「ぼくたちと駐在さんの700日戦争」公式サイト
1979年、それはまだ「仲間のため」という言葉に、人生を棒に振るだけの価値を見いだすことができた時代。
1979年、それはまだデジタルが細分化した価値観を人に押しつける前。
インベーダーゲームが一世を風靡したものの、それは100円玉を大量に消費できる立場の人間限定だった。
1979年、それはまだニンテンドーがファミリーコンピューターを発売する以前の世界。
子ども達はまだ外で遊んでいた。
高校生になってさえ、持て余した暇と体力のほとんどを、外で遊ぶことにかけていた。
遊び――それはイタズラという名のクリエイション。
彼らの遊びが心底楽しかったのは、一つ一つが新たなイタズラを考えるという創造性に満ちていたからに他ならない――イタズラされる方にとっては甚だしく迷惑だが。
創造性――それは常に決まったルールでしか遊べないテレビゲームが子ども達の遊びから奪い取ったもの。暇つぶしの道具としては最高なツールだが、テレビゲームは所詮あてがわれた遊びでしかない。
テレビゲームの出現によって「遊び」の質は根本的に変わってしまった。それに伴い、子ども達の考え方も。
1979年が舞台の映画を見てこれ程の郷愁を覚えるのは、当時と現代では時代が根本的に違うということが感覚的に伝わって来るからだ。
当時だって、赤の他人のために自らの人生を一瞬で棒に振るような決断ができるような人がごろごろいたとは思わない。しかし当時ならいたかもしれないと容易に信じることはできるのだ。高校生活という日常の中でさえ。
この映画の持つ明るさは、20世紀の世紀末の明るさ。
それは実際の世紀末より20年も早く訪れていたのだと、今、分かる。
取り戻したくても取り戻せない、テレビゲームのない日常。
取り戻せないことが分かっているだけに、郷愁はいやます。
果てしない悲しみを底に秘めているからこそ、この作品の将来のことなど何も考えていないような主人公の明るさがひきたつ。彼は、ママチャリは、その後の世の中がどうなるのか知っているから。
その彼の透徹した人生観こそがこの映画の魅力なのだ。