テレビシリーズ「マスターズ・オブ・ホラー」シリーズの一本として日本の作家、岩井志麻子の「ぼっけえ、きょうてえ」が映像化されている(詳細はこちら )。


WOWOWで放映されたのを以前に見たのだが……これが全然怖くなかった。男が見たら女郎が仲間をいたぶるシーンに何か感じるものがあるのかもしれないが、生憎私は女なので。自分の中に潜む残酷なものは百も承知だから、今更目を覆ったり耳をふさいだりする必要はない。


大体がこの「マスターズ・オブ・ホラー」シリーズの半分は男のサディスティックな欲望や変態的な欲求をホラーの衣を借りて満たすために作られているようなもので(本気で恐くて面白いのはジョン・カーペンターとジョー・ダンテ作品ぐらいである)、残酷描写そのものは別に珍しくないのだ。女同士の陰湿ないがみあいのいやらしさや凄まじさは「SAYURI」の描写の方が上だったし。


だから見ている間中、一体何をどう恐がらせようとしてこの作品が作られているのか謎だった。

さらに恐ろしいことに、見終わってもまだ謎は謎のままだったのである!


いや、話の筋は分かりましたって。


謎は、監督の意図がどこにあるか、というより監督はこの作品の何が恐いと思って(或いは観客が恐がると思って)作ったのかということですわよ。


見終わってしばし茫然。

ああっ、日本のホラーって(ホラーなのか?)わっかんねー! と思わず叫びましたね。お? そういう意味ならこれも絶叫系か。


普通、超自然の題材を扱っているようでも、欧米のホラーって論理の糸が全部綺麗につながっているから、それを辿っていけば脚本家や監督の意図も理解できるようになっている。最後の最後にヘンな仕掛けやオチがついて全てが台無しになっている場合があるが、そういうのはプロデューサーのごり押しだったりするので別に考えればいい。基本になるストーリー自体にはちゃんと筋道があって、「恐い」理由がきちんと伝わる仕組みになっているものなのだ。少なくとも脚本家や監督が何をもって観客を恐がらせようとしていたかぐらいは察することができる、例え映像作品そのものが全く恐くないとしても。


ところが「ぼっけえ、きょうてえ」は最後まで何がどう恐いのか全く理解できなかった。


一応、欧米人が見るものとして起承転結の中で謎が解明されて因果応報で始末がつくようなストーリーにはなっているのだが、何かスッキリしない。登場人物のどちらがメインの主役なのか判然としないので、どちらに感情移入して恐がればいいのか分からないのだ。


恐怖というのも人によって恐がるポイントが違うものだから、人によっては全然恐くないホラーというのも確かにある。例えばホラーファンにとってはシリーズ化されてしまってから制作された「13日の金曜日なんたら」「ハロウィンかんたら」はイベントムービーみたいなもので恐さを求めて見に行く作品ではなくなってしまっている。しかしホラー映画を滅多に見ず、それどころか「血」そのものが赤いというだけで充分恐いという人にとっては、ジェイソンやレザーフェイスの殺人描写で派手な血しぶきがあがるだけ震え上がってしまう事だろう事は容易に想像がつく。


自分は恐くなくても他人は恐いと思うかも知れないという想像は、「一般的な人が恐怖を感じる対象」とでもいった普遍的な恐怖感というものが存在するからこそ働くのだと思う。それは仮に自分がこの状況(例えば無言の殺人鬼に遭遇する等)に陥ったらきっと恐いと思うだろうという想像力に通じる。そしてその想像力が働かない限り、ホラーなんぞ見ても恐くはないのだ。


何故ならば、「恐がる」主体はあくまでも「自分自身」だからである。

「恐い」と「自分」が思わなければ、恐怖というのは成立しない。

「他人の恐怖」はそれを見ている「自分」との間に心理的な紐帯がなければ伝わって来ないものなのだ。


ホラーファンは「13金」を見ている時、主人公以外のいわゆる「やられキャラ」には全く感情移入していない。「やられキャラ」は殺されるものとして設定されているものとして、見る側は最初から感情のコネクトをセーブしているのだ。幾らかでも感情のつながりを生じさせると、映画とはいえ登場人物が惨殺された時のショックは大きいものなので、そういう事態に陥らないよう細心の注意を払いつつ見ていたりするのである。


