「アイ・カム・ウィズ・ザ・レイン」 (公式サイト

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この作品は美しき男達の競演(艶)と言われているが、中でも最高に美しかったのがキムタクこと木村拓哉だった。


映画には女性も出てくるし、彼女達は惜しげもなくその肉体を露出しているが、その彼女達の誰よりも木村拓哉は美しいのだ。この作品において彼は性別を超越している。


私はどうしてもキムタクの顔というものが認識できないのだが、それは彼の頬骨が一般的な男性とは違っているからだ。男性ならば普通頬骨はもっと出っ張ってごつごつしているはずなのに、キムタクの顔はそうじゃない。まるで女性のように出っ張りの少ない滑らかな頬をしている。私が人間の顔を識別する時に用いていると思われる認識の方法ではそれはすでに男性の顔ではなく、完全に女性の範疇に入るものだ。彼の顔は恐らく私の脳の潜在意識の中では「」の方に振り分けられているのだろう。

その一方、表層意識は彼の性別を完全にとしてとらえている。彼の顔には髭だって生えてるし体つきは完全に男性なのだからごく自然にそうなる。


だから私がキムタクの写真や画像を見て

「この美しい人の顔には見覚えがあるけど、誰だったかしら?」

と思った時、情報を引き出そうとするのは当然男性ファイルの中からなのだが、実はそこには彼に関するファイルはないのである。

「キムタク?」

という解答を得ても常にそれに確証がもてないのは、その情報を当然位置づけられてあるべき男性ファイルの中からではなく、全然違う女性ファイルの中から取り出してきているため、脳内に混乱が生じているからに違いない。


俗に「女顔」というが、キムタクの顔こそそのものなのだな、と今回よお~くわかった。

そして私がキムタクに惹かれない理由も。

完全にヘテロの私にとって、顔を見て潜在意識が「女」と認識してしまうキムタクは恋愛対象から外れてしまうからなのだろう。


男性でありながら女性の顔の美しさを持つ――それが木村拓哉の魔性である(本人にはその意識もなければ、何の責任もないのだが)。


両性具有的な雰囲気を色濃く身にまとい、しかし本人の自意識はそれを超越している木村拓哉(不思議と彼からはトム・クルーズのようなナルシスティックなものは感じない)。日本にいる限り常にどこであろうと「キムタク」を演じなければならないのが彼の悲劇だろう。それは美しく生まれついた故に彼が被らなければいけない不利益の一つだ。


美しく生まれついた故の不利益は、その美しさ故に、他人から嫉妬をかっても誰も同情してくれないところにもある。


美は常に諸刃の剣、近付けば人を傷つけ、同時に自分をも傷つける。


そういう、美しさ故に被る理不尽さというものを、形を変えて表現しているのが「アイ・カム・ウィズ・ザ・レイン」のシタオだろう。美と知性を備えた姿をしながら、暮らしぶりはまるでケモノのようなシタオ。


彼は人類の築いてきた文化というものを我が身から捨て去り、一個の動物としての存在に戻っているのだ。全ての虚飾を捨て、自分を限りなく無に近づけてして他者と対峙した時、彼が得るのは他者の肉体に負った傷とそこから受ける苦痛の全て。


それはキリストが人類を救済するために受けたパッション(受難)そのもの。


人は自分の受けた苦痛に耐えきれなくて誰かに救ってくれと頼むけれど、苦痛というものが消えないならばそれは救ってくれた人を自分の代わりに苦しめる事になる。優しさ故に他人の苦痛を引き受けた人の苦痛は、では誰が癒すのだ? 救われた者は喜び、その場を離れればもう感謝の心も忘れてしまうのに?


この世の理不尽さの象徴であるシタオを木村拓哉は体当たりで演じ、完璧だった。彼の演技力は台詞回しにあるのではない。松山ケンイチ同様、彼はその存在になるのである。松ケンと違うのは、木村拓哉はそれを自分の内部から作り上げるというよりも、周囲の人間が望んでいる姿を探り出して、それになる点だろう。


そう、彼はシタオそのもの、相手の望みを言葉の壁を越えて理解し、それをかなえる存在なのだ。シタオが表現している痛みは、木村拓哉が感じてきた痛みそのものなのだろう。


「アイ・カム・ウィズ・ザ・レイン」は木村拓哉なしには作れない作品だった。

この監督にとって作品のミューズは女優ではなく、男優の彼なのである。


どこかで性別の逆転が起こっている作品なのだから、混乱していて不可解で、それで当然なのだろう。