*二枚目の写真の下からネタバレになります。未見の方は御注意ください。


「容疑者Xの献身」(公式サイト

石神役の堤真一さんは、「姑獲鳥の夏」の舞台挨拶の時に御本人を見たことがあります。



←いよっ、京極堂!!


和服の着こなしもサマになる、腰の据わった好男子でした。

動き方も堂々としていて、自分の体に自信がある人のものです。

身長178センチだそうですが、もっと大きいかと思ってました。



その彼が今回石神を演じるに当たって、モデルにしたのはこの方ではないかと思ったりして。

ぬっくんこと温水洋一さん。身長165センチ。ちなみにお二人同い年。



←森の石松、好きでしたよ♪



私は読んでいないものの、原作によると石神は――えー、風采の上がらない人物という設定だそうでして……(すみません、温水さん)。


特殊メイクをしているわけでもCG処理をしているわけでもないので、映画の中では堤さんが演技で「風采の上がらない」様子を表現しなければならないわけですが、顔や体つきはそうそう変えられるものではありません。体重の増減というアプローチも今回だとあてはまらないし。


ではどうしたかというと、動き方なんですね。石神の動き方って、身長が178センチの好男子のものでは絶対にないんですよ。あのノソノソクネクネした動き方を見ていて思い出したのがこの温水さんだったというわけで。温水さんが「小柄で風采もウダツも上がらない人物」を演じる時の動きを堤さんが参考にしたんじゃないかと思った次第です。


石神、人と並ぶと身長が低くない事がバレるものの(?)、動き方は絶対に小柄で容姿に自信のない人のものなんですよね。そのイメージは実に強く観客に植え付けられます。


でもそうでないとこの物語は成立しない。

だって石神が実際の堤真一さんと同様の背の高い好男子なら、松雪泰子演じる花岡靖子との深い付き合いを最初から望んでいただろうし、それ以前にそんないい男周りの女がほっとかないから、いい年して独り身をかこっているという設定が成り立たないですよ。


けれども実際に演じる役者が例えば温水さんだったとしたら……申し訳ないけれども堤さんが醸し出すような悲壮感はたぶんスクリーンから感じ取れなかったでしょう。湯川役の福山さんと並んでも絵にならないばかりか、滑稽感をあおりかねません。


すらりとした二枚目の福山さんと並んでもひけをとらない絵になる男を石神にもってきておいて、その絵になる男の容姿が一般的に見て劣ったものだと観客に信じ込ませなければならない。これがこの映画を制作する上での最大の課題だったのではないでしょうか?


その難関を、堤真一がクリアした段階で、この作品はもう成功だったと言えましょう。


「容疑者Xの献身」は、そのおもしろさの全てをこの石神という人物に負っています。

探偵役の湯川は、この作品が「推理小説」という体裁をとっているから存在しているに過ぎません。

もっと言うなら、この作品を世間的に通用させるために必要な存在というかね。


石神のやった事は日本の現在の法律では許されることではありませんから(たぶん他の国でも)、フィクションといえどその物語の中で断罪されなければ広く人口に膾炙することができません。同人誌とかインディーズ系の映画等であれば読者や観客の対象が限られているから石神の行為を肯定し正当化して終わってもさほど問題はないでしょうが、「容疑者X」は世間一般の全ての人を対象としているのでやはり大多数の人が受け入れやすい形で決着をつけなくてはならないのです。


そういった縛りを受けつつ、それでも最大限に作家がやりたい事をやった作品だったというのがスゴイ所で。恐らく原作者や監督の情念は湯川ではなく石神にあったのでしょう。


数学者という設定の石神を見ていて思い出したのは「NHKスペシャル 100年の難関はなぜ解けたのか」(サイトはこちら )で見たロシアの数学者グリゴリ・ペレリマンでした。この方は確か物理学的なアプローチでポアンカレ予想の証明に至ったんじゃなかったかな。そしてその挙げ句、世捨て人になってしまった。


石神が研究者へ進む道をあきらめたのは寝たきりになった親の介護のために高校教師の職を得なければならなかったからだと作中で説明されていますが、実は回想シーンで出てくる学生時代から友人との交流もほとんどなく傍目には世捨て人同然だったんですよね。


一人で4色問題の証明に取り組む石神を見かけた湯川が声をかけて、それで初めて自分と同等の才能を持つ人間に出会って石神はとても喜んだものですが、でもそれは一瞬のことでした。


