌が周囲の人間を狂わせるから、共同体にとっては迷惑な存在と言えるのかもしれない。


例えば現代ならば芸能界等の非日常な世界に子どもの内から入っていれば、日常から受ける攻撃は少しは緩和されただろう。別な世界に属する人間であると周りからきちんと認められれば、お互いの領域さえ侵さなければある程度の共存はできるものだ。


だがどうやら彼女はずっと日常性の中で生きてきたらしい。悲惨なことだ。


自分が愛してやまない自分の美しい顔が、自分を不幸のどん底に突き落とす一番の原因。


そういう凄まじいアンビバレンツの中で、彼女はどうやって精神のバランスをとって生きてきたのか。


声にならない全ての悲鳴を絵筆で紙、或いはキャンバス、或いは絹布に叩きつけることによって。


絵を描いていなければ死んでいたと彼女は言う。

それは間違いないと私は思う。


何故ならば、彼女が描いているのは彼女自身の死体だから。

彼女の描く日本画は「幽霊画」とカテゴライズされる。

そのカテゴリーがあるから日本画を選んだのではないにしろ、彼女が描いているのは生きた人間ではない。足がないとかバランスが人体とは違うとかいろいろな特徴が挙げられるが、臓物という生身のパーツがあっても生命が失われていることがわかるのは、血が流れていないからなのである。


死体は血を長さない。

腹を割かれ、内臓をむき出しにし、こぼして歩いていても、彼女が平気な顔して微笑んでいるのは、すでに死体となって生を放棄しているため、もう苦痛を感じないで済んでいるからなのかもしれない。



激しい暴力を受け、流血の中に放置された時、彼女の心は一度死んだのだ。

甦っても心の一部は死んだままで、彼女は失ったその心を求めて絵を描き続ける。


或いは、その「死」の感覚を追体験することで、現在の「生」という状態をを確認し、維持していこうとしているのかもしれない。



テレビ画面を通した絵では、実際の彼女の心を感じることはできないが、いつか本物の作品を見てその痛みに触れてみたい。女にしか分からない痛み、血を流し尽くした後の痛みに。