ジェイソンやマイケルの方に感情移入して見るタイプの人ならその必要はないだろう。そういうタイプはホラー映画で恐怖を味わったり乗り越えたりするのではなく、恐怖を与える側に立つ快感を得るために劇場に足を運ぶのかもしれない。


私はホラーの主人公に感情移入して、襲い来る恐怖と戦って乗り越えるのが好きなタイプなので、映画を見るとまずその役割を担っている登場人物を選別することから始める。それは別に難しい事じゃない。大抵はクレジットの一番上に名前が出てくる俳優が演じているものだから。もちろん例外もあるが、しかし誰がメインのファイターかは物語が進むにつれ明白になるのが常である。



ところが「インプリント~ぼっけえ、きょうてえ~」はそうじゃないのだ。

この作品は設定がちょっと入り組んでいて、「恐い話」は男性の主人公のクリスが買った女郎が語り続ける物語の部分なのである。彼の聞かされている話が劇中劇となって視聴者の前でも展開される。


話をしているのは女郎だが、それを聞いているのはクリス、そして女郎が話すのは小桃という女の事。


さてこの3人の内の誰にポイントをあてたらいいのだ?


クリスが聞きたがり、女郎が話している物語の主役、それは小桃のはずだ。

しかし女郎にとっては自分の経験をは話しているわけだから女郎自身が主役だ。

だがこのドラマ自体の主人公は女郎から小桃の話を聞くためにやってきたクリスでなくてはならない。


監督がポイントをあてているのは女郎役の工藤夕貴で間違いないのだが、彼女はその役で誰かを恐がらせようともしてないし、自分が何かに怯えているわけでもない。強いて言えば、彼女自身が見かけ的に恐い存在ということのようだ。


彼女の語る物語の中で恐い目にあっているのは小桃である。ところがこの女、どこか壊れているらしく、何をされてもどんなひどい目にあわされても、全然恐がってないばかりかむしろ喜んでいるようにさえみえるのだ。もちろんこの小桃は現実の存在ではなく女郎の語る話の中の登場人物だから、そのせいで不自然な存在とになっているとも考えられないこともないのだが。


けれどもその不自然な小桃像を、クリスの方は疑問も抱かずに聞いている。小桃が凄惨な拷問にあったのを聞いて彼が震え上がったかというとそうでもない。小桃を探し求めて来たはずなのに、クリスの態度は煮え切らないというか、そんな薄い感情しか持ってないくせに何故そんなに小桃に固執しているのが不思議な程だ。


つまり、ドラマの中で真剣に恐がっているメインの人物が誰もいない事になる。

それでは登場人物の感じる恐怖に便乗して恐がる事ができなくて当然だ。



じゃあ一体このドラマはどこをどう恐がればいいというのだ?

小桃が拷問にあった理由を淡々とというより喜々として語る女郎の心理が恐ろしいとでも?

そういう心理描写は文章で読めば恐いのかも知れないが、映像では単に何考えてるんだかよく分からない人になってしまうだけである。


人の感情は壊れていても(小桃)、鈍磨していても(クリス)、歪んでいても(女郎である語り手)、それを見ているだけでは別に怖くはない。気持ち悪いだけである。


そういう普通一般とは違う感情の持ち主が恐怖に遭遇したらどうなるのかという部分で勝負をかけて、底知れぬ恐怖を味わわせてくれればそのホラーは大成功といえるだろう。


しかし、壊れ、鈍磨し、歪んだ感情の持ち主達は、その普通の人とは違う感情故に、恐怖を容易に受け入れてしまった。恐怖を恐怖として認識するのをやめたのだ。


「インプリント~ぼっけえ、きょうてえ~」は、だから恐くないのである。


「恐怖」は、受け入れられないから恐いのだ。

ジェイソンであれマイケルであれ、殺人鬼による唐突かつ理不尽な死は受け入れ難いものだから、襲われた人間は必死になって逃げる。己の死という「恐怖」を受け入れたくないから逃げるのだし、逃げ切れないと悟れば踏みとどまって戦う。登場人物が恐怖を受け入れるのを拒否して足掻けば足掻く程、観客にその恐怖の大きさが切実に伝わって来るのである。


