最初にお断りしておきますが、私この映画見るつもりなかったんです。
試写会で当たったら見ようと思ってて、見事当選したものの当日別の試写会と重なったら「GOEMON」の方をアッサリ捨てたぐらいでして……。
それがどうして初日に行ったかといえば、佐藤健君が出てるから。
はい、映画スターの存在というのは偉大なものでございます。
健君はよかったです。
あのゴテゴテとケバケバしい映像の中で、健君だけが自然で美しかった。
「GOEMON」の健君は一種独特の、端正な面差しは少年であることははっきり示しているのにどこか少女と見まごうような静謐さを湛え、強靱さと脆弱さが不思議なバランスで混じり合ったまるで両性具有のヘルマプロディトスの如き美貌で一人異彩を放っていました。
ってゆーか、他のキャラクターが全員異彩を放っていたから健君の普通さが逆に異彩に見えたと申しましょうか。健君一人だけが普通なんですよね。わざわざ目立とうしないから返って目立つんです。
色とりどりの照明がミラーボールで散らされる大音響のダンスフロアから抜け出て静かな洗面所かどこかに入ったら、そこの静けさと白い蛍光灯の素朴な明かりにふと心が安らぐでしょ、そんな感じ。
ほんのひととき安らぎを与えてくれるシーンの中で、健君の存在感と演技の上手さは光ってました。
彼、主役の五右衛門じゃなくて、その友人の霧隠れ才蔵の少年時代なのに、五右衛門の少年時代よりずっと目立ってた。本当は目立っちゃいけないだろうに、健君の美貌と演技力に監督が負けたんだな。彼だけは自然光で撮ってもいいと思ったかもしれないわ。背景はグリーンバックだっただろうけど。
そう、この映画を見ていて感じるのは、この監督がとことん自然光を嫌っていること。ほとんど人工照明ですよ。そりゃ撮影には光量が必要だけどさ、これじゃ見ててつらいわ、実写映画なんだから。
でも監督がこの映画でやりたかったのは、どうやら実写映画から出来る限り実写っぽさを排除することだったみたいなのね。
そしてそれには見事成功して、だから「GOEMON」は実写映画なのに実写を見ている気がしない。まるで人間を素材に使って撮ったアニメーション作品のよう。
同じアジア人の髪の「黒」が「レッドクリフ」の「黒」とまるで違う。
「レッドクリフ」の自然の中に溶け込むように美しかった黒髪の色が「GOEMON」ではぎらぎらと反射光を放つメタリックな「黒」になっている。衣装もすべて反射光で金銀のみならず赤までぎらぎらと観客の目を射るのだわ。
そんなに反射されると、まるで暗闇の中にサーチライトをあてて撮影したように見えるのよね。
どこまでも人工的な光、人工的な映像で、そこに生きた人間の姿は見当たらない(唯一の例外が健君)。
紀里谷監督の前作は、アニメの実写映画化の「キャシャーン」だったけれど、なまじ「アニメの実写化」という枠にとらわれたせいで人間を人間らしく撮ろうとして失敗したのだろう。
だから今回は脚本から自分で書き最初から「実写映画」を撮ることで、生身の人間を素材として使った「アニメーション」を撮り、それを成功させたのだ。
それに何の価値があるのか、私には分からない。
ただ、誰もやったことがないことをやり遂げたという満足感は監督にはあるだろう。
「GOEMON」を見た観客がそれをどう受けとめるか、それはまた別の話である。