この記事には上記3タイトルの映画のネタバレが含まれます。

未見の方は充分御注意ください。


「シューテム・アップ」と「イースタン・プロミス」の共通点は、衣装デザインがデニース・クローネンバーグというのがある。このデザイナーさんはクローネンバーグ監督の姉妹ということで大抵組んで仕事をしているのだが、他の監督の映画で名前を見るとはちょっと意外だった。いや、仕事ですから、条件があえばどんな監督の仕事でも受けるのでしょうが。


でも実は「シューテム・アップ」を見ながら衣装が好みだわ~、特にモニカ・ベルッチ可愛いわ~、なんて思っていたので、デニースの名前見つけて嬉しかったです。


クライブ・オーウェン、「シューテム・アップ」では大概いつも同じコートを着込んでいて、それで派手な銃撃を様々なバリエーションのポーズとガンさばきで繰り広げてくれるんですが、そのコート姿がいちいち死ぬ程(相手が)かっこいいのよね! 痺れます!!


「イースタン・プロミス」のヴィゴ・モーテンセンもやはりコート姿でたたずんでいる姿が多いのですが、こちらはただ黙って外に立っているだけでもコートが彼の雰囲気にぴったりマッチしていて素敵なのですわ~。


やっぱ男の衣装はコートで決まるのね!

「マトリックス」のネオ(キアヌ・リーヴス)もあのロングのコートがかっこよさの源だったわよ! とにかくコート姿をばっちりキメてこそヒーローが真価を発揮するってもんですわ(もちろん寒い地方限定)。


「シューテム・アップ」と「イースタン・プロミス」では主人公達がお洋服にかけられる予算の違いはコートの中身が語ってましたが、もうホント着てるもの見るだけで彼らの置かれている境遇がわかるんだから、映画の衣装デザインってスゴイわ~と思ったりして。


デザイナーは違うけれども、ジュノの服にもちゃんとジュノの個性が反映されていておもしろかったです。


閑話休題、この下ネタバレになります。




「シューテム・アップ」と「イースタン・プロミス」両方に出てくるのは生まれてすぐに母親をなくした赤ん坊。「ジュノ」に出てくる赤ちゃんは、母親であるジュノが養子に出す約束をしたため、やはり生まれてすぐに実の母からは引き離されてしまう運命だ。


だがその赤ちゃん達はいずれも「神様が授けてくれた宝物」として、他の家庭に幸せをもたらす使者となるのだ。


母親達が妊娠した経緯はそれぞれだが、生まれてきた赤ん坊には罪がない。普通の新生児同様、赤ん坊達は出生の瞬間から側にいる大人に守られ愛されている。ごく、当然のように。


映画の中で赤ちゃんによって幸せをもたらされた大人達は、皆自分の子どもを失った人達だった。「ジュノ」のヴァネッサには貰えるはずだった養子を土壇場で生みの親に心変わりされてダメになったという経験がある。喪失の痛みを抱えた人達にとっては、例え血がつながっていなくても赤ちゃんの存在が心の支えになる……3作品とも底にはそんな思いが流れていたようだった。


日本ではいまだ親子の血のつながりはこの上なく重要なものだとする考えが大勢を占めているようだが、アメリカではそんなものにとらわれなくても深い愛情さえあれば立派な親子になれるという感覚が広まっているのだろうか。期せずしてそんな共通点をもつ映画を3つも続けて見てしまったのでそんな気がするだけなのだろうか。


しかしそんなことよりも、映画の中では赤ちゃんを貰った人達がそれまでとは打って変わって幸せ一杯な様子になっているのが微笑ましかった。字幕にまで「ママでちゅよ」なんて赤ちゃん言葉を使われるくらいだから、英語でもさぞメロメロな喋り方をしているのだろう。そのくらい愛されているなら、きっとその子は幸せに育つに違いないと観客はそのシーンを見てなんとなく安心する。


赤ちゃんというのは、まだ人類はこの先も続いていくという証拠、未来の保証である。どの赤ちゃんも平等に幸せになって欲しい。そんな思いがあるからだろう。


現代は、残念ながら、「実の親」というだけでは赤ん坊を大事に育てるという確信が持てない時代になってきている。子どもが幸せに育つためには、血のつながりだけではなく、もっと能動的な愛情が必要だと私達は漠然と感じているのだと思う。子ども本人の幸福のためには真摯な愛を注げる者が親となった方がいいのだと。大事なのは血のつながりよりも生活環境よりも、子どもをしっかり育てるという意志である。結局はそれを持つ者が最終的に親になるのだ。


全くタイプの違う映画が同じ事を語っていた。

それは恐らく現代のアメリカでの「家族」や「親」というものの概念が変わるなら「こうあって欲しい」と思われている方向を示しているのだろう。


それはたぶん、アメリカにはそうではない親に育てられている子ども達がたくさんいることの裏返しなのかもしれない。