「DEATH NOTE デスノート」(公式サイト)


*テレビ放送済みなので完全ネタバレです。


去年「デトロイト・メタル・シティ」を見て以来気になる存在だった松山ケンイチ君が出ているのでテレビ放送を見る気になった「デスノート」。封切り当時超話題作であったにも関わらず、これまで一向に関心の向かなかった私の予備知識は真っ白、無知も同然。どのくらい何も知らなかったかというと、この「DEATH NOTE デスノート  the Last name」が前後編の内の後編にあたるということも知らなかったぐらい。来週「L」やるから、そっちと2部作なんだと思っていたわよ。大体なんで前後編で一つの話になる作品の後編だけ放送するなんて真似すんのよ、日テレ。


ま、後編だけでも充分話の内容は理解できたんで、ひょっとしたら前編はなくてもOKなのかもしれないけどさ。


さて、もうひとつ、私がどのくらいこの作品について無知だったかを披露しますと、キャスティングからてっきり藤原竜也君がいいヒトで松山君が悪いヤツなんだと思ってました。だから映画が始まる前に松山君のライトが実はキラだという予告があった時「どっひえ~!」でしたわよ。


まあ、「月」と書いてライトと読ませる名前からして裏がある人物に決まってるぐらい気づいてよさそうなもんですけどね、関心がないというのは恐ろしいです。何にも気づかない。


さて、ライトを主人公に据えるなら、敵対するLが彼にとっての「悪いヤツ」にあたるというのは、それはそれで間違ってはいないわけです。


しかしこの作品では、ストーリーは一応ライトを主軸に据えて進むものの、存在感としてはライトとLは拮抗しているのでどちらも主人公たり得る作りになっているんですね。どちらに感情移入して映画を見るかは、見る側にかかっている。作品上でも何度も出てくるチェスのように、自分が白をとれば黒が敵、黒の側なら白が敵と、ゲームを戦うためにそう決まっているようなものです。


で、私が感情移入したのはLの方だったので、彼に敵対するライトの方が自動的に「悪いヤツ」になってしまいました。まあ、そういう図式の方が映画は見やすいので。


で、なんでLの方に感情移入したかといえば、松山君の演技が抜群に上手かったから。彼が出てくるまではがちゃがちゃしているだけの画面に一向に定まらなかったこちらの視線が、Lがセリフ喋った瞬間から一気にそこに収束していくんですよ。これはすごかった。


藤原君の演技って、ライトが自分がキラであるのを隠しつつ自然に振る舞おうとしている演技を演技で表現しなければいけない難しい役どころなんですが、「演技していることを見せる演技」がどうしても不自然になっちゃって、お前それ実生活でやってたらバレバレだろう的に「演技」が鼻についてしまう。心に秘密がある人がそれを見せまいとしてわざと大仰に振る舞う、そういう演技なんだけど、それは見る人が見ればあからさまに秘密を隠そうとしている事が伝わってしまうのよね。ってか、キラが自分で言う程頭いいんなら、そんなクサイ演技しないで自分を静かに押さえて黙ってるだろ、と思ってしまうのでございます。


それを見た後だけに松山君の一見というか一聞棒読みのように聞こえるセリフの、その中に凝縮されているものの大きさに舌を巻きましたね。あ、もう完全にLを作り上げてるんだ、って感じ。彼の最初の一言で、Lの全てが伝わってきましたもの。彼の、あの、文章の本来切るべき箇所じゃないところで切る喋り方、あれ、最高ですね。


あれは、文章が頭の中で淀みなく紡ぎ出されて来る人の喋り方です。自分が喋るべき事がすべて頭の中で整理されて文書化されている。文章がきちんと完結しているのでいちいち句点「。」があるべき箇所で文章を止めなくても内容的にそこで一つの文が終わったことが聞き手に理解できる構造になっているんです。だからブレスなしで次の文章にいって、強調したい言葉の前に来た時初めて一旦停止するんです。そうやって相手の注意を喚起して反応を読む。


