「ボラット 栄光ナル国家カザフスタンのためのアメリカ文化学習」(公式サイト

(ネタバレあり。未見の方は御注意)



主な出演俳優はただ二人。


サシャ・バロン・コーエンと……

(画像は「スウィーニー・トッド」より)



この方、ケン・デヴィティアンだけ。

(画像は「ミート・ザ・スパルタン」より)





上の二人が「ボラット」ではこうなります。



まー、あれです。劇場に行かなくてよかったなと。


いえね、決して劇場で見ても「金返せ」とは思わなかったでしょうけれど、この映画見て劇場で大笑いしてたら帰る時とっても恥ずかしかっただろうなと思ったので。


これはものすごくよく作り込まれた作品で、痛烈な批判を、それより痛烈なギャグを見せることでやわらげ、また映画に対する批判の矛先を交わすことに成功している最高の例でしょう。批判対象は、もちろんアメリカの国民。それもどっちかというとお育ちの良い人々の側ね。


この映画はどこからどこまでが脚本上に元からあったものなのかよくわからないんですが、少なくともボラットがテレビで見たパメラ・アンダーソンに恋をするというのは重要な設定なので最初からあったものでしょう。


だって、パメラに恋をしなければ、車でアメリカを横断してNYからLAへ行く途中様々なアメリカ人に出会うというシチュエーションが組み立てられませんものね。


で、ラストのシーンも決まってましたね。彼が真実の愛に気づく場面は、まあ出来レースというか分かりやすい「仕込み」になってました。


だからこの映画は最初から、WASPの表面的なお行儀の良さの化けの皮をはがし、いわゆる社会の底辺で暮らしているような人々の方が見かけは恐いけれど本当の優しさは持っているのだ、と伝える意図があったと思うんですよ。


それに基づき、どこでどんな行為を働いたらボラットが白眼視され、果ては危害を加えられる恐れがあるかまで100%理解した上で、ボラットになりきって侮辱的な言動を働いていたのだとしたらスゴイ覚悟と根性ですよ、サシャ・バロン・コーエン。映画の内容はともかく、その捨て身ぶりにはワタクシ感動致しました。


それよりもっと感動したのは、上の二人の裸での乱闘シーンでしたけど。彼らの役者根性はエライとしか言いようがありませんです。


ボラットがこの映画の中でやってることはバカですが、サシャ・バロン・コーエンはバカではありません。

この映画のどこからどこまでがサシャの掌の上のことなのか、考えながら見るのも一つの楽しみ方でしょう。もちろんボラットのおばかぶりにげらげら笑うのが一番ですが。