* テレビ鑑賞につき完全ネタバレです。
しかし松山君って演技上手いな、と(←こればっかり)。
「人のセックスを笑うな」を見た時 にも思ったことだが、松山君一人がいるだけでその映画にリアリティーが生じるのである。だから他の登場人物達が少々――いや、かなり変でも、それなりに作品として成立してしまう。松ケン効果、恐るべし。
「L」も「デスノート」 もコミック原作なので、出てくるキャラクターもそれなりのものである。
コミックのキャラクターというものは、おおむね、各自決められた役回りを果たすために作者によって創造されただけの存在だ。彼らには回想シーンはあっても過去はない。登場するシーン以外に、彼ら自身の人生はないのである。
だから俳優達がそのキャラクターをコミック通りに演じると、人間のドラマが漫画の様にしか見えなくなる。人にはそれぞれ過去に自分が生きてきた軌跡があり、その経験を元に現在の自分というものがあるはずなのに、コミックを実写化した作品を演じる日本の俳優達からはそのキャラクターを人としてそこに存在させるだけの過去の積み重ねを感じられない事が多いのだ。ま、それは日本の観客や視聴者がそれを求めてないからという部分も大いに影響しているわけだが。
だが松山ケンイチは違う。
彼が演じたLは、いかにもコミック的なキャラで、こんな人間普通はいねーよ(Lは普通じゃないけど)と言いたくなるような存在である。それにも関わらず「デスノート」の中でLただ一人が過去を備えた人間として息づいているのだ。
それは決して語られることのない過去である。
何故ならばL自身がその話は口にしないと決めているから。
捜査と推理に私情は持ち込まない。だから感情は喚起させない。そのために自分の過去を封じ込め、その内面を決して他人には見せないと決心した男――それがLなのだ。
松山ケンイチはセリフを口にしなくても、たたずまいだけでそれを伝えてくる。
いかにもマンガっぽいセリフでさえ、彼の口を通すと生きた言葉に聞こえてくる。
そうするとここに奇妙な錯覚が生じる。
この映画の中で一番現実離れした如何にもマンガ的なキャラクターが最も現実性を備えている登場人物ならば、他のステレオタイプに描かれたキャラクター達だってきっと現実味を帯びた存在なんだろうと、観客が頭の中でな何となくそう思い込んでしまうのである。
実際にはかなり「あり得ない」登場人物ばっかりなのだが、その紙っぺらみたいに薄い人形(ひとがた)に松山ケンイチという存在が息吹を吹き込むのだ。
すると映画に出ている人間達が彼を中心にまとまり、一つの世界を形成するようになる。
「デスノート」ではストーリーの性格上、伏線であったり説明であったりするセリフが多く、それを強調するため演技がクサくなりがちで、しかもその芝居が俳優ごとに違ってかなりバラツキがあるため、見ている間に結構気が散ってしまうのだが、松山ケンイチのLが現れた瞬間にリアリティーが生じるので再び気持ちが一点に集中する。
そうやって要所要所で巧にLを登場させることで金子監督はこの映画を上手くまとめあげたのだと思う。
最後は妙な具合にねじれたものの、鑑賞後に思うのは「デスノート」は全体としてはよくまとまった面白い作品だったということ。
だから当然「デスノート」のスピンオフである「L change the WorLd」にも同様の面白さを期待したのだが、これがまるで違う映画だった。監督が違うのだから当然といえば当然なのだが、いやしかし、それでもここまで違うとは。
そう、例えコミックから抜け出たままだとしても、映画「デスノート」の登場人物達はまだ普通だった。
これが「L change the WorLd」になると、出てくる人達、皆普通じゃないのである。
何が違うって、その反応が。
「デスノート」に比べ「L」はメインとなる登場人物が少ないせいか、役者達は芝居巧者が揃っているである。演技も統一されていて、「デスノート」のように俳優によってバラバラという事はない。一人浮いた存在である南原清隆は他の俳優達の演技の間に割り込まない様前もって巧妙に排除されているので、彼だけが悪目立ちするというシーンもない。
それなのに、それら上手な役者の演じる登場人物達が突発的な事態に遭遇した時、その反応の仕方が普通一般の観客である私が通常予期するものと違っている。彼らのとる行動が突出しすぎていて不自然なのだ。
「人のセックスを笑うな」では、キャラクターの描き方自体が風船みたいに空虚だったためトータルな人間像を結べず、そのため映画を見ていてもあり得ない話に思えたのだが、「L」の場合は登場人物が普通の人間に見えるのにもかかわらず、ここぞという時の反応が普通じゃないため異様な印象を受けてしまうのだ。
