「西の魔女が死んだ」 公式サイト


この作品はファンタジーではない。タイトルに「魔女」等という言葉をちりばめ、映像でどこか現実離れした生活の様子を幾つか見せてはいるが、これは恐らく作者の体験記といったものだ。自主的には何もせず指示を待っているだけの生活を描写したものが体験記と言えるのならだが。


「西の魔女が死んだ」は映画としては大変丁寧に作られた作品だと思う。

キャスティングもいいし、脚本も自然で無理がない。

だから作者の伝えたい事がとてもよく分かる。


ここでいう作者は、映画の語り手である中三になったまいである。原作は読んでいないものの、このまいは恐らく作家自身の投影だと思うが、14か15歳の少女が12か13歳の時に自分が「体験」したことを振り返って再構成したものが「西の魔女が死んだ」という作品になって結実している感じだ。だから作者の目はあくまでも14歳ぐらいの子どものものであり、映画はその目で見た世界を描写しているものと思わなければならない。


このあとネタバレになります


幸か不幸か私は自分自身が中学生だった時の事を比較的よく覚えている。

だからまいが何故そんな風に感じるのかということは割とよく理解できる。


12歳というのは、中学に上がったところで、まだまだ完全に子どもである。小学生と大差ない。

子どもがファンタジーを生み出してそれにすがって生きていかなければならない状況というのは、友達がいなくなった時だ。ごく一般的には子どもは親はいて当たり前と思っているので、学校等といった家庭外の環境で友達の最後の一人に背を向けられた瞬間に孤独が始まり、その孤独に耐えられない時にファンタジーを作り出して気持ちをその中に閉じ込めて生きてゆく。「ミラクル7号」でも「奇跡のシンフォニー」でも、土台になっているのはそのファンタジーだ。


しかしまいの生活にファンタジーは一切存在していない。

人間の想像力にも個体差はあるだろうから、単にまいという人間が想像力に乏しいだけかもしれない。


だがまいが学校に行くことを拒否するに至った気持ちが、絶対的な孤独感というには程遠かったのも事実だろう。


絶対的な孤独というのは、集団の中で自分が一人だけ違うと感じる時に生じるもので、子どもにとっては例えば学級で全員から無視されるというのもそれにあたる。それでも学校に通わなければならない時、その子はファンタジーを胸に抱いて周囲の冷たい環境から身を守るのだ。


しかしまいは友達と呼べる子がいなくなった段階で即座に学校に行くことを拒否する。自分が孤独であると感じる場所に行きさえしなければ、孤独という辛い現実と向き合わなくても済むからだ。辛い現実に立ち向かう勇気がなければファンタジーの出る幕はない。


それは物語の主人公が困難に立ち向かう事なくさっさと逃げて、安易な道を選んだ事を意味する。


それでいいのか?!


と古典的な児童文学を読んで育った私なんかは思うわけである。


子どもというのは困難を乗り越えて大人へと成長していくもので、それだからこそ児童文学の作家はこれでもかと言わんばかりに様々な試練を主人公である少年少女達に与えるものではなかったのか? よしんばその解決法が御都合主義であるとしても、苦難に直面して生まれる葛藤を味わうのが主人公に課せられた義務とも言えるものではないのか?


まあ、私が読んだのは主に海外作品の翻訳物で、長じては洋画ばっかり見てるわけだから日本の事情には疎いのかもしれないが、でも「魔女の宅急便」ではキキ本人がしっかり葛藤していたはずだ。


「西の魔女が死んだ」がファンタジー作品ではないからだと言うならそれでもいい。

しかしそうだとしたらあたかもファンタジーであるかのようなタイトルをつけるのは卑怯ではないか?


