アイ・カム・ウィズ・ザ・レイン」公式サイト


この下(一つ)前の記事 で紹介したインタビュー によれば、


「トラン監督は、この世にある地獄を描こうとした」とハートネットさんは考える。そして、シタオを「救世主の象徴」、クラインを「他人を助けようとしながらも迷いがある、ある意味、堕天使」と表現する。

 クラインに絡むもう1人の男が、マフィアのボス、ス・ドンポだ。ドンポは人を殺すことをなんとも思わない冷酷非情な男。半面、一人の女に執着するという弱点を持つ。ハートネットさんの言葉を借りるなら、「人間が持つ欲の象徴」だ


「ジャンル分けをすることができない、観客の解釈に委ねられているところがある、ユニークな作品。(そういう作品に出演できて)とても満足している」


なのだそうである。



*写真の下から内容に言及する記事になりますので御注意下さい


Who killed Cock Robin?




確かに木村拓哉演じるシタオは救世主のようだった。


殺されてから復活を遂げ、理由も分からないまま不死の肉体を得た彼は、他者が体に受けた傷をそのまま自分の肉体にひきうつすことでその他者の肉体を損傷及びそれによる死から救う。


シタオの肉体はダメージを負ってもそれで死に至ることはない。


しかし怪我はその傷口をぱっくりとあけたまま彼の肉体に宿り、そこから生み出される痛みは常に彼を苦しめる。死ぬほどの痛みを、人を救うたびに彼は感じているのである。


それでも彼がその行為をやめないのは、彼は周りの人々が自分に望むことを感知し、それを為さずにはいられないからなのだ。彼自身の心の底でそれを望んでいないとしても、周囲に他者がいる限り、シタオは他者の思念にひきずられ、彼らの思う事を為そうとせずにはいられないのである。


命を助けられた者にとっては、シタオは間違いなく救世主である。


しかしシタオ自身に明確な救世主としての意識、自我はあるのだろうか?


なんか、よくわかってなかった、としか思えない。


だがそれはそれでいいのである。


救世主は他人につくす者なのだから、なまじ自我なんかあってはいけないのだ。自我があれば葛藤が生まれる。葛藤があれば原罪なんてもので悩む事にもつながるだろう。救世主というものは無我の境地に達していなければならないものだから、逆にいえば自我が生まれる前の幼児、或いは赤ん坊のような姿で然るべきなのだ。


余分な知恵など持たない無垢の存在。

シタオの生きている姿はまさにそれだった。成長しきった肉体では、赤ん坊の姿には見えずケモノとしか形容の出来ない有様だったが。

自分が何故そこにいるのかも分からないまま、しかし他人が求める癒しを与え続ける男。全ての人に使える下男――シタオ。


麻薬中毒の女を拾ってきた時には、何度も水をかけては彼女を清めていた。その姿は弟子の足を洗うキリストに通じるものがあったかもしれない。



だからジョッシュの分析は間違っていない。

恐らく、木村拓哉が演じたシタオはトラン監督のイメージの中にあるキリストそのものなのだろう。


現代社会におけるキリストの受難(パッション)、それが木村拓哉が「アイ・カム・ウィズ・ザ・レイン」の中で負っていた役割である。



ところで「パッション」といえば、メル・ギブソンの有名な映画だ。

ジム・カヴィーゼルがキリストを演じたその映画の凄まじい鞭打ちのシーンを見ながら私が感じていたのは、

「これを撮った人間はマゾヒスティックな感性の持ち主に違いない」

ということだった。


何故ならば、あんなに痛そうなシーンをあんなにも美しく荘厳に撮れるのは、痛みを感じる事を一種の「美」として受け入れている人間にしかあり得ないと思ったからだ。

だがしかし、本人は自分にそんな一種の性倒錯の気があることを正面から受け入れてはいなし、現実の行為として積極的に楽しんだりもしていないのだろうと。


もし現実にマゾであることを受け入れ、それを積極的に楽しんでいるなら、映画なんか作る必要ないのである。


芸術とは自己表現である。

普段満足いくだけ自己表現している人間は、いちいち芸術なんかしないのだ。


口にはできない思い、言葉では表現しきれない欲求、そういったものに突き動かされる人が肉体を使ってダンスをし、カメラを使って映画を撮る。ストレートに表現できない部分が大きければ大きいほど、作品のテーマも重大性を帯びてゆく。


