「西の魔女が死んだ」公式サイト


この作品は鑑賞中からず~っと妙な居心地の悪さを感じていて、見終わってからは何とも言えない不愉快さがいつまでも残っていた。


映画の質が悪いとか完成度が低いというのではない。


ただ「西の魔女が死んだ」は見ていてどうにも気分が悪い。スクリーンを見ながら常に「えっ、違うでしょ?」と問いかけていたせいかもしれない。この映画はどこかがおかしいのである。


予告編が本編と違うのはよくある事だからそれはいい。

この作品から受ける妙な感じは、映画が見せかけようとしている姿とその本質とが全くかけ離れている点にある。


それが原作者に由来するものなのか、或いは原作を表に立てつつ裏では自分自身のテーマを追求した監督の映画作りにあるものなのか、その辺は分からない。


ただ、表向き「不登校になった少女が自然の中で祖母と暮らす内に癒しを得、魂の不滅を信じるようになる」と言うようなテーマに基づいてストーリーを進めながら、この映画の根底にあってくどい程しつこく描写されるのは母と娘の間の相克なのである。明確な言葉としての批判は一切ないのだが、その漠然とした母親への不満の描出が返って陰湿なイメージをもって迫ってくる。


それは主人公のまいとその母親の関係のみならず、母親とその母であるまいの祖母という二つの関係を含んでいる。まいの母親は自分をこんな風に生んだということで自分の母親(祖母)を恨み、まいの方は自分をこんな風に育てたということで母親を恨んでいるように見える。無論母親を深く愛しているから表だってその感情を出すことはぐっとこらえているものの、怒りや不登校という別の形となってねちねちとしみ出してくるのだろう。


おかげでさわやかな自然の情景を見ていても、ちっとも心が洗われない。

映画に描かれている感情は解消されるあてのない不満ばかりだからだ。


母と娘の対立を描いた映画はハリウッドにもたくさんあるが、クライマックスで双方感情を爆発させた後でラストに何らかの和解をもってくることでカタルシスを得るというのが大まかなパターンだ。


ところが「西の魔女」は日本映画なので、日本人らしく感情問題は水面下に隠されたままで決して爆発させたりはしない(橋田壽賀子のドラマでもないし)。対立がなければ和解もないので、不満は一生そのままということらしい。


その不満を丹念に拾っては一つ一つスクリーンにのせていく監督の手際の鮮やかな事よ!


見ててもちっとも嬉しくはないが(むしろ気分が悪くなると言った方が正しい)、その腕前は見事だと思う。


監督本人はこの映画を撮ることでカタルシスを得たのかもしれないが、見せられる方はたまったものではない。作った方は意識してないのかもしれないが、この映画には透明な悪意が満ちている。声に出せない不満は日本人なら誰にでもあると思うが、それをこんな形で見せつけられるのはたまらない。


それがこの映画に居心地の悪さや不愉快さを感じる理由なのだと思う。




(テレビ放送につき、2008年7月2日の記事 を再録)