「君も数学科か?」

「いや、僕は物理だ」


数学者と物理学者は正反対の存在なのだと現代にいる湯川が内海に説明するシーンがありますが、理解者を得たと思った次の瞬間にそうではない事を思い知らされた石神の苦渋は、湯川に対して


「俺には友達はいない」


とぽつりというシーンに凝縮されています。

友達づきあいはできても、石神の心の内は湯川には決して分からない。それが出会いの時から石神には分かっていたのです。


私には数学の才能がないので石神の見ていたものの具体的な形は分かりません。

でも、石神が数学を通して何に触れていたかは分かります。


それは石神のセリフとして繰り返し出てきます。


「この証明は美しくない」


彼は数学を通して至高の美を求めていたんです。


数学者というのは、ほとんど誰にも理解されることのない、哀れな芸術家なのだと思いました。


何故なら彼らの数学の才能を理解できる者は同等の才能を持つ者でしかあり得ず、そんな人、すなわち天才は全世界に数人しか同時代には存在しないからです。


数学というのは純粋に理論だけで組み立てていくものですから、他人に見せるべき実体というものがない。数式は、あれは単なる記号にすぎないので見ただけでは美しくありません。音符が五線に並んでいるだけでは意味をなさないのと同じ事です。音符は楽譜を読める人が頭の中でメロディーに変換することで初めて美しいものとなる(もっともモーツァルトの楽譜は、譜面見るだけで整然としていて美しいんですが)。


数式も恐らくそれと同様なのでしょう。私には理解できないけれど、数式を読める人にはそこに書かれたものから妙なる美の世界へと誘われていくのだと思います。だって、そうでなければ、誰が数学に夢中になったりするんです? 人間、つまらない事は無理強いされなきゃやらないものです。数学者がすすんで数学に没頭するならば、それは彼らにとって快楽以外の何物でもないという事です。それは芸術家が芸術に没頭するのと同じ事でしょう。創造は例えそれが脳内でのみ行われていることだとしても、人間を昂揚させる魔性を持つのです。


それが音楽であれば脳内でイメージされたメロディーを声なり楽器なりにのせて万人が聴けるものとして再現することができます。そのメロディーが誰が聴いても美しいものならば、それが何故美しいかという理由などすっとばして人の心に伝わります。つまり、音楽やその他の芸術が人に訴えかける部位は主として感情なんですよね。だから受け取る側の人の心のあり方によって様々な解釈が行われる(私がここで書いているコレだって、私なりの映画の受け取り方に過ぎないわけです)。


言ってみれば感情に訴えかける美というものは相対的であり、人によって判断基準が違うものなんですね。


ところが数学は違う。

目指すべき解答は一つだけで絶対的なものです。

そこに至るルートは様々だとしても、恐らくその中でも一番美しいものは一番シンプルなものと決まっているのだと思います。

そこにあるのは絶対的な、ゆらぎのない、究極の美。


そんなものを見てしまったら、たぶんもうその人は現実の人間世界などへ帰って来られない……それがグリゴリ・ペレリマンが失踪した理由じゃないかと私なんかは思いますね。


だってその美はその人の頭の中にしか存在しない。究極の美しさを分かち合うことのできる人は、この世に誰もいないのです。自力でたどりついたものでない限り、その至高の美に酔いしれることなどできないでしょうから。


その証明を数式にしたものを見た人々が目にするものは、その美の影にすぎないんです。まるでプラトンの唱えたイデア論のように。


数学を通し、感情を退け、純粋な理性でイデアを見てしまったペレリマンは、もはや人間界に耐えられなくなってしまったのではないでしょうか。だって、それは神の領域だもの。


ペレリマンについては私の空想ですからこの辺にしておきますが、石神については映画の中で彼が数学をどう捉えているのかきちんと描写されています。彼は数学を登山に例え、頂上は一つだがそこに至るルートをいろいろ考えるのが楽しい、みたいな事を言っていました。苦しさに耐えて頂上に到達すれば、全方位に広がる美しい風景は全て彼のものです。この人はとことん美しいものが好きなのだと思いましたよ。


石神が当初の望み通り研究者への道を歩んでいれば、彼はある程度自分の好きな美の世界に浸ったまま生活できたはずでした。研究の成果によれば、世界的な評価を受け脚光を浴びることだって夢ではなかったのかもしれません(まあ本のキャラですから、その辺はいかようにも)。