松山君の演技力は優れているので、そういう文章をセリフとして喋っていても決して暗記したものを棒読みにしているようには聞こえないんです。あたかもその場その場で考えたことを瞬時に文章化して喋っているように聞こえてくる。これはスゴイですよ。


棒読みのようにきこえる感情を伴わない口調も、Lが事実を感情で歪めないために敢えてそうしていることが分かるんですね。そして彼が感情を表に出さないのは、自分の感情という要因を推理の際に含めるのが面倒だから最初から排除しているため。論理の構築のために感情を捨てるキャラって昔からいて、中でも有名なのは「スタートレック」のミスター・スポックですが、このLって彼よりもまだ感情捨ててます。ひょっとしたら生粋のバルカン人? あ、耳、とがってないや。


もっともLの感情の捨て方はバルカン的というよりむしろ仏教的で、彼の最期のシーンなど捨身飼虎さえ彷彿とさせます。Lにとって命の価値は皆平等で、死刑囚の命も自分自身の命も有効利用できると思えば容赦なく奪います。彼は「人の命を何とも思ってないのか!」等と糾弾されても一切言い訳しない。それは他人の命同様、いざとなれば自分の命も捨てる覚悟がとっくにできているからです。もちろんそんな事普通の人に言ったって理解できるわけがないので、口にはしません。その腹のくくり方が私にとってはLというキャラクターの最高の魅力でした。


Lは命を大切に思っていないわけではありません。ただ彼にとっては人の命も数量でとらえるものなので、一つの命を犠牲にして多数の命が救えるなら、迷わずその道を選ぶのが論理的だと思っているだけなのです。って、あら、この考え方はスポックそのものだわね。論理で考えると帰結するところは一緒なのか。


Lにとってはライトとの勝負は非情なゲームでした。勝つためなら自分の命を犠牲にすることも厭わない。そしてライトと違って、Lは「勝った!」と言って勝利に酔うこともない。Lにとって重要なのはこれ以上殺人の犠牲者を出さないことで、ライトとの勝負ではなかった。ゲームに勝たなければライトの殺人を止めることができなかったから、そうしたにすぎない。でも、たぶん、ゲームをやってる間中、彼は楽しかったのだと思います。文字通り全身全霊あげての知力の勝負ですから。感情の介在しない論理のみの最高のゲームを戦えて、それで彼は満足だったことでしょう(とりあえず「L」はまだ見てないんで、「デスゲーム」の作品内での話ですよ)。



さて、対するライトですが、これはもーなんちゅーか、嫌いでした(おいおいおい)。藤原竜也君一人があの映画の中で時代劇的芝居をしてたせいもありますが、こいつ何考えてんだか分かんねーんだもん。いや、それは私が映画の前編にあたる部分を見てないからなんでしょうが、それにしても「俺は新しい世界の神になる」なんて言ってる時点で頭悪いもん。Lは極めて論理的に動くから頭がいいのが手にとるように分かるのに比べて、ライトは人を出し抜くことば~っかり考えてる卑怯者にしか見えないんですけど~。


ライトは他人をとことん利用して、その力で自分がトップになるヤツで、チェスの勝負ではそれは当然でも現実世界では利用された方はたまりませんわ。でもストーリー上は彼が主役でしょ。当然彼の方に感情移入して見る観客もいるわけですよね。作品の中ではキラには崇拝者までいるわけだし。


これだと、広く一般に見せる映画としてはこのままでは通用しないです。さすがにちょいと反社会的というか、世の中の嗜好に一部(いわゆる、若い子)でしか合わないというか。


私、当然ながら原作は全然読んでいないわけですが、マンガであればこのままラストでも良かったと思います。雑誌連載なら読者対象は限られていますから、そういうラストが受けるのであれば、そうするでしょう。或いは作者が実験的なラストにしたいと思っていたなら、それもできるかもしれません。



でも映画だと、どうやらそうは問屋がおろさなかったようで。


ライトがLとの勝負に負けて銃口に囲まれた辺りから、この作品、急激に方向が変わりました。一気にねじ曲がったというのが正しい。あたしゃ見ていて「はぁ?!」と腰を浮かしましたよ。


それまでずっと居はしたけれど影の薄かったライトの父である夜神総一郎、加賀丈史だけど、彼が唐突に前面に出てきて、この映画の中で唯一正しいことを口にするんですよね。


この時点で、ストーリーの主軸が夜神総一郎にいきなり移るんです。


それまでライト或いはLの視点で見てきた物語が、急激にライトの父の視点の物語に変わってしまう。

同時にそれまで世を乱す悪しきカリスマとして君臨してきた偉大なるライトの存在感が急速に父に叱責されるバカ息子のそれにしぼんでしまうのですよ。


そんなのあり?!


