「奇跡のシンフォニー」 公式サイト
劇場鑑賞 のところでも書いたように、この作品はファンタジーと言っていい。
施設に預けられた少年が、自分のおかれた境遇を乗り切るために思い描く空想がそのまま実現するようなストーリーだからだ。その空想はいわゆる願望充足型というか、自分の望みが完全に満足行くような形でかなえられることを目指すものだ。
ただし映画の中ではその空想が現実として描かれている。
だから「現実」にはつきものの「苦難」が主人公の行く手には待ち構えてなくてはいけない。
幾多の試練を自力で乗り越えてこそ、初めて主人公はハッピーエンドを手にする権利を得るわけだ。
その辺、非常に古典的かつセオリー通りに話は進むのである。
ただ、このお話しをファンタジックなまま構成するために、主人公が直面する事態が割と綺麗事で済まされているのが大人には少々物足りないと言えようか。
それじゃあまりにも出来すぎでしょう、と文句の一つもつけたくなる程、困難が自動的に解消されていく過程がスムーズ過ぎるのだ。
このあとネタバレになります。
友達のいない子どもが心のよすがにするのは自分の空想(ファンタジー)である。
もし親がいるならば空想で友達を作り上げるだろう。それは別に人間の形をしていなくてもいい。「ミラクル7号」のナナちゃんのような地球外生命体でも構わない。
人は孤独でいることに耐えられないから、その現実を乗り越えるために空想が必要になる事もあるのだ。
「奇跡のシンフォニー」では主人公のエヴァンはいじめられっ子だ。施設の中で彼一人が空想を用いて幸せになる方法を知っているからだ。毛色の違うヤツはどこでも排斥されるものだが、親に捨てられた不幸な身の上だと常に不満をためこんでいる子ども達の中で、親の愛を信じることで幸せへのパスポートを掴んでいるようなエヴァンは妬みの対象でもあっただろう。
エヴァンにとっては、顔も見たことのない両親の愛を信じることが生きるためのファンタジーだったのである。自分が幸せになるための能動的な行動としてファンタジーは組み立てられるのだ。
物語が展開していくのは、エヴァンのたった一人の友達までが悪童達の脅しによって彼に信念=両親が彼を今でも愛していると信じることを捨てさせようと仕向けるようになってからだ。彼が真の孤独に陥り、ファンタジーが不可欠なものになるのは実はこの時に端を発するからである。
そう、だからこの後の展開は、一人施設の窓から外を見ていたエヴァンの頭の中でだけ繰り広げられた物語なのかもしれない。彼の空想を最も美しい形で完成させたもの……それが「奇跡のシンフォニー」の中で語られた物語なのだ。
エヴァンは考える……自分の両親が自分を捨てたのは何故だろうと。
もしも両親が自分を愛していたのなら、捨てるわけはない。
そこで両親は自分の存在を知らないのだという結論が導かれる。
でも母親が妊娠し産み落とした自分の子の存在を知らないわけがない。
ひょっとしたら、母親は自分が死んだと思っているのではないだろうか?
父親が自分を知らないのは、そもそも母親の妊娠を知らないからでは?
とはいえ、自分の父親が妊娠した母親を捨てるような男とは思いたくない。
だから両親は愛し合っていたのに無理矢理引き裂かれたに違いない。
疑問を呈示し、それに納得のいく形で答えを出せるストーリーを考えていくことでファンタジーは進行していく。だからファンタジーは主人公にとって大変都合のいい内容になりがちだ。
しかしエヴァンの出した結論は、「両親は自分の存在を知らない」である。
そうだとすると、彼が施設で漫然と待っている限り両親が自分を迎えに来るわけがない。
彼が自ら両親に自分の存在を知らさない限り現状は打破できないのだ。
だからエヴァンが次に考えるのは、「自分の存在を両親に知らせる方法」だ。
何か両親とつながりのあるもの、遺伝する才能、或いは胎児である自分が母親から感化される可能性のあるもの。そういったものが何かあるだろうか?
それは音(胎児には外界の音が聞こえている)。
そして音楽(音楽家の才能は遺伝する)。
こうしてエヴァンは自分が音楽の天才、モーツァルトのような神童だったら、その才能で両親と巡り会うことができるはずだと考えるようになる。
実は「奇跡のシンフォニー」がファンタジーだと分かるのは、ここでいきなりエヴァンが神童として目覚めてしまうからだ(一応伏線はちゃんと張ってあるが)。アメリカの施設では音楽教育はなされないらしく、エヴァンが初めて触れた思い通りの音を出す道具は楽器ではなく口笛だった。そんな環境で育っておいて、幾ら天分があるといっても、簡単に音楽を自らのしもべのように使いこなすことができるのだろうか? それは天才ではなく凡人に生まれついた身には到底理解できない世界なのかもしれないが、一体エヴァンはどれだけ天才だったのだ?
それはさておき、施設にいる限り自分の才能が発揮できるチャンスはないと考えたエヴァンは施設を脱走するのだった。
本物のエヴァンは、施設を逃げ出していく空想上のエヴァンを窓から見送っていたのだろうか?
音楽の天才であるエヴァンは見知らぬ町に辿り着いても、その才能のおかげで何とかやっていくことができる。しかし現実はそんなに甘いものではないと知っている大人には、それが本物のエヴァンが夢想してるファンタジーの世界以外の何物でもないことが分かってしまうのだ。
しかしこれは映画である。
たとえ現実でないことが分かっていたとしても、美しい空想にひととき身を委ねてもいいではないか。
他人が夢見た世界であっても、人を酔わせる程の美しさに満ちているのなら、ありがたくその申し出を受け入れて自分のおかれている現実をも忘れさせて貰っていいだろう。
エヴァンのファンタジーにはそれだけの力がある。
自分が幸せでいるために、彼はまず両親の愛を信じた。
信じるに足る証拠はどこにもないのに、ただ信じたのである。
その信念の強さがファンタジーの世界に観客をも巻き込み、感動させる原動力となるのである。
もちろん「本物のエヴァン」も想像の産物でしかないのだが、こちらには脚本家か監督か誰かの実際の人生が多少なりとも反映されているような気がする。
この映画が微妙なのは、作家の直接のファンタジーというよりも、作家が想定した主人公=エヴァンのファンタジーにのっとって物語が進むような印象だからなのだ。想像にさらに想像を重ねたような……隔靴掻痒というか屋上屋を重ねるというか……。単に綺麗にまとまりすぎて現実感に欠けるせいなのかもしれないが。要するに大人が見るにはちょっと物足りないということだ。