「ジャンパー」の原作は映画とはまるで違う。

かっこいいサミュエル・L・ジャクソンの所属していたパラディンなんて組織は出てこない。

だからもちろん、デヴィッドの母親がパラディンで、それが理由で家を出たなんて話も出てこない。


そこで語られているのはごく普通の……DV家庭である。母親は父親の暴力が元で家を出たのだ。


映画では、デヴィッドの父親は本当は彼を愛していたことになっていた。

妻(デヴィッドの母)が黙って家を出たショックに耐えられず偏屈になって、見れば妻を思い出す息子をもうとましく思うようになりはしたが、息子が家を出たことで自らの行為を反省し、できれば息子と仲直りしてもう一度一緒に暮らしたいとさえ願っている父親がそこには描かれていた。


原作にはそんな描写は一切ない。


デヴィッドの父親は強圧的で支配欲の強い、夫としても父親としてもかなり最低レベルに近い男として描かれている。そこには父親の側の論理を同情的に語る筆致はない。


「ジャンプ」を覚えたデヴィッドはそんな父親の元からさっさと離れはするものの、しかし自分の中にある父親像からはなかなか逃れることができないでいる。


「デクスター ~警察官は殺人鬼~」のデクスターは、自分が市民生活に溶け込むための疑似人格を養父から学んだため、常に自分の中にスーパーエゴとしての養父の存在を感じてそれに悩まされているのだが(関連記事 )、「ジャンパー」原作のデヴィッドも似たような状況といえるだろう。ただしデクスターが与えられ、それによって心を縛られたのは愛だったが、デヴィッドが受けたのは暴力であり、その恐怖によって彼の心はがんじがらめになっているのだ。


デヴィッドが何か一つ新しい行動をしようとするたびに、彼の心に棲み着いている父親は悪霊のように彼の側に立ち現れてはデヴィッドを悩ます。


父の様な男にだけはなるまいとデヴィッドは固く決心しているのだが、それはある意味彼の取るべき行動の選択肢の幅を非常に狭めているともいえるのだ。


まあ、デヴィッドの父親はロクな人間ではなかったから、その彼と同じ振る舞いを避けることは多くの場面でデヴィッドに「良い人間」になるための選択肢を選ばせる結果にはつながるのだが。


しかし、デヴィッドが何気なく、或いは深い思慮のないまま取った行動が後から考えると如何にも自分の父親の取りそうな行動だった時、デヴィッドは果てしない自己嫌悪に陥るのだ――自分に父親の血が流れていることに、いやでも気づかされて。



原作の小説は、丹念に丹念にそんなデヴィッドの様子を書き連ねている。映画のように派手なアクションはほとんどなくて、デヴィッドの心理描写と成長の過程がこの作品のメインなのだ。



それは思春期に特有な、少年のものの考え方に過ぎないのだろうか?


そんなことはないと思う。


この小説の作者、スティーヴン・グールドは、恐らく自分自身の少年時代の心理を追体験しながら作品を書いたのだろうが、大人になってまで彼がそれを書かすにはいられないのは、恐らく大人になってもグールド氏自身が自分の父親の影から逃れられていないからなのだ。



自分の中にいる父親を葬り去るその日まで、息子と父親の戦いは続く。



私にとって本当におもしろかったのは、実はこの原作の方だったのである。