ブログネタ:熱血と聞いて思い浮かべるのは? 参加中
辞書によると
ねっ‐けつ【熱血】
>熱い血潮。また、血がわきたつような激しい情熱。熱烈な意気込み。「―を注ぐ」
ねっけつ‐かん【熱血漢】
>感動しやすく熱烈な意気と情熱をもって事に当たる男子。熱血男児。
何ごとに対しても熱烈な意気込みと情熱をもって事に当たる男子は、私は好きですけどね。そうじゃなければ何ごともなしえないと思うし。
情熱っていうのはなにも梶原一輝原作マンガみたいに
「俺は今猛烈に感動している!」
と言いながら両目から滝のような涙を流して親友と抱きあったりする必要はないのであって、物事に取り組むときに進んで、積極的に、熱心であれば、はたから見ればそれが情熱的だ、熱血だという評価を得るものなんじゃないですかね。
スポーツであれば人一倍汗をかいてればそれが熱血の証拠だと思われる場合もあるでしょうが、汗をかく量って個人差があってさ、同じだけ走っても普通の人に比べて全然汗をかかない人もいれば二倍ぐらいかいちゃう人もいるわけで、そういう場合走った距離は一緒でも人の二倍汗かく人は「熱血」と言われるけれど、汗をかかなかった人は「クール」と言われたりする。まるで走り方に差があったかのように
それは単に体質の差であって情熱の差ではないんだけど。
でもそんなの、見てるだけの人には分かりはしない。
実際に一緒に走った人でなければ、その苦しさは分からないのだから。
人の情熱の深さ、熱血の度合いなんて、その人の表面を見ただけではかれるものではないのです。
「消されたヘッドライン」の主役、カル・マカフリーも最初に登場したシーンを見ただけでは彼が情熱を秘めているなんて分からない。
毎日決まったようなネタを追い、馴染みの警官と謎かけのような取材をしては事件に首を突っ込み、職場で若い女の子が仕事上の頼みを持ちかければ適当にあしらって追い払うような、くたびれた中年のおっさん記者にしか見えないのである。
それはラッセル・クロウの役作りが上手で、いかにも運動不足で太ったような体と中途半端に伸びた髪で、カルの普段の生活ぶりと自分自身をいい男とは思っていないという微妙な劣等感を醸し出しているのと、そのカルが着ている衣装のヨレ具合がぴったりマッチしていることが大きい。
映画の冒頭のカルは、ルーティンワークに飽き飽きしている給料泥棒の記者のようにしか見えないのだが、それが特ダネの匂いを嗅ぎつけた途端、敏腕記者に変身する。
目つきが鋭くなり、顔もぐっと引き締まる。体型が変わるわけではないけれど、動作の一つ一つがキビキビしだすと、体全体の印象まで変わって見えてくる。
物語が進むにつれて明らかになるのだが、カルにどこか投げやりな雰囲気が漂っていたのは仕事ではなく私生活上のトラブルが原因であり、そのトラウマが仕事にも微妙に暗い影を落としていたのだ。
またPCの普及に伴ってウェブ上での記事の需要が高まるのに対し、肝心な新聞の発行部数が減少している現状もカルにとってはおもしろくないことであった。
しかし特ダネの取材に深く取り組む内、カルの表面に手垢のように累積していた不満はどんどんこそぎ落とされて、元の姿が露わになってくるにつれ彼は本来の輝きを取り戻していく。
それは生粋の記者魂。
事件を追い、真実を追究するために全てかける情熱である。
それが再び身の内に宿っている事にカルが自分で気づいた瞬間、空気の色が変わる。
――いや別にスクリーン上の色が変わる訳じゃないんだけど、カルから全ての雑念が払われてすーっと透明になっていくような感じをラッセル・クロウから受けるわけですな。
記者魂は熱く燃えているけれど、彼の精神は限りなく冷静になり、スクープを挙げるというよりも良い記事を書くという方向に研ぎ澄まされ、純化していくのが見えるのである。
テレビ版の「ステート・オブ・プレイ」と映画の「消されたヘッドライン」のカルが全く違う人物になっているのはこの部分で、テレビのカルは記者魂を貫くために自分の人間らしさを殺すことに耐えきれず泣きじゃくりながら最後の記事を編集長に渡していたけれど、映画のカル(ラッセル)は終止冷静に最後まで自分を保ち続ける。ラッセルのカルは自分自身の感情よりも自分の書く記事の方こそ重要だと思い切ったのだ。
表面に出して泣いたり騒いだりする感情表現はわかりやすいが、時に安っぽくも見える(テレビのカルはそんなことなかったけれど)。
深く静かに心の底で決意する熱血。
それを最高に上手く表現するのに、ラッセル・クロウ以上に素晴らしい俳優はいないだろう。
その彼の静かな熱血ぶりを見ることができるのが「消されたヘッドライン」なのである。