それを「インプリント~ぼっけえ、きょうてえ~」の登場人物達は感受性がどこかで麻痺しているのかあっさりと素直に受け入れてしまっている。それは、はっきり言って、人間として大事な部分が欠落している事だと思うのだが、何故かこの物語の中ではそれが一種人間を超越した神々しさとして扱われているのだ。


自己犠牲なら、それもいい。

だが、この作品の描写からは登場人物にそんな尊い精神性を感じられない。

単に鈍いか、愚かなのか、狂っているのか――或いは嘘で固めた作り話か、そのどれかだ。


いずれにしろ、恐怖を感じる能力を持たぬ者を幾ら見ていたところで恐くも何ともならない。そういうことなのだ。


最終的に恐怖の総決算を受けるべき男であるクリスでさえ、従容として自分の立場を受け入れてしまう。あんたアメリカ男のくせに、そんなに従順に恐怖を受け入れていいんかい?! 


ひょっとするとアメリカ人が見たら、東洋の女に骨抜きにされて恐怖に立ち向かう力も奪われてしまった同朋の男を見るのは恐怖なのかもしれない。それは「東洋」という異文化に対する漠然とした恐怖そのものなわけだが。




実はこの映像作品で描かれている事は、女には絶対理解できない領域の恐怖だったりする。


それは、自分の子を妊娠した女を無情にも捨てた男の、御本人の罪の意識に起因するものだ。


自分が捨てたからって、恨まないでくれよ。子どもを中絶したからって祟らないでくれよ。俺だって仕方なかったんだし、悪いと思ってるんだから、呪ったりしないでくれよ。供養するから水子の霊は勘弁な、という切実な思いがそこにはある。


まことにもって虫のいい、身勝手な言い草であることは御本人も承知とみえて、だから物語の中で登場人物にケジメをつけさせてみたりするのだろう。


この「インプリント~ぼっけえ、きょうてえ~」を心から恐いと思うのは、おそらく身に覚えのある日本男性だけなのではあるまいか。水子の霊なんて日本以外じゃあんまり聞かないから。


そこには「贖罪」という強い思いは存在しない。

「罪滅ぼしができれば」という淡い期待が漂っているだけだ。

「せめて」とか「少しだけ」とかを「罪滅ぼし」の上に持って来てもいいが、どちらかといえば「あわよくば」の方が似合っている。

捨てた女性と子どもに対する情愛よりも、自分が感じている罪の意識を少しでも軽くしたいというどこまでも身勝手な男の気持ちの方が強く滲み出ているので。


そんな男には同情もできなければ当然感情移入もありえないから、男の感じているらしい漠然とした恐怖感はこの先も一生理解できないままだろう。


もちろんこれはテレビを見終わっても全くどこが恐かったのか分からなかった私の勝手な憶測である。

見る人によっては、凄惨な話を何でもない出来事のように語る女の精神のありようが一番恐いという事になるのかもしれない。或いはその女の正体が得体がしれないのが超自然的な恐怖を呼ぶというのかもしれないし。


ワケがわからないのが最近のジャパニーズホラーの恐さなのだと言われれば、はいそうですかと引っ込むまでである。恐怖のポイントは人によって違うのだし、時代によっても違うのだろうから。




*アメブロって、長文をアップすると、何故か元のパラグラフの並びがデタラメに変わってたりします。パラグラフの並び位置が変わってしまうと、一貫した筋で語っているはずの論理が全然筋の通らないものになってしまいます。

この文章もそうで、後からチェックして修正しました。


パラグラフの並びが変わっているだけならコピー&ペーストで修正もききますが、もしかすると消えてしまったパラグラフもあるかもしれません。そういうのはもう頭の中にも残ってないので、直しようがありません。


こんなところで書く文章じゃないってことですかね。