「ミラクル7号」 公式サイト
インタビュー記事 eiga.com
インタビュー動画 BIGLOBEストリーム
主役であるディッキーとその父ティーは超ビンボー親子という触れ込みだったが、映画の中で見るその貧乏生活は決して悲惨なものではなかった。
確かに住まいは廃屋のようだし、家にテレビもなければ着替えさえ満足にないような暮らしぶりなのだが、彼らがちっともみじめに見えないのはディッキーがいつも明るい顔をしているからだろう。
ディッキーを演じるシュー・チャオがこれまで現実にそこまでの貧乏をした経験がないから顔に出てこないのだと言ってしまえばそれまでだが、これ程主人公の少年になりきれる演技力のある子役なら「暗い顔をしろ」と言われれば幾らでも辛気くさい顔ができたはずだ。それがないということは、演出が求めたのがディッキーの明るい顔だったことになる。
もちろん学校でイジメられたり辛い目に遭っている時の顔はそれなりにしょげている。でも父親と一緒にいる時のディッキーの顔は心から楽しそうだ。物質面での環境は学校の方が自宅より数段勝っているのに。
それはディッキーが自分が父親の愛情を一心に受けていることを熟知しているからである。
朝から晩まで働き詰めの父親が、自分のためにそうしている事をディッキーは充分に承知している。それはチャウ・シンチーの演じる父親が常に自分の息子と真っ正面に向かい合い、自分にとって彼がどれだけ重要な存在なのかを全身全霊を上げて表現しているからに違いない。
国民性の違いもあるが、ティーは小学生の息子と実によく体を使って一緒に遊んでいる。家が狭いせいで寝る時は一つのベッドだが、常に息子を守るような形で寝ている。ディッキーは父親の体温を愛情として受けとめながら育ったのだろう。その反映が彼の天真爛漫な明るい顔なのだ。
ちなみにディッキーを演じているシュー・チャオは女の子。
これがもし男の子だったとしたら、演技でここまでの親密さは醸し出せなかったのではないかと思う。本当に肉親であるような、シュー・チャオのチャウ・シンチーの懐にすっぽり収まるような甘え方は例え片方が子どもといえど男同士という間柄ではできないのではないだろうか。
ディッキー役に女の子を起用したことで、彼に恋心を寄せる女の子役に男性を、その女の子を好きになる男の子に女性を起用することになったらしいが、それがまた非常に自然な感情の流れをスクリーン上で見せることにつながっていたと思う。
さて、ディッキーの方も父親に対して真っ正面から飛び込んでいくように素直に愛情を返すことができていた内は親子の間は上手くいっていたのだが、しかし学校というのは親の知らない世界で、無理をしてその世界=お金のかかる私立校にいるディッキーにはやはりどうしても無理がかかる。そうすると段々父親に対して見せられない部分がディッキーの方に増えてくる。
そういう親離れが始まる時期に降ってきたのがミラクル7号ことナナちゃんなのだ。
親には言えない子どもの苦労、それを分かってもらえる心の友が欲しい――それはやっぱり子どもの望むファンタジーである。ナナちゃんと形や出身は違えど、同様のパターンは何度となく繰り返されてきた普遍的なストーリーだ。自分の心を分かってくれる存在なら、ついでに望みも叶えてくれと大抵の子どもは思うのではないだろうか(たとえば「ドラえもん」のように)。それが子どもというものだ。
ティーはディッキーの心が少しずつ自分から離れていくことに気づいて心中穏やかではない。
それでも、彼にとって自分の幸せは息子の幸せであるという核心が揺らぐことはない。
自分の人生の全ては息子のためにあると信じ、疑いもしない父親――それは時として、子どもにとっては鬱陶しい存在になるかもしれない。けれどもそう思うことさえ、父親の愛を息子が信じていてこそである。
何もなくても父さんさえいればいい――ディッキーがそう思う時が映画のクライマックスである。
しかしティーにとっても自分がディッキーから大切な存在だと思われ続けることが彼の人生にとって最も重要であった点を見逃してはならないと思う。
「ミラクル7号」のテーマは家族愛(そこが「ドラえもん」とは違う)。
この父と子の深い情愛は一方通行では決して生まれない。
お互いの愛情表現を通じ、愛し愛されることで親子の絆は強まる――チャウ・シンチーが言いたかったのはそういうことではないのだろうか。
もちろん上手くいかなくなる時もあるだろうが、愛があればきっと乗り越えられると。