「ハイランダー~ディレクターズカット版~」 公式サイト
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自らの美声にほれぼれ? 「おれ、かっこいいべ?」
某トークショーで川尻監督御自身がおっしゃってたのですが、初日に行われた舞台挨拶は1回目が95%は女性客、2回目になると100%が女性客で、小栗君人気の凄さに舌を巻いたそうです。作品の内容は全然女性向けじゃないのに楽しんで貰えたのかとちょっぴり心配そうでした。
吹き替えでは声優陣がみなさんベテラン揃い(山寺さんと林原さん演じるキャラクターがからんでるシーンを見て「シュラト」のリョウマとレンゲが……うぷぷと思った私です)なので、それぞれの素晴らしい声の演技に酔いしれる事ができました。
小栗旬はその中に混じるとさすがに経験不足で、演技が一人だけ固いという印象は否めなかったですが、彼の演じたコリンというキャラクターがあまり多彩な感情を持っていない人物だったのでそれでもOKという感じでしょうか。
ってことで、以下、ネタバレ。
この作品、原題は「HIGHLANDER: THE SEARCH FOR VENGEANCE」。
内容はそのタイトルそのままに、主役が復讐相手を捜し求める話。それも延々2000年近くに渡って!
映画の冒頭は、世界の秩序が破滅した後のニューヨークにコリンがボートで辿り着く所から始まるのだが、手を休めることなく作業し続ける彼に何物かがひっきりなしにささやきかけてくる。
常に『わしゃ何もかもお見通しなんだぞ』という、上から物を言う立場で喋っている鬱陶しいその声の主だが、姿はしばらく観客には分からない仕組みになっている。演じているのは富田耕生で、喋り方はとにかく出している声そのものは「ニューヨーク1997」でアーネスト・ボーグナインがタクシーの運転手を演じていたのを吹き替えていた時の声と同じだったもので、変な所で一人で受けていた。
さて、声はすれども姿は見えずというパターンならば、さては「バンパイアハンターD」のDと同様かと思ったのだが、実はコリンに取りついているのは人面疽ではなくてヘンな霊だった。まあどっちも爺様には変わりないのだが、口を出すだけで全くの役立たずなコリンの霊に比べ、Dの名無しの人面疽の方が口は悪くてもその口でDの身を守る仕事もできる分まだマシなような気がする。
この霊、名前をアメルガンといって、2000年前にコリンが初めて死から甦った時以来ずっと彼につきまとっているらしい。立場的には「鬼太郎」の目玉親父とか「スターウォーズ」でルーク・スカイウォーカーに対するヨーダに当たるはずなのだが、肝心のコリンの方に父と慕う心も師と崇める心もないため、アメルガンが何を説いても全く耳を傾けて貰えない。まさしく「馬の耳に念仏」というヤツである(もちろんコリンが馬)。
この片方がもう片方に一方的に話しかけるだけという二人の関係が、実は「ニューヨーク1997」のタクシー運転手とスネーク・プリスケン(主役)に相似しているので、個人的には余計におかしかった。
ところでストーリー的にはこのコリンの「人の話に耳を貸さない」という性格というか生き方が非常に重要な意味を持っている。
鬼太郎は自分の分からない事に対しては率先して目玉親父の助言を仰ぎ、指示に従う(少なくとも私の知ってる昔の鬼太郎はね。そういえば今のウェンツのはどうだか知らないや)。自分の父親だということもあろうが、人生の先達の得た知識は自分にとっても重要な情報である事をちゃんと知っているからである。
ルークの方は最初は体が小さくて年老いているという外見のみで判断してヨーダを馬鹿にして話を聞かなかったものだが、その後ヨーダの持つフォースの力を目の当たりにして考えを改めさせられた。知識というよりフォースの力の大きさの方に屈した感じだが、それでも一応ヨーダの言うことを聞くようにはなった。
ところがコリンときたら人の話は何一つ聞かない。
確かにアメルガンの話しぶりにはうんざりする。
「今からお前にとって重要な話をしてやろうというのだ。聞かぬと損だぞ。それでもいいのか。わしの方はそれでも一向に構わんのだぞ」
と言われて素直に話を聞く若者はそりゃ少ないに違いない。
しかしコリン、いいかげん2000歳なのである。
不老不死だから見かけは若いままだが、分別の一つや二つはとっくについていてもいい年頃ではないか!
