ネタバレといっても、これだけ有名な物語なので今更な気もするんですが……。まあしかし、知らない人は知らないわけなので。
それにいくら「三国志演義」が有名といっても、それは中国国内とその文化が広く伝播した国に限られるでしょうから、欧米の観客にとってはこの映画は「知らない話」なんですよね、きっと。
そういう何も知らない観客にとって、劉備は一体どのように目に映るんでしょうね。
原作では皇叔ということで漢王朝の血をひいてる事になっているとはいえ、映画の中の劉備って別に豪傑でもなければ知将でもないです。日本じゃブログパーツも作って貰えない、脇役扱い。
劇中
1逃げるか
2草鞋編むか
3おろおろするか
ぐらいしかしてない、ちょいといい男とはいえかなり草臥れた感じの劉備が、何故あれだけの人材に慕われるのか、これって「レッド・クリフ」最大の謎だと思うんですよね。
彼って欧米人の考える「王」というイメージとはまるきりかけ離れてるのではないでしょうか。
欧米人の考える理想の「王」って、たとえば「ロード・オブ・ザ・リング」のアラゴルンですよ。自らが勇者であり深い知識と知恵もあり(ついでに芸術家)、その上で自分自身の欲望を完全に捨て自分の優れた特質を全て捧げて人民のために尽くすんですよね。
玄徳さん(劉備の字)、後半の条件は問題なくクリアしてるんだけど、前半の条件である並外れて強くて賢いというレベルにはちょっと到達していない。ま少なくとも映画では。「演義」の方では一応武将としての腕は立つ方みたいなんだけど。
そうすると、後半の条件、これを「演義」の言葉で言い換えると「徳」になるわけですが、これだけで人望を得ていたという事になります。
物語で読んでる分には(或いは講談として聞く分には)それで何となく言いくるめられてそうかと納得しちゃうんですが、映像になると説得力に欠ける事夥しい。
何故あんな見た目役立たずに等しき劉備に関羽や張飛や超雲のような勇猛な武将が心酔し、あまつさえ諸葛亮の如き希代の軍師までが膝を折って仕えるのか、幾ら彼が漢王朝の正当な血をひいているからって、それだけでは納得しがたいものがあります。
私が考えるに、恐らく現実に存在した劉備という人はとても魅力的な人物だったのでしょう。本人がダメでも、周りがつい手助けしてあげたくなる人っているじゃないですか。その人のために何かしてあげたいと、周囲の人がつい思ってしまうような人物――私利私欲のためではなく、他の人を幸せにしたいという目的で一生懸命努力している人、きっとそういう人だったんですよね。
そう考えると、映画の中の劉備の振る舞いが実はそれを示していた事が分かります。
彼は常に無辜の民がこれ以上の戦乱に巻き込まれることなく安心して暮らしを立てることができるようにと、そればかりに心を砕いていました。彼の人々を幸せにしたいという願いが本物だったからこそ、多くの将兵が彼の元に集まり彼のために戦ったのでしょう。
でも映画だとどうしてもインパクト強いのは実際に戦う人の方になりますからね。原作を知らない人が一回見ただけで劉備の美点に気づけるのかどうか、甚だ心許ないものがあります。
Part1を見た欧米の観客は、きっとPart2では劉備軍の誰が寝返るのか、誰が劉備を蹴落としてその座につこうとするのか、天下を取るのは諸葛亮か周愉か、なんてあれこれ頭を悩ませるのではないでしょうか。
世の中を良くしたいという劉備の強い意志あってこそ、軍師である諸葛孔明が様々な知略を巡らすはずなのに、映画だと肝心なその意志の強さがもひとつ感じ取れなかった気がします。映画は敗走のシーンから始まるので、意志が能動的に前に進んでいくというより受動的に守りを固める方に働くように見えてしまうせいもあるのかもしれません。
ところでその敗走場面での最大の見せ場は、超雲が劉備の赤子(阿斗)を風呂敷というかスリングというかとにかく布で包んだのを壮絶な戦闘を繰り広げつつ守り抜く激しいアクションシーンですが、幾ら布でくるんだからってあれだけ振り回されてれば中身(赤子)バターかジャムになっちゃうんじゃないかと思いましたよ。命があったのが奇跡ですわ。
この阿斗、成長してもボンクラだったのは、きっとこの時振り回されすぎたせいに違いありません。
なかなか深い物語だったと思います、「レッドクリフ Part1」。