「ヴィーナス」公式サイト


タイトルにある――英国版『癇癪老人日記』――というのは、上記の公式サイトのプロダクションノートにある


とりわけ高齢者の情熱については、今まで書いたことがない題材だったが、挑み甲斐のある題材だと思った。そんなおりに谷崎潤一郎の『癇癪老人日記』を読んで魅了されて創作意欲をかきたてられた。


を読んでな~るほど、と思ったのでつけたものです(谷崎のフーテン老人は亀仙人みたいなもので現役バリバリで家族を困らせていたが、この映画の主人公はもっと上品で典雅な存在。だってピーター・オトゥールだもん)。


公式サイトのプロダクションノートは素晴らしい解説になっていて、映画に関して知っておくべき重要な事項が全て網羅されています。是非ご一読ください。「瘋癲(ふうてん)老人日記」が何故か「癇癪(かんしゃく)老人日記」になってますが(参考:谷崎潤一郎 Wiki )、「癇癪老人日記」で検索してもヒットするんだからしょうがないのかも。


瘋癲 癇癪 


大きくすると違いが分かりますね。


ま、それは本筋とは関係のないことなのでこれ以上は追求しないことにして、「ヴィーナス」が英国版なら米国版は「最高の人生の見つけ方」(公式サイト )だと映画を見ながら思ってました。この映画のジャック・ニコルソンなら「癇癪老人日記」の方でぴったりだわ。


米国版が残された短い人生を楽しむために湯水のように金を使い、財力にものを言わせてその果てに幸せがどこにあるのかに気づくのに対し、英国版では自分の幸せはどうやれば手に入るのかを熟知していて、それを得るための手段としてユーモアとウィットを駆使しておりました。この辺にお国柄に違いを感じたりして。


英国版の主人公、モーリスを演じたピーター・オトゥール、この横

←にあるブログパーツに若い姿が出ております「アラビアのロレンス」でアカデミー主演男優賞にノミネートされ(1963年)、またこの「ヴィーナス」でも同賞にノミネートされてました(2007年)。私、試写会で火曜に「アラビアのロレンス」を見て翌水曜に「ヴィーナス」をみたものですから、その間44年の歳月を一気に感じてしまいましたわ。歳月って残酷。


もちろん「トロイ」のプリアモス王などでちょくちょくピーター・オトゥールの最近の姿なども見ていたのですが、そういう映画ではメイクでかなり若作り&美化して出てくるのに、「ヴィーナス」では老いそのものがテーマですから敢えて老残をさらしているわけですよ。はああ~、あの美しいアラビアのロレンスがここまでなるか、というショックは大きかった!


これがピーター・オトゥール名優ですから、どこまでが本当の「老い」でどこからが演技なのか見分けがつかないんです。年をとって硬くなった体の動きの不器用ぶりが見事すぎて……あまりに見事だからきっと演技なのだろうな、と逆に判断したりする次第。


モーリスは手術を控える身で、老齢でもあるのに、実は男性としては元気いっぱいで艶っぽいのでございます。彼の友達の方はすっかり枯れて依怙地にさえなっているのに、現役のモーリスはまだまだ柔軟性を失わず、不測の事態に対処する力ももっているし、自分をどうすれば幸福な状態にもっていけるのかも心得ている。


この達観ぶりが見事でしたね!


たまたま彼の親友の所に身を寄せることになった若い女性を見るや、彼女を最後の恋の相手と思い定めてしまうのですが、彼はそれが自分自身に生きる意欲をもたらすものであることが分かっていて、それを得るためになら平気でプライドを捨てる強さももっている。だから彼は幸福になれるのですよ。自分の力で幸福をつかみ取ろうと努力を怠らない、これがモーリスです。残念ながら手に入れた幸福にすぐ飽きて放り出す事を繰り返してきたため、現在の彼の手元には何も残っていないのですが。


この若い女性がまた花盛りというか、もっといえば孕み盛り、生殖期間まっただ中という感じで、いかにも年老いた男の性の熾火をかきたて、再び燃え上がらすのにふさわしいキャスティングなんですな。何も言わなくても、そこに生きて存在しているだけで男の活力を呼び覚ます感じですわ。


映画のタイトルになっている「ヴィーナス」とはモーリスが彼女に付けた呼び名です。

教養のない彼女に対しても紳士として振る舞う彼がロンドンのナショナルギャラリーで彼女に見せた絵、ベラスケス(「アラトリステ」にも絵がでてきます)の「鏡のヴィーナス」に由来するのですが、愛と美と豊穣の女神の名をもらった彼女はまさしく男性に彼らの性の望むものを全て提供してくれそうに見えます。性は最終的には生殖として子孫をもたらすもの。自分の存在のいくばくかをこの世に残すための最も完璧な方法。人生が終わりに近づくのを感じている男性にとって旺盛な生殖活動期を迎えた女性は特に魅惑的でしょう。


モーリスの方は俳優をずっと職業とし、シェイクスピアなど幾らでも諳んじられる教養の持ち主ですから、いきなりジェシー(ヴィーナスの本名)を押し倒すような真似はしない。その代わりジェシーと一緒に過ごす僅かな時の一秒一秒を慈しむようにして味わいます。それは決してプラトニックなものではなく、指先を愛撫したり首筋にキスしたりといった行動を伴うものですが、モーリスが自分の快楽を優先させることはありません。


そう、モーリスは俳優として、他人に快楽を与えることを一生の仕事とした男なのです。


そしてモーリスにとっては他人に快楽を与えることが、すなわち自分の快楽。俳優というのはそうしたものだと「トロピック・サンダー」でも語られていました。観客がただ一人だとしても、その一人に受ければ満足するのが俳優なんですね。


モーリスはジェシーを相手に、老いて尚若い娘に恋する老残のプレイボーイの役を完璧に演じる事で生きる愉しみを得ていたとさえ言えるかもしれません。あの粗野で教養のないジェシーをヴィーナスと呼んであれだけ懇切丁寧に扱うなんて、役に入って完全に自分を殺してなければできないですよ。


しかし手術が原因でそういう生き方もたちゆかなくなります。

この辺りが大変現実的な理由によるものが、男性だなあと。


ジェシーももうモーリスにとってのヴィーナスではなくなる。


そんなこんなで一度は限界に達し、一度は演じるのをやめるモーリス。


それでも彼は自分を取り戻し、最後まで自分を演じ、演出をし続ける。


でも彼は幸せでした。

何故なら、彼が幸せであったことを知っていた人がいるから。

それがヴィーナスではなくて彼の別れた妻だったことは皮肉ですが、しかしそれが彼の選んだ人生です。


ジェシーもモーリスにヴィーナスと呼ばれたことで、自分はもっと素晴らしい存在になれるのかもしれないと気づき、捨て鉢だった生き方を前向きに変える事ができました。それは彼女の人生にとって快をもたらすものですから、モーリスも本望といえましょう。



44年の歳月で外見はすっかり変わってしまっても、中身は相変わらず最高にいい男なのでした、ピーター・オトゥールは。