確かに私は原作を読んではいないが、ストーリーの展開が映画通りであるのなら、この「西の魔女が死んだ」という作品の一体何が良くてどこが評価されたのか、全く理解できないのだ。


現代の子どもを取り巻く環境がファンタジーさえ生み出せない程息苦しいものであると、社会を糾弾でもしているのだろうか? それに順応できずあえいでいる子ども達の悲劇をクローズアップしたとでも?

ノー。

それはまいの様子から漠然と感じることができるものの、決して作品の主題ではない。


科学万能の世界において、子どもにさえ死んだら一切が無に帰すと教える父親の利口ぶった愚かしさを浮き彫りにし、死を受け入れる準備ができるまでは魂の存在を仮定としてでも子どもに教える方が心の安らぎを与える事を教えたかったのだろうか?

ノー。

それはまるでテーマのようなフリをしているものの、この作品に宗教的な要素はない。魂の存在なんて、あろうがなかろうが実はどっちでもいいことだ。


都会のスイッチ一つで何でもできる利便性を捨て、自然の中で暮らすことで身体性を取り戻して生きる力を取り戻していく子どもの生き生きとした姿を描写したかったのか?

ノー。

前にも書いたが、まいが祖母の元でやったことは、イベントとして用意された体験学習を言われるままにこなしたに過ぎない。自発性なくして生きる力を取り戻したとは言えないだろう。


上記のような様々な「今風」の問題提起を装いつつ、「西の魔女が死んだ」という作品の本質は実は全く違う所にある。この映画を通して作者(作家なのか脚本家なのか監督なのかは分からない)が言っていることはたった一つ、

「愛しているなら甘やかして。自分で一歩を踏み出す勇気が出るその時まで、黙って愛して見守って」

なのである。


まあ、新鮮と言えば新鮮なテーマだろう。

現代の日本の子どもならではのテーマとも言える。

時代が違えば単にワガママな甘ったれな言い分と、言いなりになるバカ親の話と言われただろうが。


とはいえイジメによる児童生徒の自殺が後を絶たない昨今、そんな追い詰めるような言動は慎まなければならない。


そうは言うものの、果たしてまいはそこまで追い詰められていたのかというと、これも甚だ疑問である。


大体まいがクラスの女子に無視されるようになった原因はまい本人にある。映画の中で彼女自身が言っている、女子同士のグループ分けの友達づきあいが何だかいやになって、自分からグループに入るのをやめたら、それまで友達だと思っていた子まで口をきかなくなった、と。要するに、まいが仲間外れにされたのは自分が蒔いた種なのだ。


原因は自分自身にあることが明白なのに、その結果が気に入らないからと受け入れないのは、自分勝手とは言わないか?


しかしまいのその身勝手さを祖母が糾弾することはない。母親に至っては不登校の理由を聞きもしないし、その母親を父親がなじったりまいに直接問いただしたりすることもない。


両親がまいに何も言わないのは、まいの人格を信じその決断を尊重しているからだろう。それがこの両親の愛の発露である。


一方まいにとっては両親の沈黙は何か自分が愛されてないと感じる材料になっている。


まいが愛されて育った事は彼女自身を見れば傍目には火を見るより明らかなのだが(この映画ならば、役者の外見はそのまま演じているキャラクターの外見とみなして問題ない)。


愛の実感というのは受け手が感じることだから、まわりの人間がどれ程愛を注いだところで受ける側が気づかなければそれっきりだ。受け手側に受け皿がなければ、その人は愛を感じないわけだから常に愛に飢え、愛情不足である事の不満を言い続けることになるかもしれない。


それと同時に、どれだけ相手に愛情を感じていたところでそれは表現しなければ伝わらないものでもある。言葉にして態度にして伝える努力なくして、愛は相手には伝わらない。


まいの両親は日本人の親として一般的な愛情表現はしているようだが、少々娘を早い内から大人扱いしすぎたようで、子どもである受け手のまい本人がそれでは充分に満たされていなかったようだ。好きな物を買ってくれるとか自分の意見を尊重してくれるとかの他に、声に出して可愛いよ大事だよと言ったり体を使ってハグしたりという、もう一歩踏み込んだ具体的なものをまい自身は求めていたのだろう。それが足りなかったために今一つ両親の愛情を実感できなかったという事らしい。


