作品賞

No Country for Old Men/ノーカントリー
●『Atonement/つぐない』
●『Juno/ジュノ』
●『Michael Clayton/フィクサー』
●『There Will Be Blood/ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』


監督賞

イーサン・コーエン、ジョエル・コーエン『No Country for Old Men/ノーカントリー』

●ジュリアン・シュナーベル『The Diving Bell and the Butterfly/潜水服は蝶の夢を見る』
●ジェイソン・ライトマン『Juno/ジュノ』
●トニー・ギルロイ『Michael Clayton/フィクサー』
●ポール・トーマス・アンダーソン『There Will Be Blood/ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』


この二つは「ジュノ」を見たのでそれぞれ全作品見たということになる。

といっても作品賞にあったイギリスが舞台の「つぐない」が監督賞ではフランスが舞台の「潜水服は蝶の夢を見る」に置き換わっただけで、あとは同じ4作品が並んでいるだけだが。


アカデミー会員はイギリス映画もフランス映画も見ていてしかも敬意まで払っているということをこのノミネーションは親切にも教えてくれる。どちらも本が原作なので、共に脚色賞にもノミネートされていた。


脚色賞

No Country for Old Men/『ノーカントリー』
●Atonement/『つぐない』
●Away from Her/『アウェイ・フロム・ハー~君を想う』
●The Diving Bell and the Butterfly/『潜水服は蝶の夢を見る』
●There Will Be Blood/『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』


この内「アウェイ・フロム・ハー」は主演女優賞でのノミネートもあったが、見る機会を逸してしまった。しかしここでもしつこく(←コラ!)ノミネートされているのが「ノーカントリー」と「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」。


一体アカデミー会員達はこの二本の何がそんなによかったのだろう?


結果を見ると、結局のところ2008年のアカデミー賞はこの2作品の勝負だったことがわかる。そしてその軍配はどうやら「ノーカントリー」の方に上がったようだ。


「ノーカントリー」と「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」の共通点は、私にしてみれば「何かよく分からない映画」というものだ。これに比べれば「フィクサー」のストーリーテリングの上手さは分かりやすさに感激してしまう程である。他の「ジュノ」にしても「つぐない」にしても「潜水服~」にしても、テーマが何だかよく分からないということはない。


それなのにアカデミーときたら、わざわざ私の分からない2作品を選んで対決させてるんだから! しかも勝ちが一番分からない「ノーカントリー」ときたもんだ!!(←完全に個人的な意見。自分の理解力が足りないことは棚に上げてます)。



それが今回「告発のとき」を見たことで、そうなった理由が何となくわかったような気がしたのである。


「告発のとき」にも一般的な見地からすればワケの分からない行動をとる登場人物が出てくるのだが、その人がそんな人間になった理由はちゃんと説明されるのである。そしてその説明を受け入れることによって、一般人にはおぞましいとしか思えない登場人物の行為が、行った本人にとっては至極論理にのっとった妥当な行為であることが理解できるのだ。


「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」はいわば物語全編がラストシーンへ至るその理由に当たるわけだ。これは言葉では上手く説明できないものの、そこに至るまでの感情の波は感じ取ることができた。シンパシーとまではいかないものの、あんたのその気持ちはわからんでもない、ぐらいには主人公に近寄ることができる。


ところが「ノーカントリー」になると、ハビエル・バルデムの演じた男が、どうしてそんな人間になったのか皆目見当つかないのである。作品中にそれを説明するセリフも描写もない。彼は災厄そのもの、自然災害と一緒で、その場に居合わせた者が不幸だったとしか言えない存在としてそこにあるのだ。


つまり、今回のオスカーでは登場人物の行動原理が分からない程高評価を得て、他の追随を許さないそのトップが「ノーカントリー」だったと言えようか。



無差別に殺人を行うような人間の心理など、普通の人間に分かるものであってはならない――そんな自己防衛本能が作品を選んだり投票したりする際に図らずも働いた結果として今回のノミニーやウィナーが決まったのかもしれない。もちろん私の勝手な想像にすぎないが。


或いは現在のアメリカ社会が混迷を深め、現実にわけの分からないものになっているという空気を反映させた結果なのかもしれない。

単に自分に理解できない作品を難解な芸術映画と思い込んで投票しただけの人もいないじゃないだろうし。


いずれにしろ、身近な存在だったはずの人間が、いつの間にか自分の知らない心の闇を抱えているという恐怖を上記3作品は共にはらんでいる。

「告発のとき」では時代があまりに現在に近すぎて生々しすぎ、「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」では少々時代がかりすぎている。

「ノーカントリー」の時代背景程度に現在と離れているのが一番観客に受け入れやすいというのもあったかもしれない。それは昨日や今日という程最近ではないが、忘却の彼方という程遠くでもなく、まだアメリカ社会の記憶としてしっかりと残っている時代なのだろう、人々の心にも記録されたメディアにも。



現在を直視するよりも、過去というフィルターを通して見る方が心は痛まずにすむ……そんなしたたかさや狡さをこのノミネートからは感じるから、だから「告発のとき」が疎んじられたのも無理はないとも思うのだ。