「告発のとき」公式サイト
お友達が好意で試写状を譲ってくださったので(感謝!)喜んで行ってきました。
何をおいてもトミー・リー・ジョーンズが渋くてかっこよかったです!
「ノーカントリー」でのトミー・リー・ジョーンズを見た時に期待した彼の姿を「告発のとき」で見ることができました。そうそう、彼にはこうやって一途に一徹に一人でどんどん捜査を進めて欲しかったのよ、という感じです。この映画では彼は現役の捜査官ではないんですけどね。
実際に捜査に携わるのはシャーリーズ・セロン。地味な髪の色に地味な化粧、地味な服でも、それでも彼女は美しかった! 彼女が出てくるだけで画面が華やぎますからね。しかも背が高くて肩幅が広いので、刑事役が意外なほど板に付いているんですわ。言っちゃなんだけど、「ブラックサイト」でFBIを演じていたダイアン・レインが全然はまってなかったのとは大違い。シャーリーズは「スタンドアップ」でも男社会で嫌がらせを受けながら働く女性を演じていたけれど、やっぱり上手い女優さんです。
もう一人のアカデミー女優はスーザン・サランドン。トミー・リーの奥様役。愛息子を失うという悲痛なやくどころで、彼女の演技を見ているだけで身内から哀惜の念がこみあげてくる程、母親としての無念さを全身で表現していました。「エリザベスタウン」では夫を亡くしたばかりの演技だったんですが、それとのあまりのかけ離れぶりに、長年連れ添った夫婦なら、夫を亡くすというのはある程度織り込みずみであっても、子どもを失うというのは受け入れがたいものなんだなあ、と思ったりして。いや、そもそも映画が違うんですけどね。それにしても幅の広い女優さんですわ。
そのアカデミー女優二人を相手にしてどこまでも自分らしさを押し通せるトミー・リー・ジョーンズがこの作品でオスカー主演男優賞にノミネートされたのは当然だったと思います。
「ノーカントリー」では見られなかった、トミー・リーらしい演技を観客に堪能させつつ、しかし「告発のとき」はその彼を見ている観客が期待するようなストーリー展開にはなりません。なるかなるか、と思わせておいて、ちょっとずつずらしていく。そうやって、最後には「そうあって欲しくなかった」という結末を迎えさせるのです。
ある意味、経過は違ってもトミー・リー・ジョーンズが辿り着いた結論は「ノーカントリー」と「告発のとき」ではほとんど同じと言えるのかもしれません。
実は「ノーカントリー」の保安官も捜査に無能というわけではないんですよ。ただ彼は、そこで導き出される結論を受け入れるのが恐くてイヤだった。現実を直視することを避けたままずるずると結論を先延ばしにしていたんですね。
「告発のとき」では、トミー・リー演じる主人公はどんな結論であれ、それを受け入れる準備ができていて、そして現実に直面した時にはちゃんとそれを実行します。自分にとってどんなに受け入れがたい事実でも、それが真実ならば自分の身に引き受ける覚悟のある男――それがトミー・リー・ジョーンズです。
彼がそれ(=観客にとってもなかなか呑み込みにくい真実)を全部自分でかぶってくれるから、観客もある程度それを納得せざるを得ないみたいな部分があると思います(アメリカでどうだったかというのは、ちょっと分かりませんが)。この映画にとってはそれが救いとなってますし、それがトミー・リー・ジョーンズの力なのだと思います。
大変苦くて重い作品ですが、それでも後味がそれ程悪くないのは監督・脚本のポール・ハギスの力でしょう。この人は、どんな人間を描いても、決して突き放しません。罪は罪として、しかしそれを犯した人間への優しいまなざしを忘れない(彼の脚本上での話ですよ)。罪を犯すに至る経緯を観客が納得できるような形で見せてくれるのです。決して責任逃れではなくね。
この作品でポール・ハギスの言いたかったことは、映画のラストの方でシャーリーズ・セロンとその幼い息子が語る内に、その息子の問いとして出てきます。
「王様は何故ダビデを行かせたの?」
王様が少年であるダビデを巨人ゴリアテに対峙させるべく送り込んだ場所、それが「イラの谷」。
この映画の原題である "In The Valley of Elah " です。
「イラの谷」は戦場。
若者達は何故「王様」によって戦場に送り込まれなくてはならなかったのか。
そこには現代のアメリカに対する痛烈な批判が込められているのです。