精神年齢が最初に死んだ時に止まったまま、全く成長していないのだ。
他のハイランダー達、コナーやダンカン・マクラウドはそれぞれの時代を生きながら人間的な成長を続け、様々な知識や技能を身につけ、豊かな人生を楽しんでいた。
このアニメでは敵役であるマルカスも長く生きる間に絵や音楽といった芸術的な素養を存分に身につけたことを山寺さんの声で誇っていたものだ。
しかしコリンは、人の話を聞かず何も知ろうとしないコリンだけは、2000年たってもアホのままなのである。
大体この男、恋人が今際の際に残した
「復讐はしないで」
と言う言葉さえ聞き入れず、自分の怨念を晴らすためにだけ仇のマルカスを付け狙っては何度となく殺されるハメになるのである。それじゃ死んだ恋人のモーヤも浮かばれまい。
まあ恋人の最後の願いさえ聞いてない男が見ず知らずの老人の霊魂が勿体ぶって喋る言葉になぞ耳を貸すわけはないのだが、しかし20世紀を生きてたのなら「スター・ウォーズ」ぐらい見てればいいのだ。そうすればヨーダにアメルガンを重ねて我が身を振り返り、人生の先達の言葉に何らかの価値を見いだすよすができたかもしれない。
だが、人の話を聞こうとしない男に自ら学ぼうという意志はない。
必要に迫られれば機械や乗り物の操縦は覚えるだろうが、精神面では復讐の一年に凝り固まったまま2000年間何の成長もしなかった男、それがコリンである。
勿論こんな復讐馬鹿一代の話が面白くなるワケはない。
というわけで一応ニューヨークに付いてからのコリンの行動にはアンダーグラウンドの住民のためにワクチンを手に入れるという目的が与えられる。この辺のシチュエーションはゲイリー・シニーズが主演した「クローン」の展開とよく似ていた。コリン自身の動機付けとしては、彼に声をかけてきたダリアという女性がマルカスに殺された恋人のモーヤを思い出させたというものなのだが、彼女のおかげでようやく彼は自分の人生に対する一つの解答を得る。
その解答は、何よりも先にモーヤによって呈示されていた
「復讐はしないで。自分の人生を生きて楽しんで」
というものなのだが、そこに辿り着くためにコリンは2000年の回り道をしたというわけだ。
アホじゃねえの?
映画を見ながら心底そう思ったものだ。
そんな、一つの物事を知るのに2000年かけなきゃいけないアホを見て、どうしろと?!
ひょっとしてこの作品ではコリンを反面教師として復讐の愚かしさを観客に伝えたかったのかもしれないが、物語の主人公としてのコリンの立場は絶対に揺るがないし、映像の見せ場は常にコリンと他の不死者との戦いの場面だし、もちろんクライマックスは彼とマルカスの剣による一騎打ちだ。どちらが勝利をおさめるかは言うまでもない。しかも映像上のコリンはちゃんと格好良いのである。これじゃあ、2000年かけても復讐が成就できてよかったね、という映画にしかならないではないか。
この作品、映像だけ見ている分には優れて美しいし「ハイランダー」シリーズとしての体裁は整っているのだが、結果的に何を伝えたかったのかまるで分からない映画になってしまっている。
それがディレクターズカットのせいなのかどうか、10分程短いオリジナルと見比べてみたい気がしないでもない。
そうそう、吹き替えの脚本は「酒代」を「さかだい」ではなく「さけだい」と読ませて平気だったり、「生き残りし者はただ一人」と最後の一人がまだ決まってない内から過去の助動詞使ってたりと、大変現代的なものであった。