それは例えば現実では法によって禁止され、人間としてもタブーであるカンニバリズムに対する欲求が自分の中にあることを知り、せめてそれを文字上でかなえるために「人が食われる」ことを是認される領域を神話に求めファンタジーやSFといった形で小説に書く人間がいるのと同じ事で(小説家本人は「人を食う」側なので、鬼でも神でも宇宙人でも好きなものに自分を仮託すればいいのである)、マゾヒズムの極致を最も美しく描くために「パッション」は聖書のエピソードを用いたのだろうと、そう思えたのである。


キリストが鞭打たれたのは、自分の(歓びの)ためではない。

彼は全人類を救うために身代わりとなって激しい鞭打ちを受け、その挙げ句に磔にされたのだ。

こんな崇高な自己犠牲は他にないだろう。


「鞭打たれるもの」にとっての、究極の美である。


サディストならば、「鞭打つ側」を美しく撮る。そしてたぶん、鞭打たせながら嬉しそうな顔をさせる(だってそれが彼にとっての悦楽だから)。


たまに、「美」に対する認識が完全に一般とかけ離れている人がいるが、そういう人はおそらく商業的な映画は作れないし、作っても成功しないだろうから(エド・ウッドとかね)、ロードショー公開される映画ならば美意識は世間一般で通用しているものと同様と考えていいはずである。その美的感覚からいって、「パッション」では美しいのは鞭打たれる方であり、鞭打つ方ではなかった。



さて、「アイ・カム・ウィズ・ザ・レイン」に話を戻そう。

この映画で美しいのは木村拓哉とジョッシュ・ハートネットの二人である。

だから監督の思い入れは主にこの二人にある。


「鞭打たれる」木村拓哉は途方もなく美しい。劇中、女優の口を借りて

「あなたは世界で一番美しい」

といわしめているほどである。


無垢で無防備で究極の自己犠牲を果たしながら、自分が何者かも何をしているのかもよく分かっていないシタオ。


それはトラン監督の理想であり、分身でもある。

彼の純粋な欲求が最も美しい形をとったものだろう。


しかしシタオだけでは完全なものにならない。


救世主は例え地上にあっても、その身は天にかえるものだ。


地上に立ち、その足を踏みしめて生きていくためには純粋だけではいられない。


それがジョッシュの演じたクラインである。

だから彼は「堕天使」なのだ。

人間として生きるために地に堕ちた天使だから。

それは知恵の木の実を食べて楽園を追放されたアダムの姿に重なる。


映画の中でクラインはシタオを探し続ける。

自分のなくした魂の純粋性にもう一度触れたくて。


ストーリー的にはクラインはシタオの父に頼まれ探偵としてシタオを探しているわけだが、シタオが救世主ならばその父は神にあたるだろう。つまりクラインは神の使い、すなわち天使なのである。まあなんちゅうか、父と子と精霊とした時、子がシタオならばクラインは精霊にあたるわけだ。


実際のところ、クラインはシタオの分身、監督が自分の自我を幾つかに分けてキャラクタライズした時の「知性」の部分だろう。「知性」だから洩れなく原罪を背負って生きているというか、知らなくてもいいことを知ってしまった不幸を身に帯びて生きている。


無垢なシタオは周囲の人間の感情をケモノのように察知する。

彼にはただ分かるのだ。それがシタオの能力だから。


クラインは理詰めで自分が捕まえる犯人の考え方を理解していく。

いわが知性による他者の人格の再構成だ。

それによって他人の考えている事を推測し感情を再現する。


ところが人間の自我というものは実は曖昧なもので、一つの人格を作ればそこに自我が生じるのである。自我は決して一人に一つではない。幾つかのペルソナとしての自我を統合し、人はなんとか個人としての面目を保っているに過ぎない(それができなくなると、解離性人格障害になってしまう)。