そこで祖母がイギリス出身という設定が生きてくる。

イギリス人ならば日本人と違い、具体的でわかりやすい愛情表現をケレンなく見せられるからだ。


まいが

「おばあちゃん大好き!」

と言って胸に飛び込めば

「I know.」

と言って優しくハグしてくれる祖母。


幼児期に行うべき身体的接触を伴う愛情表現を祖母から受けることで、まいは当時満たされないままだった心の隙間を埋めてゆく。それは頭だけで考えていたいたような自我が身体性を取り戻していく過程でもある。


だからといってまいが成長したのかというと、これがそうではないのがこの映画のスゴイ所だ。


まいという娘は、この作品の中でいつまでたっても成長しないのである。


そりゃそうだ、危機に直面しそれを乗り越えるという大人になるための試練を自ら放棄しているんだもの。


いいのかそれで?!


まあ現代はそれが許されると社会になっているということなのだろう。そういう意味で、ファンタジーを捨てた「西の魔女が死んだ」は非常にリアルに現代の子どもの姿を描いているとは言える。現代を生きる子どもにとっては大層共感を得られる作品なのかもしれない。だったら最初っから完全に子ども向きの映画として宣伝して欲しかったものだが。



さて、主人公であるまい自身が成長しないままどんな結末を迎えるのかというと、まいの母親が彼女のために仕事を辞めるという決意を表明するのがクライマックスなのである。



実はこの映画の中でまいが決して口には出さないのに描写が異様に丹念なのは、この母親のまいへの関わり方だったりする。まいが常に直面している「辛い現実」は、学校で女子グループに無視されたりすること等ではなく、実は母子間の葛藤であることが映像や何気なく見せかけたセリフのはしばしでつぶさに語られているのだ。


表向きまいの不登校の理由となっている女子グループによる無視のシーンはフラッシュバックでほんの一瞬出てくるだけ。それが本当にまいにとっての非常事態だったのならば、映画の中でそれ相応の描写があって然るべきだ。そうではないということは、まいが祖母に語る言葉とは裏腹に、まいにとっての真に「辛い現実」は学校ではなくて別の場所にあったことになる。


まいの言葉ではなく、映画の描写で繰り返し表現されるまいにとっての「辛い現実」。それは結局、母親から感じられる愛情が、まいが望むほど充分な満足できる量ではないという一点に集約される。


まいの母親は大変美しく、そしてその自分にふさわしい生活を完璧に築く事を自分に課していて、夫と子どもはそのヴィジョンを実現するための不可欠なアクセサリーとして備えているにすぎないように観客の目には映る。彼女の理想は絵に描いたような幸せな家庭を持ちつつ仕事で自己実現することにあり、そのためには夫や子どもに多少の不自由を強いるのは仕方のないことで、結果として自分の仕事を優先するため夫とは現在別々に暮らしている。


その母親本意な生活は、まいにとってはやはり我慢を強いられるものであったには違いない。

まい自身の口から具体的な母親への批判が語られることはないのだが、しかし言葉のはしばしに不満が顔をのぞかせている。


例えばまいの登校拒否宣言を受けて電話で夫と相談している最中、母親が

「あの子、昔から扱いにくい子だったわ」

ポロリとこぼすのだが、その言葉を洩れ聞いたまいは一人部屋で「扱いにくい」と何度も反復してみたりする。今まで自分が母親のためにどれだけの不満を我慢してきたのか、この母は気づいてないのかとこれ見よがしに言わんばかりだ。



恐らくこの母親は自分がフルタイムで仕事をする事を大人同士として我が子に認めさせるため、早い内からまいを大人扱いして育てたはずだ。子どもであるまいを子どもとして受け入れず、自分に都合の良い大人としての振るまいをした時に初めて良い子ねと認めるような育て方だ。



