「アイム・ノット・ゼア」公式サイト
ケイト・ブランシェットがオスカー助演女優賞にノミネートされたこともあるが、それよりもヒース・レジャーの姿を見たくてこの映画を見に行った。
映画の中のヒースは生きて動き回っていた。芝居をし、愛を交わし、娘達を可愛がり、まるで生前の彼の姿そのままのように。後ろを向いた時に人をひきるける逞しく美しい背中と長い脚は勿論健在だった。
今はもうこの世にない人の姿を眼前に浮かび上がらせてみせるのがイリュージョンだとしたら、映画は究極のそれだろう。フィルムが回れば、そこに映る人々は笑いさんざめく。いにしえの映画ならば、すでに全員が鬼籍に入っていようとも。
「アイム・ノット・ゼア」は元来虚構である人物達のドキュメンタリーいう体裁の映画である。それがボブ・ディランという行ける伝説の人物をモデルにしたという事は情報として知られている。私はボブ・ディランには全く興味がなかったので彼が人生をどう歩んできたのかまるで知らなかったのだが、それでも映画は楽しめた。何をおいても、楽曲が素晴らしいので。そして字幕で内容を明らかにされる歌詞は衝撃でさえあった。
この映画はストーリーを語ろうとはしていない。
アメリカの社会の中で時代と世相に応じてボブ・ディランという人物がどのように受けとめられてきたのかを6人の人物に分けて描写してみせただけだ。ボブ・ディランの生涯に本当に起こった事を折り込んではいるが、だからといって全部一つながりに構成し直せば彼の伝記になるわけでもない。映画は全体としてはとらえ所のないまま、始まって終わる。
たぶん、ボブ・ディラン自身がとらえどころのない人物なのだろう。
その時、その時で様々なメディアに残っている「ボブ・ディラン」という人間と、彼の創造した音楽から立ち上ってくる彼の姿を、分かりやすい一本の軸を備えた人物として再構成するのは困難を極めることに違いない。彼の内面に迫るということは恐らく至難の技なのだ。
そこで監督は内面ではなく外側から描写することにしたのだ。ボブ・ディラン本人ではなく、彼と彼の作品から抽出したものを6個のアバターに振り分け、それぞれに一つの特徴を与えて。彼らは虚構の分身として、それぞれに一本筋の通った生き方(薬でボロボロになるのもそれはそれで筋が通っていればアリ)を観客に見せてくれる。時代ごとに生き方や性格が変わったとしても、その時その時はそれが彼の真実だったと言うことだろうか。
一人の人間を丸ごと理解することなんかできやしない、それがボブ・ディランなら尚更だ……監督のそんなうそぶきが聞こえてきそうだ。