「崖の上のポニョ」 公式サイト



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爆笑舞台あいさつ 中日スポーツ


以下、ネタバレを含みます

もっともこの映画、ストーリーがバレて困るような作品ではありませんが。一応、念のため。



「崖の上のポニョ」のヒロインであるポニョは、言ってみればまだ幼くて苦労を知らず、幸せな時を過ごしているナウシカなのである。


どうして幸せなのかって、それは心配性で愛情深いお父さんにポニョが完全に守られているからだ。愛されている子どもはなべて幸せなのである。


それは男の子である宗介も同じ事だ。働くお母さんであるリサにしっかりと愛情を注がれてその全人生を生きている。


この幼い二人は両親が健在であるにもかかわらず、主として生活を共にしているのは片親だけである点が共通している。宮崎アニメのヒーローヒロインが大抵そうであるように、理由は様々だが親はどちらか片方しか一緒には暮らしていないのだ。しかしそれでもヒーローヒロイン達は残る片親から充分な愛情を受けていることをちゃんと知っている。5歳の宗介が信じられない程聞き分けがいいのは、自分がリサに愛されていてその愛に応えるためには自分が何をすべきか知っているからである(父親が「あいつは天才だ」というのは、あながち親バカとはかりは言えないだろう)。それはリサが宗介を束縛しない母親だからでもある。


普通は女親の方が息子を束縛するものだと思っていたが、どうやら男親も娘を束縛するものらしく、ポニョの父親はその典型として物語に登場する。娘が可愛くてたまらないものだから、一切の苦労をさせたくないという名目で自分の家に閉じ込めておき、ちょっとでも姿が見えなくなれば大騒ぎして探し出し連れ戻す。


娘であるポニョの方は父親の愛を感じながらもその束縛には反発し、自ら新しい世界に泳ぎ出そうとする。そう、女の子だって冒険したいのだ。家に閉じ込められてばかりでは息がつまるというものだ。


その冒険心、それはそのまま「風の谷のナウシカ」のナウシカにつながる。

ナウシカもポニョも、自分を取り巻く城から抜け出て広い世界を探検にいく姫君だ。精神的な成長の度合いが違うだけで、持っている資質は同じである。


ポニョの行動は、幼い日王蟲の幼生に取り憑かれていたナウシカにそのまま重なる。

ナウシカが隠していた王蟲の幼生が、「ポニョ」では宗介にあたるのである。


そうなのだ、ナウシカにとって最初に心を奪われ生涯愛し続ける存在だったのは王蟲の存在そのものだった。異種間交配は恐らく不可能だろうから、純粋に精神的な愛である。幼児期のまだ性が未分化といえる状態におちいる恋は相手を選ばないのである。


どうりで、通常の物語ならばナウシカの恋の相手となるはずのアスベルの影が薄いわけである。もっともアスベルにはアスベルで亡くした双子の妹という失われた愛情の対象がいたのだが。ま、それはおいといて。


ナウシカは命がけで王蟲を守る。酸の海に自分の脚を焼かれることさえ厭わずに。


もしも王蟲の姿があんな不気味なものではなく、とても美しい姿だとしたら、それが彼女の愛の発露であることを疑う者はいないだろう。


しかし現実に人間は「見た目」に大変左右される動物なので、あの王蟲の一見気色悪い姿を見てそれが恋愛対象になるという意識はまず持てないのである。あまりにも種が違いすぎる。しかし「ナウシカ」では王蟲の内面を見せ、精神性の高さを読者及び観客に知らせることによってナウシカとの霊的な交流は楽に受け入れられるようになっている。


でも、そこまで持っていくために構築しなければいけない物語は壮大すぎ、莫大な手間と尽力とアイディアをクリエイターに要求する。そしてそこまでやっても尚、種の違いを乗り越えたナウシカと王蟲の恋愛は成就させられない。理屈としてはナウシカが最初に愛した王蟲の個体がもう消滅したからだとか、或いは集団意識としての王蟲に個人を愛するという感覚がないからだとかまあいろいろ考えられるが、まあやっぱり一般的に容認できない範疇の組み合わせだというのが大きいのではないだろうか。映画は観客にそっぽを向かれたらおしまいなので。


