【すんも賞を狙え!!】冬の1番好きなトコロ
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私は冬生まれの北海道育ちなので、心に残っている原風景が雪景色なんです。
恐らく、生まれてから最初に窓越しに見た光景が、白い雪に覆われたものだったんでしょう。


子どもの頃から、四季の中で見るどんな花よりも積もったばかりの真っ白な新雪を美しいと思っていました。


降りしきる雪を暖かい家の中から見るのも好きでしたし、晴れ渡った冬の青い空に白い地面から黒い幹を伸ばし葉を落とした枝の美しいフォルムを見せる木々も好きでした。地面は白いまま暗くなった夜空に星が瞬くのを見るのも好きだったし、気象条件次第で大きな結晶の形のまま落ちてきてコートの上で溶けもしない雪のひとひらも好きでした。


でも一番好きだったのは冬の朝。
前日に積もった雪が世界を一変させていた時です。
地面にあった醜いもの全てを白い雪が覆い隠し、乱反射する朝日が眩しく輝いて昨日までとはまるで別世界のように姿を変えていても、そこはあくまでも現実の世界なんですよ。自分が長靴で一歩を踏み出せば、そこにしっかりと靴底の跡がつく本物の世界。


現実で本物で昨日の延長なのに、今日は同じ世界が夢のように美しい。


これが雪の持つマジック。
子ども時代の私を虜にした雪の魅力。
綿のように柔らかく見えるけど、柔らかくはなく、埋もれていれば人に死をもたらす冷たい雪。
美そのもののように、残酷で気紛れな存在。


雪の美しさは私にとっては故郷そのもので、だから他の地方で雪を見ても、それは私の愛した雪とは別物。ふと懐かしく故郷を思い出すよすがにはなっても、雪が降ったその場所を故郷同様に愛せるわけではない。


故郷を離れた私には、その美しい冬の朝はもう二度と見られないものだと思っていました。




でも違ったんです。




2007年に国立新美術館でモネの大回顧展をやった時のことです。


モネはそんなに好きな画家というわけではないけれど、これだけの作品を一カ所で見られるチャンスというのは他にはないだろうと思って足を延ばしてみたんです。

「大回顧展」というだけあって、長命だったモネの作品を黎明期から晩年まで見て行くわけですが、モネ自身の変化がそこに現れているのが何よりおもしろかったです。最初は人間の肖像画を描いていたのが、風景の中に立つ人物像になり、それが段々遠くなって「人」の個性としての「顔」を失い風景に埋没していき、遂には人間のいない風景だけになっていくんですよね。

この人は、綺麗な風景が好きで好きで、その美しい一瞬を自分のものにするために猛スピードで絵を描いていったんだな、と思いました。今ならデジカメで誰でもできることですが、当時はこうして絵に描くしかなかったわけで、子どものように情熱のほとばしるまま自分の好きな風景を画布に残していったのでしょう。





モネは美しいものが好きだった。

彼が美しいと感じたのは光そのもので、その光をキャンバスに閉じこめるためにありとあらゆることを試した。――油絵の具という不透明で質量のあるものを使い、そしてそれをやってのけたのです。

その一番の傑作が「かささぎ」でしょう。
それは夜中に雪が降り積もった冬の日の晴天の朝の情景を描いた作品です。
私はそんな朝の空気のすがすがしさと眩しさを今でも覚えていました。それがそのまま、その絵の中にあったのです。その白い輝きは、雪の照り返しそのもの。つい目を細めてしまう程のまばゆさが絵から伝わってきます。それは降り積もったばかりで誰にも荒らされていないバージンスノーに昇ったばかりの朝日が照り映えているひととき、その場にいて感じるのと全く同じ光でした。

それは写真なんかでは再現できない光です。写真では一瞬のきらめきしかおさめられません。でも、モネの絵にある光はもっと長い。その美しさに人が息を呑み、その後しばらくその場に立ちつくして光を身体で感じ喜びを全身にゆきわたらせるだけの時間。それだけの時間感覚が「かささぎ」にはありました……。

雪を描いた作品は他にも数点ありましたが、朝日のきらめきを宿していたのは「かささぎ」だけです。他の作品はもう溶けかけた雪を描いたものなんですよね。それはもう輝き方が全然違うからわかるんです。

本物の作品を見ることの喜びはここにあります。
「かささぎ」を画集やポストカードや、或いはガラスケースの中で見たのでは、この朝日のあたる雪の反射光の美しさは絶対にわかりません。何故ならそこに光が反射してあたかも雪の日の朝の如く見えるように演出しているのは、絵の具の色ではなくてその盛り上がりだからです。3次元でなければ意味がないんです。

一度本物を見てしまうと、複製や写真では物足りなくなります。画家の個性が持つ筆の勢いは本物を見ることによってしかわからないからです。絵は2次元だと思われがちですが、平面に描かれていても3次元に存在している立体に他なりません。立体は立体として味わってこそ真価がわかるものでしょう。




私は「かささぎ」の前に長く立ち止まり、故郷の朝の光を思い出していました。生まれ故郷のどんな写真を見るよりも、私の心にある原風景がここにあったのです。雪に照り映える朝日の光。そのまばゆさ。全てを美しく見せるマジックのみなもと。私の愛した故郷と同じ風景が、この小さなキャンバスの中に広がっている……。



人前でなければ手放しで泣き出したくなる程の懐かしさに包まれて、私はその場に立っていました。



幸い他の多の人達は「睡蓮」のシリーズが好きなようで、雪景色の「かささぎ」の前はそんなに混んでいなかったのであまり邪魔にならずに済みました。


私にとって「モネのこの一枚」は「かささぎ」になりましたが、しかし日本人の多くが「睡蓮」を好む理由もわかります。
「睡蓮」は決して睡蓮の花だけを描いたものではなく、睡蓮の花がある水面の光のたゆたいを描いたものだからです。それは水を張った田にきらめく優しい陽の光を思い起こさせます。田んぼの水面にゆらゆらと反射する日の光の美しさを原風景として心に持つ人は、まだまだ日本にたくさんいるのでしょう。モネが描くと水面の光の変化でそこに吹いている風の具合まで感じとれるような気がするのです。


晩年のモネは目が悪くなっていたのでしょう、形をはっきりと捉えることができなくなっているようでした。それでも尚、描き続けずにはいられない……キャンバスに色を叩きつけたような鬼気迫る絵。よく目が見えない人が見たら、恐らく美しいであろう絵。普通の視力では理解できない絵。そこには絵を描くために生まれた人の生涯が刻まれていました。


画家が生涯をかけて描いた作品だからこそ、見るものも自分の人生を振り返り、原風景を思い出し、懐かしさに涙するのでしょうか?


モネが冬の朝を描いた作品は「かささぎ」ぐらいしか展示されていませんでしたが、それでも私にとっては一番心に残る絵となりました。

どうして彼がもっと雪の絵を描いてくれなかったんだろうと思いましたが……それはたぶん、寒かったからでしょうね。若い内ならともかく、歳を取ったら雪の中で絵を描くのは寒くてやりきれないでしょうし、ヘタしたら命にかかわるでしょうから。今のように防寒着が完璧に寒さを防いでくれる時代ではありませんでしたから。「かささぎ」一枚でも描けたのは、モネの情熱が熱くたぎっていたおかげなのでしょう。案外命がけだったかも……。


北海道の冬の寒さ……それは容易に人の命を奪います。
だからこそ、朝の光の美しさが際だつのです。
また、今日も生きて新しい日を迎えることができたという証ですから。