「幻影師アイゼンハイム」公式サイトキャスト
エドワード・ノートンは常に別の人間になりたがっている。
自分の体の中に見かけとは違う別の自分がいる……彼はそんな役を好んで演じ、そして常に高い評価を得る。
公開を控えている「インクレディブル・ハルク」だって同じ事、彼にとっては別人格を作り出す役を演じる時こそ俳優としての至福を感じる瞬間なのだろう。役柄の上で意図的に別人格を作るのか、事故や病気等でやむにやまれず生まれ出るのか、それはどちらでも構わないようだ。
アイゼンハイムだって例外ではない。
彼はもって生まれた名前を捨て、幻影師アイゼンハイムとして自分を育て上げた。
彼が観客に見せる顔は、もって生まれた顔とは違う。
それは確かにエドワード・ノートンにふさわしい役ではあるのだが、残念ながら彼が演じるのはアイゼンハイムになってからでしかない。アイゼンハイムへとなる前はまだ子どもの時代なので、当然子役が演じている。
それじゃダメでしょー! と映画を見ながら叫びだしたくなりましたよ、私は。
エドワード・ノートンの魅力は二つの人格の間を彼が自在に行き来することのできるその演技力にあるのだ。
二つに分かれた人格を別々の俳優(子役を含む)が演じるのだったら、何もエドワード・ノートンを起用する意味がないではないか!
そりゃ確かにアイゼンハイム一人を演じてもエドワード・ノートンの演技力は際だっている。苦渋に歪む表情なんか、他の誰にも真似できるまい。けれども彼が自分の中に隠したもう一人の自分を観客の前にさらけ出さない限り、観客はそこに「アイゼンハイム」しか見ることができない。エドワード・ノートンはアイゼンハイムとしてのみ劇中に現れ、劇中の観客を、観客の一人であるウール警部を、その目を通して映画の世界を見ている観客を、完璧に騙すのだ。
ノートンの演技は完璧だが、しかしそれだけなら他の俳優にだって真似はできる。例えばヴィゴ・モーテンセン、彼にだって「アイゼンハイム」は完璧に演じられるはずだ。彼は心の中に隠した真実を表に出さないでいる人物を演じさせたらピカ一の俳優だから。
ノートンが他の俳優の追随を許さないのは、一つの作品の中でまるで違う二つの人格を演じる、その成り代わりぶりの激しい落差なのである。それを見せない映画は、ノートンの魅力を十分に活用しているとは言えないだろう。私が今一つ「アイゼンハイム」にのめりこむことができなかったのは恐らくそのせいだ。