だからまいが

「もう学校には行かない。あそこは私には苦痛を与える所でしかない」

と言えば、母親はその言葉を尊重して受け入れなければならない。それまで対等であるとまいに思わせることで成立していた自分自身の生活が、娘の登校拒否宣言を聞いた途端に母親風を吹かせて

「何が何でも学校には行きなさい!」

等と怒鳴ったのでは全部崩れてしまうからである。



彼女は登校拒否宣言に対し怒りの表情は見せず、冷静に事実を受け入れ、対策を講じる。

それは自分の子どもを心配してと言うより、面倒な仕事を淡々とこなしているようにさえ見える。


先に述べたように、この冷たい母親像はまいの視点によるものだ。

その、自分の人生には仕事が一番大事だと思って生きてきたような母親が、まいのために仕事を辞めて父親と一緒に親子三人で暮らそうと提案するのである。

これがまいにとっての快挙でなくて何であろうか?

遂に母親が、仕事ではなく自分を選んだ。

まいは不登校を実行することで、望んでいた母親の愛情をもぎ取ったのである。


それはしっかりと言葉でも語られている。

まいのために仕事を辞めるという話をしながら母親が

「私にとって何が一番大事か優先順位をつけたの」

と偉そうにのたまうのだが、そこにすかさず祖母が

「優先順位をつけなきゃ何が大事か分からないの?」

と突っ込むのである。

その時のまいの顔は、まさに溜飲を下げたという表情だった。



子どもにとっては母親の愛を独占するのは最高の気分に違いない。

しかし、まいが全く気づいてない事実がそこにはある。

親の愛を独占するなんて、彼女が一人っ子だからこそできる事だ。

兄弟姉妹がいる子どもにとって、それは実現不可能な望みである。


そもそも肉親の愛を得られない子だって世の中には山程存在しているのに、まいの視線がそちらを向くことは一度もなかった。彼女にとっては自分だけが世界の中心。自分以外に世界があるなんて、思ったこともないのかもしれない。まいはやはり想像力を持たない子どもだったのだ。



想像力がなければ洞察力もないから、まいには自分が母親にどれだけの犠牲を強いたのかも理解できない。尤もその母親自身がまい同様想像力も洞察力も欠如しているため我が子の感じている自分の愛情への飢餓感も感じなかったのだろうから、おあいこなのかもしれないが。

こうしてまいは祖母の家に住んで母親と離れて暮らす事により自分が大事であることを母親に認識させた。それは自分を愛して欲しいというメッセージをしっかり伝えた事になる。まいにとって何よりも重要なのは、自分が愛されていると実感できること。



クライマックスでまいは母親と急ぎ帰る事になったため、祖母との間にわだかまりを残したままとなる。

彼女にとっては、おばあちゃんに嫌われたのではないか、すなわちもう愛されてないのではないかというのが一番の気がかりだった。

その祖母が倒れて死に瀕しているというのが映画の発端で、だから中三のまいにとっては母と父の愛情は確認したけれども、そのせいで祖母の愛が未確認になってしまったというのが最大の心配ごとだったのである。

気まずい別れのあと仲直りしないまま祖母に死なれ、もう祖母の愛を確認する手段はなくなったと打ちひしがれているまいの目に、生前祖母が残したメッセージが飛び込んでくる。


それは間接的にではあるが、祖母からまいへ愛していると伝える言葉だった。


優しい祖母の愛を再確認できて、まいは喜びに包まれる。そしておばあちゃんが離れていても自分を思っていてくれたことで、争いの原因となった自分の心の狭さを少しばかり反省しようという気持ちが起きる。


二時間近くかけて、ようやくまいが成長するきっかけを掴んだところでこの映画は終わる

そしてそれを見た私はいい加減にしろと思ったのである。