X-ファイル:真実を求めて」(公式サイト )(劇場鑑賞

*二枚目の画像の下からネタバレになります。







さてこの作品、医師であるスカリーが最先端治療に携わる事が犯人に関わる重要なファクターとなっております。犯人の一人に至ってはいわばその治療の人体実験真っ最中(?)なんですが、その姿を見て思い出したのが子どもの頃に図書館で借りたジュヴナイルで読み、あまりにおもしろかったので中学生になってから文庫で読み直した古典SFでした。


そのタイトルを「ドウエル教授の首」と言います(こちら )。


ジュヴナイルのタイトルは「合成人間」だったかなー? タイトルだけでわくわくするでしょ♪


映画の中で新聞タイトルとして言及されていたのは「現代版フランケンシュタイン博士」でしたが(字幕なのでもっと短くカットされてました)、様々な遺体をつぎはぎして一個の人体を形成し、それに命を与えたフランケンシュタイン博士よりは、臓器の一つ一つを生かす技術から発展し遂には首のすげ替えが実現できるに至ったドウエル教授の方がこの物語には近いと思います。


この「ドウエル教授の首」が書かれたのは1925年といいますから、当時のSF作家の空想に医学面は100年かけて追いついてきたわけですね。現実には首のすげ替えというのは脊髄の神経を一旦切断し、それをもう一度他の肉体につなぎ治して尚かつそれを機能させなければいけないわけですから、実現はまだまだ先の事になるのでしょうが。一旦切断された脊髄の神経の機能を回復できるのなら、まず下半身麻痺の人から治すでしょうし。


そういう意味では「X-ファイル:真実を求めて」(原題は "I want to believe")はやっぱりまだまだSF作品ではあるのですよ。


ただ、この作品が先鋭的なのはね、単に首をすげ替えるだけじゃなくて、その際に男性が女性の体に自分の頭をつなぎ直して貰う事を望んでいる点にあるんですね。


要するにゲイのカップルのまあ女性側に当たる方が体も女になることを希望しているということです。頭自分のままで体を女に変えるという、完全なる性転換ですわね。


私は自分の体が好きなのでよく分からないんですが、自分の体が嫌いな場合、それを丸ごと取り替えたいと思うのは、よくあることなんでしょうか? どちらかというとそれは男性側に多い発想のような気がするんですが。


しかし、女性になりたいと思っていた男性が自分の体を捨てて本物の女性の体を手に入れたとして、それに適応できるものなんでしょうか? 脳は男性のままなのに。生身の生理機能を備えた女性の体を手に入れたらホルモンから何から全部変わってしまうんですがね。骨格も筋組織も男性とはモノが違うのに、子どもの頃から馴染んだわけでもない体にいきなり重たい頭を乗っけたら、相当なリハビリを重ねないとまともに運動できないんじゃないでしょうか。


そもそも男性と女性だったら、ぴったり合うサイズの首の持ち主を捜すことから至難の業ではないかと思うのですよ。映画では一応小柄で華奢な男性が頭の持ち主になってましたけれど。


「ドウエル教授」で印象に残っているのは、首を付け替える胴体を探すのに巻き尺持ってって死体の首回りを測っては使える使えないと選別しているシーンでした。


首ではないですが、腕ではすでに他人のものを移植している例があって、テレビで見たことがあります。

それが、あり合わせの腕を使ったものだから本来の腕とは太さがまるで違っていて、移植した先と段差になってるんですよ。言っちゃ何ですが、見た目ちょっとヒドイです。肌の色も、同じ白人でも人によって全然違っているもので、太さが合っていたとしても色も違うし、当然右手と左手の形も異なっている――どう見ても、違う人の腕がそこについているとしか思えないものでした。そう見えて当たり前の話なんですが、実際に目の当たりにすると、相当異常な光景だとしか言えません。


他人の腕を移植して貰った人達は、それが自分の腕ではないという違和感にしつこくずっと悩まされ続けると言ってました。ある人は折角移植した腕をもう一度切断する手術を受け、義手にしたそうです。


腕でそうなんですから、体全体だとどうなるのか……それは映画では描かれてませんでしたが、先々必ず問題提起される事になるでしょう。


まあ首のすげ替えという治療(?)は発達しない方が世の中平和だと思います。移植用の臓器を金で買うという行為が闇で行われている現実を見ると、金さえ積めば闇で首から下のすげ替え手術が横行するのは目に見えてますから。


そうなれば脳死の患者は臓器じゃなくて遺体そのものの提供カードにサインがあるかどうかが問題になるだろうし、誰かが脳死するのを待てない人のために事故に見せかけて脳死患者を量産する悪人達がきっと出る。


そして大金を積んで新しい体を手に入れたはいいけれど、その体に馴染めず精神に異常をきたしたり自殺したりする人が相次ぐに違いないのですわ。


そうならないためにはクローン技術の開発が不可欠で、金持ちが自分の体に何かあった時のためにスペアの体としてクローンを養育するという時代がやってくる。


「アイランド」では臓器提供のためのクローン栽培だったけれど、首のすげ替えができるならば少々老化が進んだ段階で首から下だけ若いクローンの体と取り替えることも可能になるわけで……そうすれば事実上不老で長生きも可能になるはずです、お金持ちに限ってね。



だから、そんな技術など発達させない方が世の中のためなんです。人類はそれ程すぐれた存在じゃない。


フィクションの作り手はそれを知っているから物語の最後でその技術と知識は失われた事にする。


恐らくこの映画のラストでもも、はっきりと語ってはいないけれども、スカリーに最先端の治療を断念させているはずです。


非常に宗教色を強く出していて、この先は神の御業、その命は神に委ねよと言っているようですが、それは現実に神がいようがいまいが関係なく、人間には手を出してはいけない領域があるということなのだと思います。


この映画は古典SFの王道を踏襲しているという点においても、20世紀の名残を伝えている作品でした。


でもその警鐘は現代にこそ必要なものなんです。