しかし彼は志に反して一介の高校教師の職を選び、数学的才能はおろか向学心さえ持たない生徒達に初歩的な数学を教えることで毎日を過ごさなければならなくなりました。


「数学の研究はどこでもできる」

と湯川には嘯いたものの、教師の仕事に日常のエネルギーほとんどを費やしていたのでは、高度に集中力を有する高等数学の世界に遊ぶことも楽ではないでしょう。

一番最低なのは、周囲に自分の話の片鱗でも理解できる者がいないということですね。

せめて大学に残っていれば世間話に数学の話ができたでしょうに、それもないんですから。


絶望的にもなりますよ。


普通の人間は他者とのつながりを求め自分を理解して貰いたいと思うものですから、その道が閉ざされば生きる意欲も失ってしまうんですね。



映画の中ではこの辺は堤さんの演技一つで表現されていました。説明セリフが一切なくても切実に伝わって来るほど、石神の自暴自棄になった様子は真に迫っていましたよ。表情だけで何故彼が今しも首を吊ろうとしているのか如実に伝わってきましたから。


でも次の瞬間、彼の人生は一変します。


それまでは自分から求めるだけだった美しい存在が、女性の姿をとって彼の部屋をノックしたんです。


これが差別語でいう所のいわゆるブスだったら、石神部屋に戻って死んでましたよ。いや、冗談抜き。


引っ越しの挨拶に現れたのが美人親子で、顔だけでなく声もたたずまいも美しい二人だったからこそ、石神は再び生きる意欲を取り戻したんです。それは石神が美しいものが好きだからです。


彼の求めた美しいものはそれまでは頭の中にしか存在しない理性でとらえる純粋な美でしたが、花岡親子に出会って初めて塵芥にまみれた現実世界にも美しいものがあると認識したんですね、石神は。


人間には生存本能があるので、例え自殺を企てたって死ぬ瞬間まで「生きたい!」と願う強い感情は働くんです。その感情が潜在意識の中で極限に高まった状態で出会ったのが美しい花岡靖子だったので、石神は彼女を一目見た瞬間から全身全霊をあげて恋着してしまったのです。高まっていたポテンシャルが全部一気に彼女目がけてなだれ込んだんですよね。



この花岡親子が母子家庭だという設定がまた巧みなんです。


単に夫がいる相手に理性的な石神が恋心を抱くわけがないというだけでなく、母子家庭は世間一般の目からは「何かが欠けている家庭」と見られがちな、不幸そうなイメージがありますよね。その「何かが欠けている」イメージが、自分が人間として「どこか欠けている」という認識を持っていた石神にとっては互いの共通項として親近感を抱くのを助けているわけです。


石神は、名前が語るとおり、石でできた神のような男です。

ごく普通の男性が抱くような性欲含みの興味で「隣家の美人親子」へ興味を持ったのではありません。

彼にとって花岡親子を見守るのは一種神聖な行為だったことでしょう。


彼にとっては初めて出会った時の、自分の命を救ってくれた花岡靖子(また名前も美しいですね)の女神のようなイメージだけが全てだったかもしれません。


肉体の欲求は所詮一時的なもの。

靖子の美しさだって時と共に衰えるもの。


その事を知っている石神だけに、自らアプローチしてすべてを台無しにするより、少しでも長く女神としての靖子像を自分の中に留めおきたかったのでしょう。心に感じるべき異性への愛を、石神は無理やり頭の中の偶像と置き換えることでバランスをとっていたのかもしれません。少なくとも自分の頭の中にある限り、偶像は永遠ですから(この偶像って、実は英語で言うアイドルなんですけどもさ)。


しつこいようですが、彼は感情を排し理性のみで美に至る手段に慣れている男なのです。


彼にとって花岡靖子は手の届かない存在でよかった。毎朝彼女から弁当を買い、窓から漏れ聞こえる親子の声を聞くことだけでも石岡は純粋な喜びに浸っていたはずです。




それまで仕えていた数学という絶対的な美神から、花岡靖子という女神へと伺候先を変えた石神ですが、彼のイメージの中の女神然とした靖子と現実に肉体を備えた靖子とは別物であるという認識もしっかり持っていたはずです。


