*この下(一つ)前の記事の続きになります。
この前の記事で私が書いた事を要約するなら、「アイ・カム・ウィズ・ザ・レイン」で監督が描きたかったのは自分自身が現在に至るまでの精神の遍歴である、ということになるだろう(前の記事のどこにもそんな風には書いてないけれど)。
監督はまず自分の持つ精神の側面をそれぞれペルソナとして三人の「美しい男」に振り分けた。
生まれたままの無垢で純粋な優しい感情のシタオ=木村拓哉。
成長過程で身につけた知性を象徴するクライン=ジョッシュ・ハートネット。
成長過程で身につけてしまった怒りと破壊衝動がドンポ=イ・ビョンホン。
映画の最後でドンポはシタオを磔にしクラインとは訣別する。身一つになったクライン=知性はドンポから得た情報を頼りにシタオを探し出し、傷ついても尚美しい彼=無垢を抱き上げて歩み去る。
怒りを捨て、無垢な知性のみの存在として監督の自我は再統合を果たしたのである。
その道のりの険しさ、激しさ、混乱と困惑、痛みと癒し、そして如何ともし難く現れる暴力の発露、それをそのまま描いたのが「アイ・カム・ウィズ・ザ・レイン」という映画なのだ。
しかし映画の最後で自ら切り離した怒りと破壊衝動の象徴であるドンポといえど、ペルソナとして監督自身の一部分がそこに在るわけだから決して単純な存在ではないのである。
トラン監督は、シタオにもクラインにも自分の一部を分けている。それはとてもベーシックな部分で、だからドンポにもその部分は必ずあるはずだ。
それは周囲の人間が自分に向けている感情を敏感に察知する能力である。
シタオは単にそういう能力として、クラインは知性に磨かれた深い洞察力としてそれを備えていた。
ではドンポは?
彼は、周囲が自分に期待することを確実にやり遂げる。
周りにいる人間が自分に暴力を期待する限り、ドンポはきっちりとそれを果たす事を己に課していて、本意だろうと不本意だろうと絶対それはやるのである。そこには迷いも逡巡もない。挑発されれば相手が刑事だろうと銃をぶっ放すし、任務に失敗した部下は自分の手で始末する。
不思議な事にこの映画では、任務に失敗した部下は「ボス(ドンポ)に殺される」と脅えながらもその運命から逃れようとはしない。震えながら、自分でビニールの死体袋をかぶり、ボスの怒りを死に至るまで受け入れる事をその時点で覚悟しているのだ。逃げるなど、最初から考える事さえ放棄している。その覚悟の決め方はほとんど「期待」に近い。部下はドンポによる死を受け入れ、すでにそれを待っている。だからドンポは何が何でも彼を殺さなければならない。
何故ならそうしなければ彼の存在意義そのものが失われるからだ。
マフィアのボスとして周囲が期待する以外の行動をドンポはとることができない。
最初は衝動にまかせてのはずだった暴力行為が、いつの間にか自分の行動規範となり枷となっている。それを重荷と感じながらも、しかしもはや自分の作り上げたその規範からドンポは抜け出すことができない。暴力的な行動様式そのものがそこに存在するドンポという人物を作り上げてしまっているからだ。
他人の期待に応えることで自縄自縛に陥るドンポ――これもまた、周囲の人間の感情の動きを察知することで自分の身に降りかかってくる苦痛の一つといえるだろう。別に他人の期待に応えさえしなければそれですむことなのだが、ドンポは「他人の期待に応えずにいる事ができない」人間なのである。
それ故ドンポの攻撃性は高まる一方で、本来の人間らしい心情は「女々しい」として発露の場を与えられなくなる。本当は優しく、他人の痛みに共感し、それを癒そうと思う心を備えているのに。それは無垢としてシタオが行っている行為と同じである。
マフィアのボスである故に「女々しさ」として捨てなければならなかったドンポ本来の自我は、だから恋人であるリリの元にある。ドンポがリリなしには一日たりとも生きてゆけないという様子を示すのは、リリが彼自身の一部を担っている証拠である。
ドンポ自身が捨てたのにも関わらず、本当は自分の中で最も誇らしく思っている部分(グラン・トリノやヒダルゴのように)、それがリリなのだ。
