「少林少女」 GyaOの特集ページ


ばらして困る程のネタもないようなストーリーだけど、一応。


この脚本って、一体どうやって書かれたのだろう?

ヒロインと敵役の大まかな設定を考えたあとで、それらのキャラを使って映像にしたいアクションシーンだけをまずずらずらっと書き出して、その後でそのアクションシーンが上手く結びつくように話を適当にでっちあげたのだろうか? 


いかにも日本的な道徳スポーツもののテーマである「敵に勝つためにはチームワークが大事」というのはそりゃ団体競技上の話であって、少林拳で相手を倒すためには意味がないと思うのだが。柔道だって個人戦は一人で戦って勝負をつけてるのに、何をアホな事ゆーのだ、という感じである。真の武道家というのは孤独なものではなかったのか。


大体ラストでヒロインの凜が敵地に趣くのは大事な友達一人を人質に取られたからで、ラクロスチーム全員が拉致されたわけではないし、またラクロスチームのメンバーが凜の助っ人に駆けつけるわけでもない。人質にされた娘が凜をラクロスに誘い、彼女にチームワークの重要性を悟らせた存在というのが設定だが、別にラクロスもチームワークも関係なく人質が単なる幼なじみだったとしても動機としては何の問題もないではないか。


まあ、「少林サッカー」姉妹編ともいうべき映画だから、何かのスポーツに少林拳の技を利用して派手な特殊効果を楽しむというコンセプトを取り入れなければならないというのは分かるのよ。それがラクロスなのも、ユニフォームがミニスカで可愛いからビジュアル的に一番受けるというのも分かるのよ。


だけど何でそれがクライマックスでいきなりブルース・リーの「死亡遊技」の下手なパロディになるのさ。


「少林サッカー」も「カンフー・ハッスル」もブルース・リーへのオマージュやパロディ的な要素は含んでいるけれど、脚本はあれで芯が一本しっかり通っているのよね。ブルース・リーが亡き後、撮影済みのフィルムを元に再構成されて映画化された「死亡遊技」だって、きちんとした骨格のストーリーがある。


こういう映画で重要なのは主人公側に命をかけて戦うためのしっかりした動機があることなんだけど、実はその動機を裏で支えるのは悪役側の非情な論理なのよね。彼らが非道であればある程、観客はその悪役を倒そうとする主人公にどんどん肩入れして感情移入していくという仕組みになっている。


それが「少林少女」でお目にかかったのは私が見た映画史上、最も何を考えているのか分からない悪の親玉だった。いや、ひょっとしたら悪でさえないのかも、常識がないだけで(頭はいいらしい)。


中村トオルも可哀想に。こんな何を考えてるのか分からない役にキャスティングされて一体どうやって役作りをしたのか……中身空っぽな分、見てくれの良さだけには最大限に気を使ったらしく場違いな程かっこいいのが哀しい(ちなみにこの映画ではいい服着てる男は敵である。人情味にあふれる優しい良い男は身なりに気を使わないものだという神話が生きているらしい)。


彼の演じる大場が凜の友達を誘拐し、塔の各階ごとに強い武術家を控えさせ、凜が彼らとの戦いを勝ち抜かねば自分の居る最上階にまで来られないようにしたその挙げ句、いざ自分が凜と戦う段になって明かしたその理由というのが

「お前と戦ってみたかった」

なんである。


そんなの、直接凜に会って対戦を申し込むとか、或いは黙って夜道で背後から襲いかかるとかすれば幾らでも簡単に実現できたんじゃないのか? 後者の場合は凜に負けた場合痴漢として警察に突き出される恐れはあるが、うら若き女性の拉致監禁よりはなんぼか罪が軽いと思うのだが。


大体底知れぬパワーを秘める凜と戦ってみたいというのが動機なら、人質を取った上でも最初から一対一のタイマン勝負を挑むべきだろう。手下を何十人も繰り出して凜の相手をさせ、彼女が疲れた頃に自分が登場するなんて卑怯極まりない。何か設定とキャラの動機がズレているのだ。


元々の「死亡遊技」では塔の中でブルース・リーと対戦するのはいわばラスボスのボディーガードで、ボス自身はリーとの戦いなんてハナっからやる気がないのである。そこんとこを間違えちゃいけない。


塔の中の敵を下から順に倒していって、最後のボスもその戦いを待っているのであれば、それはボスと主人公の最強としての栄誉を賭けた戦いになるべきなのだ。観客がするっと納得できる動機というのはそういうものだ。


ラスボスが手段は問わないから自分の目の上のタンコブである主人公をぶっ倒したいというのならまだ分かる。しかしそうであるなら、大場は凜を倒すためにどんな汚い手でも平気で使うキャラでなくてはならなかった。例えば「カンフー・ハッスル」の火雲邪神のように。だが中村トオルの演じる大場は凛と対戦してる時、妙に正々堂々と見えてしまう。それではと彼が今まで指示してやらせた事と彼自身の行動の間に矛盾が生じてしまうではないか!


大場は「人に勝つためには手段は選ばない。自分の手で対戦相手に引導を渡すためなら努力は厭わない」というキャラらしいが、それにしてもやってることがバカバカしすぎる。行き当たりばったりにしか見えない悪役に、一体観客は何を思えばいいのだ? 最強のヒロイン、美しき少林少女に激闘の末倒されたとしても、彼に対する感慨は「はー、そーですか」程度のものである。特殊効果がすごいだけで、アクション映画としての醍醐味=爽快感を伴うカタルシスは一切感じられなかった。



コメディだからといって、一応はアクションが売りならそれなりの見せ方を心がけるべきではないのか。


それともチームワークの重要性を歌い上げるスポーツ感動ものにしたかったのなら、その線一本で通した方がマシだったのではないか。


もし双方の良い点を取り入れてコメディかつ感動もできるアクションにしたかったのなら、もっと脚本を練り込むべきだろう。こんなでっちあげのストーリーよりは「仮面ライダー電王&キバ」の脚本の方がよっぽどよく考えられていた。


そ・れ・で・も、「少林少女」が飽きずに最後まで見ることのできる映画に仕上がっているのは、ひとえに柴咲コウのおかげなのである。彼女の女優魂に栄光あれ!