この手の映画なら大抵封切り直後に見に行く私だが、「SAW5」に限っては何故か公開から1ヵ月近くも経過したクリスマスイヴに見てしまった。
別にクリスマスのデート用とっておきムービーとして 大事に残しておいたわけじゃない。ハロウィンに「ハロウィン」を、13日の金曜日に「13日の金曜日」は妥当だろうが、クリスマスに「SAWシリーズ」はちょっと無理がありすぎる。「メリー・クリスマSAW」なんてやったら救いの御子が御母の胸でそのまま息絶えてしまいそうだし。
かといってクリスマス直前にカレシに振られたので被害者にそいつの顔を重ねて楽しく見よう♪と思って「SAW5」を選んだわけでもない。
残念ながら理由はそんな詩的なものではなく、さあ「SAW5」見ようと思って頭の中で前回までのおさらいをした時に、1から3までは俳優さんの顔と名前とストーリーを思い出せたのに「4」だけは全く思い出せなかったから。こりゃダメだ、一度「4」をテレビで見て復習してから行こうと思っていたら出遅れてしまっただけの事である。
結果的にはそれが正解で、「5」は「4」を見ていなければ内容が全然理解できない作品になっていた。
この後ネタバレになります。
映画の冒頭、台に仰向けにごっつい器具で固定されている男を見ながら私が思い出していたのは何故かエドガー・アラン・ポーの短編小説「陥穽と振子」。
「そうそう、こうやって縛り付けられている男に刃の付いた振り子が降りてきて胴体を真っ二つにしようとするんだよな~。ゼンマイと歯車の機械仕掛けによる容赦のない殺人。こういうスタイルも元をたどればポーに行き着くのか。近代文学で私の好きなジャンルは全部ポーに端を発するんだな。江戸川乱歩もこういうの好きだったっけ」
等と漫然と考えていたら、あらなんと、ちゃあんと刃のついた振り子が降りてきたではありませんか、おいおいおい。
これたぶん、サブリミナルですね。きっと男の姿がはっきり映し出される前のシーンのどこかでその振り子が見えていたのを、私の表層意識は認識していなかったけれど潜在意識はしっかりとらえていたのでしょう。それでその「振り子」と「台に縛り付けられた男」が二点揃ったのでポーの小説を思い出したと。もしそうじゃなかったんなら、あたしってスゴイ♪(←勝手に言ってなさい)
さて、冒頭からポーを踏襲するぐらいなので、この「SAW5」はそれまでとは勝手の違った作品になる気配が濃厚でございます。事実監督はそれまでの2,3,4を担当したダーレン・リン・バウズマンから、これまでは同作品のプロダクションデザインを手がけていたデイヴィッド・ハックルにバトンタッチされております。
こういう作品って、監督の趣味嗜好性向を如実に反映するもので、この新しい監督さんのそれはズバリ「ピーピングトム」。この人、覗き屋なんだわ。
もうそれは恐ろしい程はっきりと最初から出ているんです。
大体こういうダークなテイストの作品だと監督の分身は犯人だったりするんだけど、この犯人、被害者が死ぬ様を本当に覗き穴から片目だけで見てるんですわ。それってあからさまに覗きが趣味の人のやることでしょ。
「SAW」シリーズでは、元々のオリジナルキャラであるジグソウに「覗き」の趣味はありません。彼は殺人現場にいたり、その様子をモニターで見たり撮影したりはするけれど、彼の場合は「観察」であり、それは結果を見届けるために必要な手順だからしていることで、別に見て興奮するのが目的じゃないんだな。
「2,3,4」ではオリジナルと違って、集められた人達が自分達の手を汚して他人を死に至らしめるという状況が多くなります。それは「1」でもあった事なんだけど、「1」のそれが被害者というか被験者が心理的に追い詰められていく有様をメインに据えた、あくまでジグソウの実験と観察が主眼だったのに比べ、「2,3,4」では殺す立場の人と殺される人の酸鼻を極めた描写にシフトしてくるんですよ。それはとりもなおさず監督の興味が「観察」ではなく、「他人を痛めつけ、果ては死に至らしめる」というサディズム或いは快楽殺人にあることを示しています。