最初はどうしようもない麻薬中毒として登場するリリ。
取り返しがつかないほど病んで荒んで、それでもドンポにとってはかけがえのない存在。
それがドンポの真の姿といえるかもしれない。
自身の怒りや暴力性、破壊衝動といったもので傷つきボロボロになってしまった自我、リリもまた監督の一つのペルソナである。或いは監督自身にもっとも近い位置にあるペルソナかもしれない。
そのリリは映画の途中で自分が遠い昔に忘れてしまっていた無垢であるシタオと出会い、本来の自分自身を取り戻す。
物語の上では禁断症状で苦しみ抜いた挙げ句に薬物からの離脱を果たすわけだが、その時のリリはシタオと二人きりなのである。
普段、何人もの人間を次から次へと癒していくシタオが何故リリにだけつきっきりだったのか。物語上ではそれについてきちんとした説明はなされていないが、監督にとっては必然だったはずだ。
過度に暴力的である男性性の中から「女々しさ」である女性性として放逐された自我の一部分が、男女未分化の無垢と出会うことで自分の存在を自分で是認することができるようになっていくのである。男性の中にもアニマとして女性性は存在するのだが、それを自分で認め、許すことができたということだろう。
リリが仮託されている部分のドンポの自我とシタオとは本来同一のものである。
だから映画の中でリリとシタオは分かちがたい存在となって数日生活を共にする。
シタオがリリを薬物中毒から解放すれば、リリはシタオの体に刻まれた傷を介抱するというように。
双方が水をかけて相手を洗うシーンには、どこか神聖な雰囲気さえ漂っている。
リリは一旦ドンポの元に戻り、その後自らシタオの所に押しかけていたのだが、ドンポにしてみれば自分の守るべき自我なしには一日だって生きていられない。
そこでリリを取り戻しに行き、ついでにシタオが二度とリリに手出しできないようにと彼の掌を釘で板に打ち付けて磔状に地面に転がして立ち去ってしまう。暴力をなりわいとするものに、無垢は必要ない。いつでも自分の側にいて自分の好きなようにできるリリさえいれば、ドンポはそれで生きてゆけるのだ。
ドンポは忌むべき存在。無垢と共存はできないのである。
リリは元々は無垢だったかもしれないが、世の汚れを一身に浴びてしまっては、もう無垢には戻れない。
ドンポと共に切り離すしかなかったのだろう。
ドンポはまあ言ってみれば、監督にとっての汚点なのだ。
大人しく立ち去って貰うに越したことはない。
その汚点、いわば監督の心の負の部分だが、知性に目覚める前に強大になってしまったものなのだろうか? 或いは知性とは別の部分で成長を遂げてしまったのか。
映画の中で知性を象徴するクラインとドンポはほとんど交わることがない。
最後の最後にクラインがドンポの元に乗り込み
「お前なんか恐くない!」
と宣言し最後通牒を叩きつけるまで、二人が直接対峙することはなかったと思う。
それまでクラインとドンポの間には常にショーン・ユー演じるメン・ジーがいた。
メン・ジーの役割は一体なんだったのだろう?
抑えきれない暴力衝動に対して自分自身が抱く苛立ちの反映だろうか?
知性だけでは抑えられない衝動を制御しようとする別の自我の現れだろうか?
向こう気だけは強いものの、ドンポの差し向けた暗殺者によって重傷を負わされ物語からは途中退場してしまったメン・ジー。この映画の中では一番普通に近い男性だったのだが。
映画の最初の内はクラインとコンビを組んで動いていたのだが、メン・ジーが表舞台から去ることによって劇中ではクラインの狂気が加速する。
ということは、やはりメン・ジーは一種のブレーキの役目を担って映画の中に居たということだろう。
それはもっぱら外れることによってしか映画の中での存在意義のない、ブレーキ本来の役目は結局果たせないまま終わるという哀れな存在だが。
監督にとって、この映画はブレーキを効かせたくないものだったのだろう。
感情も知性も衝動も暴走するに任せ、その結果がどうなるのかはひょっとしたら自分でも分かっていなかったのかもしれない。
*画像の下からネタバレになりますので御注意。