少し前の自分の記事に「GOEMON」――実写で作ったアニメ映画―― というのを書いたけれど、そこでは何故「GOEMON」がアニメのように見えるかには触れていなかった。
それはもちろん、映画の全てにおいて人工的というか作り物っぽいというイメージが手伝ってはいるのだが、しかしそれならウォシャウスキー兄弟の「スピードレーサー」の方が「GOEMON」よりもさらにアニメ的と言えるだろう。
しかし私は「スピードレーサー」を見て実写をアニメ化したとは思わなかった。いやもちろん、あの映画はそもそもアニメ作品を実写化したものなんだからその逆には思わないわけだけれども。
「スピードレーサー」は色彩とデザインを単純化させたように見せることで「絵」としてのアニメらしさは醸し出していたが、しかしあの動きは完全に3次元のものだ。
公式サイト の予告編の最初の方で少年時代のスピード君が車の絵を鉛筆で落書きしているが、映画のオープニングではその線が動き出し、彼を取り囲んで立体の車を形作るのだ! フロントグラスを描いていた線が立ち上がって曲がり込み、そしてその線があたかも透明な車のフロントグラスの上をなぞったかのように動いた時、私はこれがアニメの実写化だ! と心の底から感激したものである。
その時線は、平面上からワープして立体となったのだ!
2次元に縛られていた物が解放され、3次元に解き放たれるその開放感!!
その開放感を味わった者は、「スピードレーサー」の世界で自由自在にレースを楽しむことができる。まるで宇宙空間にいるように、地面という平面に限定されず空間を思う存分に使ったレースを!
それがウォシャウスキー兄弟の狙った前代未聞の映像だったのだろうし、「スピードレーサー」はそれを成功させた作品だったのだ。残念ながら興行成績は惨敗だったが。新しすぎるものというのは、えてしてそういう結果に終わる。
この「スピードレーサー」とは全く逆の事をやったのが「GOEMON」なのである。
つまり、こっちは3次元を2次元に詰め直した作品ということになる。
残念ながら3次元を2次元に詰め直す行為そのものはこれが初めてではない。
紀里谷監督に先立つこと100年程前にマルセル・デュシャンがいわゆる「大ガラス」(参考ページ )でやろうとしたことがそれだ。この作品に関しては諸説があって、真偽は作者本人にしか分からないだろうが、私の目に映る「大ガラス」は、デュシャンが自分の目に映った3次元の光景をそのまま、「目に映った映像通りに」2次元に限りなく近い物体で再現したものだろう。或いはその光景はデュシャンの頭の中にしかなかったものかもしれないが。
「大ガラス」を白黒の写真で見るとよくわかる。
あれは、写真からその場の立体図を再現するクセのあるものにとっては、3次元でできているように見えるのだ。私なんかあれはずっと立体造形だと信じていたものだ。
私の知覚は遠近法で2次元の写真の中に奥行きを勝手に想像する。その錯覚をデュシャンは逆手にとって「大ガラス」を制作し、ガラスの中に封入された薄っぺらい作品がまるで奥行きを持つ存在であるかのように見せたのだ。そこで使われた物体に何か意味があったのかどうか……それは案外デュシャンにとってはどうでもいいことだったのかもしれない。周りが騒ぐから「どうでもよかったんだ」とは言えなくなっただけで。
さて、デュシャンの制作した3次元でありながらほとんど2次元の「大ガラス」を見る時、私達はそこに実際にはない奥行きを勝手に想像してしまう。「大ガラス」という作品の奥行きは、作品をはさみこんだ分厚いガラスの厚みであるはずなのに、私達は3次元の中に2次元展開された作品を見て、それが暗示している奥行きを見いだしてしまうのである。いわば錯覚なのだが、「大ガラス」を見ている人の脳内にはそこには実際にない3次元の光景が広がっているのである。それすなわち超現実、すなわちシュールレアリスムと言えるかもしれない。
紀里谷監督が私達に見せるものはそれだ。
「3次元の物体を元に構成された、現実にはありえない奥行きを暗示する2次元の絵」
普通に写真を撮ったのでは絶対にありえないような画面構成で映画が作られているのだ。
それを超現実ととらえるか不自然と受け取るかは見る人次第だろう。
ひょっとして紀里谷監督の目は奥行きというものをとらえないのかもしれない(知覚は人によって随分違うものだから)。
目に映る全てのものが一瞬一瞬シャッターを切るように一枚ずつの写真=平面画として捉える人が立体を構成しようとしたらああなるのではないだろうか。断層撮影した写真を一枚一枚を並べて全体像を見とおしていくように。
今はどうか知らないけれど、かつてセル画でアニメーションを制作していた時代は背景のセルが一番下にあって、その上部でキャラクターのセルが上下に移動するようになっていた。キャラクターに背景から独立した動きをさせ、また上下させることで遠近感も出せるようにである。キャラのセルの顔の上には表情を出すための口や目といった別のパーツがさらに重ねられていたりする。
それは丁度、断層撮影した写真を全体像を結ぶように並べているのと同じ仕組みである。
自分に近いものから順にレイヤーにのせて、それをPC作業のようにぴたっと一枚に重ねるのではなく、奥行きをつけて前から後ろへと順序よく並べていくのである。
「GOEMON」の映像って、そういう風に見えるのだ。
第一作である「キャシャーン」を見た時、そのあまりの動かなさに私は腹を立てたもので、だからこそ「GOEMON」を見ようとは思わなかったのだが、しかし紀里谷監督は自分なりの手法でその欠点をカバーしたらしい。それは素晴らしいことだと思う。
しかし、断層撮影された写真は、それだけ見るならやはりどこまでも平面である。
平面を何枚も重ねて並べることによって、人は脳内でそれを立体像として再構成することはできるが、えも見ている目の方はその写真があくまで平面であることをしつこく主張してやまないのだ。
少なくとも私はそうだ。
平面のレイヤーが幾層にも重ねられた人工的な映像を見て立体像を再構成するよりも、自然光の中で普通に動く人間を普通に撮影した映像に奥行きを見いだす方が楽である。私にとっての映画の楽しみはそちらにある。
だが現代の日本は「GOEMON」を受け入れるかもしれない。
アニメやコミックの実写化で、生身の俳優がキャラクターと同じ表情をしてみせればそっくりだといって喜ぶ風潮が広がっている昨今、観客は実写映画にもはや3次元を求めていないかもしれないのだ。
だったら、紀里谷監督の手法は、そういう観客に受け入れられやすいものなのではなかろうか?
時代は変わる。
これからは邦画は「GOEMON」のような作品が主流になっていくのかもしれない。
だったら私は洋画を見るけど。