種の違いを乗り越えた愛なんて、SFでは腐る程書かれてるんですがね。大抵は人間と宇宙生物なので、そこまで飛んでれば話はまた別という事かもしれないけど。まあでも、映画でラブロマンスとして成立するのはやはり外見がヒューマノイド(かつ美しい)ものですね。文字だけで読むのと違って映像は……いきなり生理的嫌悪感を催させるようなものでは、ごく一部にしか受けませんから。


それはナウシカを取り巻く世界でも同じ事で、幼い彼女が隠していた王蟲の幼生は周囲の大人達によって取りあげられる。幼い人間の女の子というものは、世界に対して何の力も持っていないのだ。ナウシカが強くなろうと決意したのはこの時の経験が元になっているのかもしれない。


こうして一度は王蟲から引き離されたナウシカが、再び王蟲と巡り会い心を通わせるまでには10年ほどの年月が流れる。



だが、ナウシカが人間ではなかったら。



幼くても、思ったことを即座に実行に移すだけの能力を持った女の子だったら。



取りあげられた王蟲の幼生を何が何でも取り返しに行っただろう。

そしてその王蟲とどこまでも逃げて行ったに違いない。



或いは王蟲が魔法にかけられていた王子様だったら。

愛する人のキスで魔法が解けて人間に戻れるのだったらナウシカは何のためらいもなく王蟲にキスしていただろう。



その思いから生まれたのがポニョなのだ。

ポニョは命を助けてくれた宗介に恋をする。ポニョにとっては宗介はお父さんと同じ姿の生物なので、種が違うなんてことは微塵も思わないわけである。そもそも5歳ぐらいなので、葛藤することさえないのかもしれない。


心配性なお父さんが行方不明の娘を捜し出して連れ帰ることで一旦は引き裂かれるポニョと宗介だが、この映画ではほとんど間を置かずにポニョが人間の姿になって宗介に会いに戻る。この力強さと潔さが5歳の生命力と決断力なのだと思う(後先考えてないとも言う)。


それは暴走そのものであり、種を超えた愛を成就させるための代償は世界が払うことになる。それは自然の法則に逆らうことだから、自然そのものがそれを修正するために時を遡ってしまうのだ。恐らく、魚類と哺乳類の共通の先祖が生きていた時代まで。そこまで戻れば魚の子であるポニョと人間の子である宗介の遺伝子が同じものであっていいはずだから。


この時点ではたぶんポニョが人間の姿をしているのは外見だけということなのだ。


遺伝子レベルでの修正を行うには、ポニョを外見ではなくその精神性で見抜く宗介のまっすぐな愛が必要で、その上でポニョは自分の持っている魔法を捨てるという代償を払わねばならない。そのくらいしないと、種を超えた愛を成就させることはできないのである。


ポニョが遺伝子上でも人間の女の子に書き換えられれば、自然は元に戻るはずである。

ポニョの母親は全ての生物を生み出した原始の海。生命の源。彼女の意志が魔法を生むのだ。


ポニョが暴走して現れる原始の海の姿は、ナウシカにおける腐海である。どちらも生命を生み出し、そして汚れを浄化する作用を持つ。「ポニョ」で浄化されたのは、現代に生きる我々が汚した海なのだろう。あの津波は本当は、地球を汚す我々人類を一掃したかったのかもしれない。



汚れのない世界で誓う5歳の男の子と女の子の愛は永遠だ。


互いに試練を乗り越え、両親に祝福されながら新しい道を歩むのだ。


この映画はファンタジーだから、そして二人はいつまでも幸せに暮らしましたで終わってOKなのである。


おとぎ話はそうでなくてはならないのだ。


風の谷のナウシカは海の国のポニョに生まれ変わって幸せになった。


めでたしめでたしでいいのである。