ではどうして、彼は毎朝弁当を買う以外のアプローチを生身の靖子に対してしなかったのか。


それは自分と靖子が並んで立った時に絵にならない=美しくないからでしょう(石神の外見が堤真一的ではなく温水洋一的だと想像してくだされば分かります)。

彼は数学という究極の美を長く追求してきた男です。当然自らを客観視できる冷静な判断力と理性も兼ね備えているでしょう。風采の上がらない自分が美しい靖子と並ぶ姿さえ想像したくなかったに違いありません(はい、この辺、書いている私自身の歪みが解釈に反映されてます)。


もし彼がオスとしての欲望を遂げたいだけなら、どんな方法だってとれたはずなんです。


でも石神はそれをしなかった。

まさに、石でできた神です。


さて、そんな石神に訪れた千載一遇のチャンス、それが靖子の犯した罪の後始末を引き受ける事でした。


何のチャンスかって、それは石神自身が永遠に靖子の心に残るチャンスです。それも、この上なく美しい存在としてね。


石神が靖子の犯罪の証拠を消し、彼女に代わって自分が犯人だと名乗り出て逮捕され裁きを受ける事で、彼にとっては全てが丸く収まるはずでした。日本にも「二重処罰の禁止」がありますから、一つの事件で石神に判決が下り刑に服すれば、靖子が同じ事件の審理を受ける心配はない。


そうすれば靖子は犯罪者になる事なく今まで通り幸せな毎日が続くはずで、その全てをお膳立てした石神の存在は感謝の念に包まれて美しく彼女の心の奥底に輝き続ける……あたかも人間ではなく彼女の守り神であるかのように……それが石神の心底からの願いだったと思います。


石神は自分の肉体に対しては大して執着していませんし、現在の生活も靖子以外に喜びなどないのだから、彼女の面影を抱いたまま刑務所に行くことを苦にする風でもありません。彼にとって大切なのは靖子のイメージが今と変わらない事と、彼女の心に自分が残るのならせめて美しい形でありたいという切実な思いでした。


好きな女を守るために、自分の全てを犠牲にした男。


それが石神の望んだ自分自身の美しい姿だったのです。愛に殉じた自己犠牲の極致の姿として、自分自身を靖子の心に刻み付けたかった。


そうやって美化された自分の姿が靖子の中で生き続けるのなら、現実の自分なんてどうなっても構わなかったのでしょう。


彼のやったことは、実は徹底したエゴイズムの現れでしかなかったのだと私の目には映ります。それを石神自身が認識していたかどうかまでは分かりませんが。


「僕のことなど忘れて幸せになってください」

と手紙に書いた彼の気持ちに嘘偽りはなかった。

石神という醜い人間の事は忘れて貰ってよかったのです。その後靖子が幸せをつかんだら、その幸福の全ては石神に由来することになりますから、その後彼女にとって石神は絶対的な感謝の対象となる。その日が実際に来るかどうかは問題ではなく、理論上いつか自分が靖子にとって神の如き存在になれる日が来るのなら、石神にとってはそれは今日も同じことなんですよ。



彼にとって大事なのは生身の靖子というよりも自分の中にある偶像としての靖子であり、自分がその偶像靖子に匹敵する存在になるためには、生身の靖子の中に偶像としての自分を成立させるしかなかったのです。その偶像同士に交流が生まれる必要はなかったし、たぶん現実の今の段階で生身の靖子との交際さえ求めてはいなかった。



ひょっとして靖子の罪を被ってその刑期を勤め上げたあとならば、靖子の中で自分の偶像が十分大きくなっていれば、その時初めて生身の靖子と対等な存在として交流できたのかもしれないですが。



ともあれ、石神にとっては自分が逮捕された段階で全ての計画は思い通り完璧に運んでいたはずなのです。


彼はそれ以上の事は望んでいなかった。

いいえむしろ彼にとってそれ以上の望みはなかったんです。



それを木っ端微塵に打ち砕いたのが湯川です(石神の目線に立つとそうなります)。


何故なら、石神は自分の望みを叶えるために他人の人生を蹂躙していたから。それは現行の法の下では許されることではないからです。それをはっきりさせるため、湯川はなくてはならない存在なのです。




