「血と暴力の国」 コーマック・マッカーシー
小説の最初の数ページを読んだだけで、映画と全く同じ事にまず驚かされてしまった。
こんなに忠実な原作の映画化って、まず珍しいのではないか。
まるで原作者のマッカーシーがタイムトラベルで未来に行って「ノーカントリー」の映画を見て、それをまるまる描写してから自分の時代に戻って出版した……そんな感じである。よく映画のレビューを書くにあたって作品全体の克明なあらすじから始める人がいるが、今の内にその腕を磨いておけば将来タイムトラベルが実現した時に過去に戻って有名な小説家or脚本家になれるかもしれない。
原作である小説を元に映画を制作する際には「脚色」という作業が行われる。大抵はこの時点で脚本家の解釈が入る。さらにそれを映画化する時にそれが監督のカラーに染め上げられる。だから往々にして「映画」と「原作」がまるで違ったものになるという事態が生じるのだが、「ノーカントリー」に限ってはそれがない。
原作を完璧に解釈した上で脚本・監督を行ったのか、或いは小説家と脚本家及び監督の物の考え方事象のとらえかたが完全に一致しているのか……それとも、映画を制作する側が完全に「自分」というものを殺して作ったのか。いずれにしろ、そうそう簡単にできるものではない。
脚本家が制作サイドにやいのやいの言われた挙げ句、完全に自分を殺して書いた作品だと多くの場合どこかに「投げた」雰囲気が出るものだが、それもないのよね。
そういう意味でもこれ本当に凄い映画化作品なのである。アカデミー賞とって当然。
もっとも読んでいるこちらの頭には主要な登場人物がそれぞれ映画でのキャスト通りに頭に思い浮かんでいるので、そのせいなのかもしれないが。
映画において足されている部分はモブシーンぐらいだろうか。銃撃戦や車が爆発する時その場にいる市井の人々。彼らがどう反応するのかは小説にはいちいち書かれていなかったから。
逆にいえば、それ以外はすべて文章で表現されていたということである。極めて視覚的なイメージの強い小説といえようか。
この小説は登場人物の会話が「」(かぎかっこ)でくくられることがないため、ひとたびその文体に馴染めば流れるように読み進めることができるのだ。それは時に誰が話しているのか分からなくなる危険性を秘めてはいるが、会話を独立させてとらえる舞台劇的なイメージを完全に廃する効果となって、読み手自身がそのまま物語の中に入り込んだような錯覚を覚えさせてしまう。そしてそのままストーリーの濁流に飲み込んで最後まで押し流してしまうのだ。
読んでいる「私」は地の文のまま時にモスとなり時にシュガーとなり、彼らの感情を己の身の内に想起する。その生々しさはことによると映画以上かもしれない。
私の場合は先に映画を見ていたので、モスが語ればジョッシュ・ブローリンのニコリともしない無愛想な顔が頭に浮かぶし、シュガーが語れば薄笑いを浮かべ映画史上最悪の髪型をしたハビエル・バルデムを思い出す。ベル保安官のモノローグには疲れた表情のトミー・リー・ジョーンズがかぶってくる。
それはこの作品を読み進むためには大変便利ではあったけれど、もし映画を見る前に原作を読んでいたら、この内容は理解できたのだろうか?
まず、そもそもストーリーを辿るのに苦労したかもしれない。
しかし、原作に忠実でありつつ、実はこの映画にはそこはかとないユーモアがずっと漂っていた。ひょっとするとその部分が「脚色」のコーエン兄弟らしい部分かもしれない。
それは「ファーゴ」で見せてくれたような、本人は至って真面目で真剣そのものなのに、その異常な状況故に観客は吹き出さずにはいられないといったタイプのかなり特殊なユーモアで、シュガーの変な髪型も実際その機能を担っている故に映画に不可欠だったのだ。今見ると時代遅れ極まりなく吹き出すしかないようなビーコンがその時代の最先端の電子機器として登場するのだが、それを追跡の有効な手段として取り扱っているシュガーの図は、彼が真面目で真剣そのものだけに異様なおかしさを醸し出していた。
狂気が境目を超えてギャグになる、そのギリギリの線上で「ノーカントリー」の脚本は書かれている。この妙なユーモアのセンスは、恐らく原作にはないものだ。
原作では主人公であるベル保安官の過去や生き方の方にかなり比重が置かれている。いや、或いは映画でも語られていたのかもしれないが、あまりにも異彩を放っていたハビエル・バルデムのせいで全てが霞んでしまったのかもしれない。
ハビエルが演じていたシュガーという男は、たやすく人を殺す技術を習得し、他者の生殺与奪の権利は全て自分が握っていると思い込んでいる人物だ。他人の命を自由にできるという考えは、他人の運命を握っている自分は神も同然の存在だと、人をして思わしめる。
人がそう思うのは、別に珍しいことではない。
「ノーカントリー」はフィクションなので、神の如く思い上がった瞬間、事故という形でシュガーには鉄槌がくだされる。結局他人の運命に「死」という最後を与えることはできても、ただの人間であるシュガーに自分の事故を予知し回避する能力はないということだ。
映画ではこちらの場面の方が強く印象に残る。
シュガーのような怪物を生み出す時代に居場所を見つけられなくなったベル保安官の苦悩は、トミー・リー・ジョーンズの苦渋の表情が物語るだけだ。原作ではタイトルがそうであるように、こちらの方に重きがあったようなのだが。
だが、私は現代においては映画の解釈の方がふさわしいのだと思う。
人の命を容易に奪えるからといって、その人間は神ではない。司直の手が及ばず、司法で裁けないとしても、偶然という形をとってでも犯した罪の報いは受けることになる。
せめて映画の中でぐらいそう語らねば、無差別殺人やテロが多発する現代において人は何の救いも得られないではないか?
殺人は、意図的な殺人者の心の中では必ず動機が正当化されているものだ。
シュガーの一見無差別に見える殺人にだって、どれも彼にとっては立派な理由があるのである。普通一般の人は、殺人行為そのものが困難だから理解できないと思い込んでいるだけで、たぶん殺人が蚊を叩くのと同程度の労力しか伴わないものならば、自分の気に入らないからといって人を殺すシュガーの気持ちも充分理解できるだろう。
しかしそんな事は許してはいけない。
何故ならば、それを許したら、人は他人をいとも容易に殺し始め、人類は瞬く間に滅亡するからである。
「人を殺してはいけない」
というのは、同族殺しのタブーを本能としてもたない人類においては、種の保存のために最も大切な文化なのだ。
文化だからこそ、フィクションとしてであれ何であれ、その時代に受け入れられる形で何度でも繰り返し語らねば次代を担う世代に伝わらない。
「ノーカントリー」はまさしくそのために作られた映画だった。原作を忠実に踏襲しているようでいて、実はメッセージは監督達の意向を反映していた作品だっった……のかもしれない。
そしてそう語ることで、映画「ノーカントリー」はアメリカの一時代の話に留まることなく現代の日本でも、充分通用する話として広い普遍性を得られたのだろう。今だからこそ、そう思える。