それまでごく普通の人に見えていたキャラが、何かの切っ掛けで豹変するというのともちょっと違う。地震計の針が大地震が起こった瞬間に振り切れるように、「L」の登場人物はある刺激を受けると唐突に極端な行動に走るのである。思い掛けない突飛な行動をとるのではなく、人間の反応として予測できる範疇に留まりつつ、しかしそのキャラの普段の言動からはおよそ推測できないレベルでの行動をごく当然のような顔でこなし始めるのだ。
例えて言えば、お嬢様育ちを自称するうら若き女性が山海の珍味が並んでいるのを前にした時、頭の後ろにもう一個口が開いて髪の毛で食べ物をつかんでそこに放り込んだとしたらそれは「人間の反応として予測できない範疇」だが、そのお嬢様が手掴みでガツガツ頬張った挙げ句に最後に皿までなめたとなればそれは「普段の言動からは推測できない行動」になるといった感じだろうか。
「そこまでするか……」と見ている者が気を呑まれるような言動が突発的に繰り返される――その異様さが「L change the WorLd」の特徴である。
そしてこの「見ている者」が実は観客だけではないのが「L」のもう一つの特徴である不自然さを醸し出しているのだ。
「L change the WorLd」においてはL以外のほとんど全ての登場人物が、自分が行動していない時はただその場で起きていることを見ているだけの存在=「見ている者」なのである。
もちろん作劇上、その場につったって人が死んで行くのをただ見ているだけの人々にはそうせざるを得ないという状況がちゃんと用意されている。
声を出せば自分も殺されるから黙って見ているしかないとか、何とかしたくても隔離施設の内部のできごとだから手の出しようがないとか、それぞれ尤もらしい言い訳はあるのだ。
だが、隔離施設の中で人が凄惨な状況で死んで行くのを見守っている人々の様子がやっぱり変なのである。ここでの彼らは突出して――何もしない。魅せられ、憑かれたように、人が死んでいく様を、ただ見ている。悲鳴も上げなければ、目を覆ったりもせず、かといって涙ながらに死の様を見守って遺言を聞き届けようというのでもなく、もちろん何も出来ないことが分かっていても何とかしようと奔走したり、システムや施設そのものを破壊しようともしないのだ。
彼らはただそこに立ち会い、一部始終を見守っているだけ。事件が起きればそこに集まり、見物し、事件が終われば何ごともなかったように立ち去って行く群衆と同じなのである。
これは、映画のメインキャストの行動としては、甚だ不自然なものだ。
また群衆の扱い方としても、この手のパニック映画としては異常といえる。パニック映画の群衆ならば人一倍元気よく叫びながら逃げ惑って貰わないと、こっちも感情移入できないではないか。
「L」には映画の群衆らしい群衆は他にいて、ちゃんとそれなりの働きをしている。
それだけに、これらの「何もせずに見るだけ。所によりキレる」メインキャスト――主として悪役だが――非常に不自然に私の目には映った。その異様さを監督が狙ったのであれば、それは間違いなく成功している。映画の中で効果的だったかどうかというのはまた別問題だが。
「デスノート」ではキラ=ライトも含めた全ての登場人物が松山君のLの持つ求心力に惹かれて集まり、彼と話すことでリアリティーを得てはまた各自の世界へ戻ってゆくという形でストーリーがまとまっていた。
「L change the WorLd」では悪役達がLと接触する機会は最後の方にしかないが、彼らは不自然さを別にすれば案外リアリティーのある存在なので、ストーリーは彼らだけでも進める事ができる。
では「L change the WorLd」でのLの役割は何なのか。
彼は、一人だけ、生きている者だった。
ただ人の死を見ているだけの群衆のようなメインキャストの中で、彼一人が他人を死の手から逃すべく奮闘していた――自分自身の免れられぬ死を目前にしながら。
Lは常に考え、行動し、人の命を一つでも多く救う方法を模索していたのである。幼い子ども達の面倒を見るという慣れない仕事に手を染めながら。そのせいかLのキャラクター自体が「デスノート」の時より少々柔らかく女性的な印象となっている。
自分の命の残りの秒数を数えながら、それでも最後の瞬間の自分の命の最後のひとしずくまで生き抜く。
彼の強烈な生きる意志が、最後には悪役達の不自然ささえも打ち壊してただの人間に戻したようにも見えた。
それはまるで、リビドーがタナトスに打ち勝った瞬間のようでもある。
彼の強烈な生きる意志が、最後には悪役達の不自然ささえも打ち壊してただの人間に戻したようにも見えた。
それはまるで、リビドーがタナトスに打ち勝った瞬間のようでもある。
「死」に惹かれるな、生きろ。
それが世を去るLの彼らに伝えたかった事ではないのだろうか
だとしたら何とも美しいラストである。
そのラストがあれば、物語の展開のあらさやキャラの不自然さなどには目をつぶってもいいかという気にな
「L change the WorLd」のLは、死の世界において彼に触れた者に生をもたらす神だった。
「デスノート」シリーズの成功は松山ケンイチを起用した時点で、たぶん決まっていたのである。