石神が一つだけ失敗あるいは計算ミスをしたとすれば、靖子の心に残るべく自分を美化しすぎた点にあります。



美しい隣家の女性に思慕を募らせながらも、手を一つ握ることなく、ただ彼女を守るためだけに自分の全てを捨て犯罪者の汚名を着るに甘んじ、尚且つ彼女の幸せだけを祈る男。



こんな男性像を聞かされたら、その相手に情が移らないという女はまず滅多にいないでしょう。



石神が最初に計画を立てた時点で湯川は介在していませんでした。だから石神には湯川はどう出るか分からなかった。分かったところで自分の立てた計画は湯川には覆せないと高をくくっていたかもしれません。



確かに湯川には石神が周到に整えた証拠による論理の網を破る力はありませんでした。

数学者のたてた論理に物理学者の湯川は論理では太刀打ちできない。

けれども彼は論理を打ち破るものが何かはちゃんと知っていた。少なくとも知識としてはね。人間という「物体」をしっかり観察することで導き出された結論なのでしょう。



論理に対抗するもの。

それは感情。

人間の感情は論理なんか気にしません。



だから湯川は靖子の感情を利用した。

石神の自己犠牲による献身ぶりを美しく語れば、情にほだされた靖子が石神の「この事は誰にも言わないで」というたっての願いを無視して自分の罪を告白に行くと百も承知で。



靖子が自白すれば、石神が靖子のためにやってきた全ての事が無駄になる。

激情に駆られた靖子は気づいていないけれど、それこそが石神の最も望んでいない事だったのに。



「どうして?!」



という石神の悲痛な声は、世界が足元から崩れた男の声でした。


彼は愛する女の手によって引導を渡されたのです。

そしてそれを手引きしたのは、ただ一人彼を友達と呼んでくれた男でした。



私が石神のために泣くとしたら、完璧に美しい世界、自分の中のこの世の楽園が完成したと思った瞬間、それを完膚無きまでに打ち砕かれた、そのショックにこそ共感して泣くでしょう。 人生の全てを捨てて愛を手に入れた男にではありません。私の目にはそんな男、映らなかったから。バカな女のために人生棒にふった男はいましたけどね。


残酷で、残酷だからこそ美しい「容疑者Xの献身」。


論理は感情によって地に落とされるという事を、論理によって証明してくれたような物語。




繰り返しますが、これは歪んでいる私の個人的な解釈です。

見る人によって他の解釈もいくらでもできると思います。




ただ、もし石神を演じた堤真一さんの血を吐くような



「どうして?!」



がまた違う声の調子であったなら、私の解釈も別のものになったと思うのです。



自分のために犠牲を払ってくれた男のために自分自身も身を捨てた女をいとおしみ、嬉しく思っている気持ちが彼の声音に少しでも入っていたのなら、それは石神と靖子の愛の成就でめでたしめでたしで終われたんですが、私の聞く限りこの「どうして?!」にはそんな感情微塵も入っていませんでしたね。



あれは自分のたてた計画が土壇場で全て台無しになった事で、驚きと怒りと絶望とやるせなさで一杯になった男の声に聞こえました。彼にとっては計画の成功こそが大事であって、その結果生身の靖子が後に罪の意識に苛まされる事になるだろうとは微塵も考えていなかったって事なんですよね。



それは彼が論理を組み立てる上で人の感情というものを機械的にしか把握していなかったという事でもあります。それ故彼は人の神になりそこねたとも言えるのです。




石神はむろんフィクションとしての存在です。

フィクションとして、断罪される存在として最初から設定されている。

どんな天才であろうとも、人が人の人生や生命を弄んではいけないのだというメッセージを込めるためにね。



けれどその一方、石神は作家や映画監督(要するに机上で人の人生を弄ぶ存在ですわ)にとって非常に魅力的な存在でもあるのです。



そう、石神は魅力的なんです。



設定としてどんなに不細工な男だったとしても、存在として圧倒的な魅力がある。



その魅力を見事に表現してくれたのが堤真一さんの演技でした。



靖子の犯罪を自分が肩代わりすると決めてから石神が自分の全能力を使って周囲の人間を思い通りに動かす時、外見がどんなにしょぼくれた様子であったとしても彼からの底知れないパワーを感じるんですよね。それは全能感とも言うべき、自分が全ての事態を掌握し自由自在に操っているんだという自信なんです。



それが余りにも魅力的であるが故に、人が陥ってはいけない罠であると知らしめるため、石神は断罪されなければならない。それも彼にとってこれ以上はないという悲惨な状況で。



作家や映画監督たちが、自らを戒める意味でもね。



奥の深い作品でした。