この作品にも出演している金城武が諸葛孔明をつとめる映画「レッドクリフ」も現在絶賛上映中だが、「レッドクリフ」が「三国志演義」を元にしながらどこか「ロード・オブ・ザ・リング」を彷彿とさせる壮大でありながらもファンタジックな戦争絵巻で観客を魅了するのに対し、「ウォーロード」では「戦」というものの酸鼻を極めた悲惨さを見せつけてくる。
リアルというよりもさらに具体的な殺し合いの描写は、血糊だけではなく斬られた腕や脚が乱れ飛ぶシーンが残酷と思うよりも当たり前と思える程現実的だ。その迫力とスピードは、見ている方が「痛そうだな……」などと感想を抱く暇もない。
時は中国清朝、アヘン戦争の後、太平天国の乱まっさかりの頃である。
そこでは丁度「ラストサムライ」と同じように、近代的な武器と古代から使い込まれた武器が混在する戦闘が繰り広げられている。
火縄の単発式ライフルややはり火縄の大砲がある一方、弓矢や騎馬兵や刀剣・槍等もまだ立派に現役であり、火縄式の火器はその点火に要する時間が欠点となるため、必ずしも一方的な勝利を治めるとは限らないという点が戦争物として映画を見る時のおもしろさといえるだろうか。
しかし、「ラストサムライ」やエドワード・ズウィック監督の「グローリー」や、ヴィゴ・モーテンセンがスペイン語で主演した「アラトリステ」のラストシーンを見て「おもしろい」とは決して思えないように、「ウォーロード」もまた悲壮そのものの思いを観客に与える映画なのである。
それは「レッドクリフ」とは全く逆の話といえるだろう。
「レッドクリフ」がファンタジーに近い味わいをもっているのは、それが史実を元にしたとはいえフィクションだからという理由が全てではない。「ウォーロード」も同様に史実に基づくフィクションである。
しかし「レッドクリフ」では戦略・戦術は全て味方同士の信頼に基盤おいて計画実行されるものであるのに対し、「ウォーロード」ではたとえ「味方」とされる軍同士であってもそこに信頼関係は全くないのである。
「信頼」は必ず「裏切り」に合う。
残念ながら、私達が知っている現実の世界は「ウォーロード」の方に程近い。
「信頼」がふさわしい「信頼」によって報われる「レッドクリフ」は、だからファンタジーに近い世界なのであり、それ故に見終わったあとでどこか救われたような気分になれるのである。死者の数では「ウォーロード」よりも多いはずなのに。
だが不思議な事に「ウォーロード」を見終わった後で感じるのは、決して悪い気分ではないのだ。それは映画の全体に流れているものが、実は「信頼」を裏切られた者の悲しさだからだ。
裏切られて悲しいのは、一度は深く誰かを信頼したからだろう。
そして人を裏切って苦しむのは、やはり自分も誰かに裏切られた経験があるからだろう。
悲しくても、苦しくても、人はそうやって誰かを信頼しなければ生きていけないものなのではないのか。
それに比べ、人を信頼せず、自分の欲得だけで世の中を渡って行く者の、なんと醜いことか。
「ウォーロード」の美しさは、痛々しい。だが決して苦くはない。胸が痛くても、それに耐えなくてはならない時もある――そんな気持ちにさえさせられる、凄まじい作品だった。