クラインは、自分が追っていた殺人犯のハスフォードの人格を自分の内部に作り上げたことで、ハスフォードとしての自我を持つに至ってしまった。

ハスフォードとして物を考え、ハスフォードの感情の動きを理解し、ついにはハスフォードに同化し――彼になりかわって彼の究極の望みを叶えてしまう。


実はクラインがここでやってることは、シタオの行っている事と同じなのだ。


他者の望みを察知し、それを叶えること。


叶えて貰った方は幸せになれるだろうが、叶えた者には苦痛しかもたらさない。


そうと知らず感情に突き動かされるまま行っても、知性に基づき知った上で行っても、結果は同じ。苦痛である。肉体的にか、精神的にか、どっちにしても苦痛は苦痛だ。


映画の最後では、ついにシタオの居所を突き止めたクラインが地面に磔にされていたシタオの手から釘を抜き、彼を両腕でかかえあげ、抱き上げたまま去っていく。


知性が見失っていた自分の感情の神聖な部分をようやく発見し、統合された瞬間と言えようか。


シタオもクラインも監督のペルソナの一部である。

監督が求めていたのは知性と美しい感情の再統合だったと言えるかもしれない。


「パッション」と違い、苦痛はここでは一種の通過儀礼のようだ。それは受けねばならないものであり、そこから逃げてはいけないものとして存在する。



ところで「アイ・カム・ウィズ・ザ・レイン」にはもう一人「美しい」男が登場する。忘れちゃいけないイ・ビョン・ホンだ。

「美しい」をカギ括弧でくくったのは、本来美しいはずのイ・ビョン・ホンがこの映画ではまるで美しくないからである。


今回プレミアで来日したイ・ビョンホンだが、少なくともそれ以外にネット上で彼がこの作品について行っているプロモーション活動はない。映画について何かコメントしたという事さえ聞いていない。ただ六本木に来て手を振って帰ったという感じだ。そこまでが契約だったのだろう。


彼の真意は分からないが、恐らくこの映画における自分の役割に不満を感じていたのではないだろうか? 私が彼ならそう思う。何故ならイ・ビョンホンが演じたドンポという役からは全く人間らしさが感じられなかったからだ。

イ・ビョンホン自身はしっかり役作りして望んだだろうに、映画からはそれを感じることができないのである。もうちょっとこう、内面を掘り下げるシーンがあってもよかったんじゃないかと、私自身は大変不満に思ったものだ(それでもショーン・ユーよりはマシだけど)。


しかしちゃんと手がかりはある。

イ・ビョンホン演じるドンポが自分の女、リリを可愛がるシーンは、例えば「グラン・トリノ」でイーストウッドが車のグラン・トリノを、「オーシャン・オブ・ファイヤー」でヴィゴ・モーテンセンが馬のヒダルゴを、それぞれ愛おしむシーンととてもよく似ている。


ドンポはリリを恋人や情婦として愛しているというより、自分自身の捨て去った自我の代わりとして大事にしているように見えるのだ。


それは現在そこにあるドンポの肉体は一種の抜け殻であり、本来の自我はリリに仮託されていることを意味する。

抜け殻であるドンポにはすでに知性も感情もなく、その場で期待される事を淡々とこなすだけである。そのほとんどが暴力行為であるから、見た目は「淡々」とはかけ離れているが。


本来イ・ビョンホンは「美しい男」なので、この映画では彼も監督のペルソナの一つだろう。


地上に二本の足でなんとか立っているクライン=ジョッシュ。

本来天国にいるべき存在であるシタオ=木村拓哉。


だからジョッシュにいみじくも「魔王」と解釈されたドンポがいるべき所は地獄である。


知性の象徴であるクラインを中心においてプラスの感情をシタオが現しているなら、ドンポが体現しているのはマイナスにあたる感情――恐らく「怒り」である。


その怒りはほとんどの場面で暴力への衝動として表出する。


ドンポの優しさや知性は映画の中では女性であるリリとして結実し分離を遂げ、ドンポ自身に残っているのは怒りによる暴力衝動だけなのだ。人間的な表情がほとんど見られず、男性としての肉体性のみを誇示するのはそのせいだ。だからドンポという人間は映画の中ではとんでもなく阿呆でつまらないヤツに見えてしまう。


それでも、イ・ビョンホンはリリにむける表情だけでドンポの内面を表現していたのだ。そんな素晴らしい名優が一見阿呆にしか見えないのでは、ちょっと可哀想すぎる。


しかし監督にとっては、ドンポというペルソナは自分自身の中からすでに捨て去ったもの、或いは捨て去りたいものなのである。そんなペルソナに魅力があってはいけないのだ。だからドンポに魅力がないのは監督にとっては必然で、そうとしか描きようがないのである。


ドンポが他人に与える激しい暴力は、シタオやクラインが受けてきた「痛み」を逆に相手に与えるものである。


「痛み」は「怒り」を生み、「怒り」は「暴力」や「破壊」をもたらす。

自分が受ける痛みが強ければ強いだけ、その埋め合わせに相手に与える苦痛も激しくなるだろう。


監督はその連鎖を断ち切りたいのだ。


他人から受ける痛み自分一人の中にとどめてしまいたい――かつてそれを実現した美しき救世主のように。




映画ではドンポの方がシタオを地面に磔にして立ち去ってゆく。

それこそ監督が望んでいる事に他ならない。

怒りやそれに起因する破壊衝動に、監督は立ち去ってほしいのだ。

そして生まれたままの優しい感情だけ残し、知性には迎え入れて欲しい。

それが切なる願いなのだろう。




その知性もまた、何者かを葬ってシタオの元に辿り着いているのだが。

とりあえずここでは「美しい」3人の男の話で留めておく。