今までのライト&Lの死闘って、単にライトがお父さんに認めて貰いたくてやってきたことで、しかもその結果を認めて貰えず、泣いてすがっても父の一喝を浴びるだけで終わってしまう、そんな子どものイタズラ程度のものだったの?!


愕然としましたわよ。

これって、ライト&L視点でものを書いてた人のやる事じゃないです。この視点に立てば、父は単なる邪魔者でしかないはずなんですよ。最大、主人公が通過儀礼として父殺しの大罪を犯す、その偉大なる、しかし死すべき存在としての父としてしか出番はないはずなんだ。実際、その視点上のライトは冷酷な表情で眉一つ動かすことなくデスノートに己の父の名を書き込んだじゃないですか。



それがあなた、最後の最後に父に見捨てられたからと見苦しく騒いで、死に神に向かって命乞いを繰り返した挙げ句、「父さんの理想を実現したかったんだ」とか言って息ひきとりますか? ありえないでしょ。完全にライトの性格もストーリーも破綻してますわよ。



と・こ・ろ・が、この映画の最大の見せ場って、実はここからだったんですよね。

書き手の視点がライトから父、つーか面倒だから加賀丈史、彼に移った瞬間からそれまでチェスの駒のようにルールに従って動くだけだったキャラクターが血肉を得て人間に変わったんですわ。藤原君の演技の神髄はライトが見苦しく騒ぐこの部分で全部発揮されたですね。でも、この時点で可哀想に彼は脇役なんです。


クライマックスで突然この映画の主役は加賀丈史になるんですよ。

彼は法の執行官としてその理を説き、聞き分けのない息子を諫め、非のある息子の行動を決して容認しない巌の意志を持ち、けれども惜しみない愛をもその息子に最後まで注ぐ偉大なる父の中の父として突然降臨するんです。


ありえねーだろ。そんなに立派な父親なら、最初に息子の教育ちゃんとしとけって話ですが、しかし映画としてはここで加賀丈史がライトを断罪するから成立するという側面が確かにあるんですわ。ここでのライトは「悪い奴」なので、それは作品の中で絶対誰かにはっきりそういって貰いその上で罪の報いを受けなきゃならないんです。


その手段というか方便として、そもそもはライトが捜査に加わるための布石として父親が警察機構のおえらいさんという設定だったものを、ここで最大限生かしたんでしょうね。


実際、ストーリー展開が破綻し、視点がねじまげられたとしても、加賀丈史のセリフって、聞いてていちいち気持ちがいいんですよ。ライト&Lを見てる間にたまったもやもやした気分が一掃される心地よさですね。ということはやっぱり、最終的に主役は加賀丈史だったという事になります。



これはまあ、若い子向けに書かれた原作読んでもやもやした思いがいっぱいたまった脚本家や監督がそれを払拭するためにも書いた部分なのでしょうねー。世の中を、父親を、なめるな! という思いで。だからこそこの後編は若い子だけでなく恐らくその父親世代にも受けたのではないでしょうか。


あの孤高さがかっこ良かったLも最後に加賀丈史に「あなたは立派なお父さんだ」だの「僕は父親を知らないんです」だのとヨイショしてるし、とってつけたようなエピローグなんかただ加賀丈史って重要な役だったんだよ、と改めて観客に教えておくだけのものだし。無理矢理映画として成立させました感が濃厚でございます。



それでも、途中からご飯食べるのも忘れて映画に見入ってしまったぐらいおもしろかったです、「デスノート」。

見る切っ掛けをくれた松山ケンイチ君、ありがとう!