本文はここから
辞書によると
ねっ‐けつ【熱血】
>熱い血潮。また、血がわきたつような激しい情熱。熱烈な意気込み。「―を注ぐ」
ねっけつ‐かん【熱血漢】
>感動しやすく熱烈な意気と情熱をもって事に当たる男子。熱血男児。
何ごとに対しても熱烈な意気込みと情熱をもって事に当たる男子は、私は好きですけどね。そうじゃなければ何ごともなしえないと思うし。
情熱っていうのはなにも梶原一輝原作マンガみたいに
「俺は今猛烈に感動している!」
と言いながら両目から滝のような涙を流して親友と抱きあったりする必要はないのであって、物事に取り組むときに進んで、積極的に、熱心であれば、はたから見ればそれが情熱的だ、熱血だという評価を得るものなんじゃないですかね。
スポーツであれば人一倍汗をかいてればそれが熱血の証拠だと思われる場合もあるでしょうが、汗をかく量って個人差があってさ、同じだけ走っても普通の人に比べて全然汗をかかない人もいれば二倍ぐらいかいちゃう人もいるわけで、そういう場合走った距離は一緒でも人の二倍汗かく人は「熱血」と言われるけれど、汗をかかなかった人は「クール」と言われたりする。まるで走り方に差があったかのように
それは単に体質の差であって情熱の差ではないんだけど。
でもそんなの、見てるだけの人には分かりはしない。
実際に一緒に走った人でなければ、その苦しさは分からないのだから。
人の情熱の深さ、熱血の度合いなんて、その人の表面を見ただけではかれるものではないのです。
「消されたヘッドライン」の主役、カル・マカフリーも最初に登場したシーンを見ただけでは彼が情熱を秘めているなんて分からない。
毎日決まったようなネタを追い、馴染みの警官と謎かけのような取材をしては事件に首を突っ込み、職場で若い女の子が仕事上の頼みを持ちかければ適当にあしらって追い払うような、くたびれた中年のおっさん記者にしか見えないのである。
それはラッセル・クロウの役作りが上手で、いかにも運動不足で太ったような体と中途半端に伸びた髪で、カルの普段の生活ぶりと自分自身をいい男とは思っていないという微妙な劣等感を醸し出しているのと、そのカルが着ている衣装のヨレ具合がぴったりマッチしていることが大きい。
映画の冒頭のカルは、ルーティンワークに飽き飽きしている給料泥棒の記者のようにしか見えないのだが、それが特ダネの匂いを嗅ぎつけた途端、敏腕記者に変身する。
目つきが鋭くなり、顔もぐっと引き締まる。体型が変わるわけではないけれど、動作の一つ一つがキビキビしだすと、体全体の印象まで変わって見えてくる。
物語が進むにつれて明らかになるのだが、カルにどこか投げやりな雰囲気が漂っていたのは仕事ではなく私生活上のトラブルが原因であり、そのトラウマが仕事にも微妙に暗い影を落としていたのだ。
またPCの普及に伴ってウェブ上での記事の需要が高まるのに対し、肝心な新聞の発行部数が減少している現状もカルにとってはおもしろくないことであった。
しかし特ダネの取材に深く取り組む内、カルの表面に手垢のように累積していた不満はどんどんこそぎ落とされて、元の姿が露わになってくるにつれ彼は本来の輝きを取り戻していく。
それは生粋の記者魂。
事件を追い、真実を追究するために全てかける情熱である。
それが再び身の内に宿っている事にカルが自分で気づいた瞬間、空気の色が変わる。
――いや別にスクリーン上の色が変わる訳じゃないんだけど、カルから全ての雑念が払われてすーっと透明になっていくような感じをラッセル・クロウから受けるわけですな。
記者魂は熱く燃えているけれど、彼の精神は限りなく冷静になり、スクープを挙げるというよりも良い記事を書くという方向に研ぎ澄まされ、純化していくのが見えるのである。
テレビ版の「ステート・オブ・プレイ」と映画の「消されたヘッドライン」のカルが全く違う人物になっているのはこの部分で、テレビのカルは記者魂を貫くために自分の人間らしさを殺すことに耐えきれず泣きじゃくりながら最後の記事を編集長に渡していたけれど、映画のカル(ラッセル)は終止冷静に最後まで自分を保ち続ける。ラッセルのカルは自分自身の感情よりも自分の書く記事の方こそ重要だと思い切ったのだ。
表面に出して泣いたり騒いだりする感情表現はわかりやすいが、時に安っぽくも見える(テレビのカルはそんなことなかったけれど)。
深く静かに心の底で決意する熱血。
それを最高に上手く表現するのに、ラッセル・クロウ以上に素晴らしい俳優はいないだろう。
その彼の静かな熱血ぶりを見ることができるのが「消されたヘッドライン」なのである。