冷徹な観察者であったジグソウが自分の決めたルールを決して破らないのに比べ、アマンダやもう一人は簡単にルールを逸脱してしまう。映画の中ではそのせいでジグソウに断罪されはしますが、監督的にはルールを逸脱するアマンダの方がピッタリくる登場人物であったということなんでしょう。ルールというのは法に通じますから、この監督は法を逸脱した趣味に走りたい人なんですよね。とにかく残虐描写が得意だし、また上手です。そして法を破っておきながら自分がやってるのは正しい事だと他人を丸め込む術にも長けています。そうやって他人を支配するのが好きなんですよ、こういう性向の人は。「クリミナル・マインド」によく出てくるけど。
バウズマン監督の場合は、だから常に殺人現場に自分の分身が立ち会っている感じですよね。恐らく手を下す側として。絶対モニターで見るだけでは満足できない。その場にいて観察しているだけでも物足りない。彼の分身は恐らく実際に手を下し、血で染まる役に次々乗り移っているはずです。喜々としてね。そして次第にエスカレートする。
それがもう行き着くところまでいっちゃって、映画ではこれ以上表現できなくなったのか、それとも飽きたのかネタが尽きたのかは分かりませんが、とにかく監督はバウズマンからハックルに替わった。
すると殺人の手段までどこか変化するんですよね。
ハックル監督は覗くのが趣味なだけで、実際に自分で手を下して人を殺すのは気が進まないとみえ、「5」では機械仕掛けに頼った殺人シーンが多くなります。で、犯人はそうやって人がじわじわ死んでいくのを穴とか隙間とかそういった片目しか出ない狭い間隙から覗いているわけですよ。これは「覗く」という行為そのものが好きな証拠ですね。
おなじみ、集められた者同士の殺し合いも、これまでとは打って変わって論理的に事が運びます。
今までだと全員でぎゃーぎゃー騒いで殺すの殺さないのどうにかしろの何でオレがと揉めていたものが、今回は知性的に結論に達するので、殺人シーンも速やかです。誰かが死ななければいけないと決まったら、それがあまりに即座に実行に移されるもので、拍子抜けを通り越してかえってびっくりするぐらいです。
つまりハックル監督にはバウズマン監督と違って人を殺す事を楽しむ性向がないんです。彼の興味はあくまで「覗き」であり、その対象として「殺人」があるだけなので、自分の分身が「覗き」を行っていない殺人はぱっぱと終わらせちゃうんですね。これが「5」が「2,3,4」と決定的に違う点です。ハックル監督、自分の分身である犯人が覗いている殺人のシーンだけはねちっこく描写してるのが笑えますが。
さて、この「5」のストーリー構成のもう一つの主軸は、この犯人を追い詰める捜査官にあります。
彼はこれまでの事件の資料を集め、現場を再訪し、割り出した犯人がその場でどういう行動をとっていたかを推理していくわけですが、そこで展開される再現フィルムの如き映像も何だか他人が秘密にしていた行為をその人自身には知られる事なく見ているような形で――要するに盗み見という形で一種の「覗き」のバリエーションになってるんですよ。
この監督はとことん覗きが好きなんだと思います。
もっとも映画というもの自体、他人の行動を何から何までずっと見るという点ではその「覗き」に近いものがありますから、映画制作に携わっている人や映画ファンには多かれ少なかれその傾向はあるのでしょうが。私が「5」は「2,3,4」よりもずっとマシだと思うのにしても、「快楽殺人」よりは「覗き」の方がずっととっつきやすいからでしょう。
「SAW」は「6」も作られるはず。
今度はどんな変態趣味の映画になることやら。