*この記事は
「アイ・カム・ウィズ・ザ・レイン」――これは救世主の映画なのか?
に続く内容となります。
*画像の下からネタバレになります。
さて、今まで私が書いた記事の中では「アイ・カム・ウィズ・ザ・レイン」という映画は監督の精神が現在に至るまでに辿った苦難と苦闘の遍歴を辿ったものである、という前提で話が進んでいる。
監督は自分の精神を大きく三つに分け、それぞれを美しい男達に振り分けた。
インタビューでジョッシュ・ハートネットが分析してくれたそれぞれの役割では、
シタオ(木村拓哉)=救世主
クライン(ジョッシュ)=堕天使
ドンポ(イ・ビョンホン)=魔王
にあたる。
それはとても的を射た分析だと思う。
そこでその分析の結果をそのまま利用させてもらい、それぞれの役割に監督の精神のどのあたりが該当するのかをこれまで考えてきた。
ここに至るまでいろいろ書いてはきたが、突き詰めると以下のように分けられるのではないだろうか。
シタオ=救世主=生まれたままの無垢な魂。無私無欲の心
クライン=堕天使=知性。疑問を感じ探求する心
ドンポ=魔王=怒り、破壊衝動。自己中心の心
映画のラストではドンポがシタオの両掌を地面に置かれた板に釘で打ち付け、彼を磔状にしたまま置き去りにしていく姿が描かれる。
その後ドンポの元に直談判に乗り込んだクラインが
「お前など恐れはしない!」
と面と向かって言い放ち、その勢いに負けたドンポがクラインを傷つけることなく送り出し、シタオが居る場所も教えるのだ。
クラインはシタオの元に駆けつけ、何日たっていたのかキノコが生えているシタオの肉体から生命の兆候を見いだし、両掌から釘を抜き弱り切った彼の体を赤ん坊のように抱きかかえてその場所を後にする。
監督にとっては、知性で怒りの衝動を抑え込み、無私の心を、完全な形ではないかもしれないにしろ、取り戻して現在に至る、という結末になるのだろう。
これもジョッシュのインタビューにあったが、監督はとても知性的で優しい人だそうだから。
そこに至るまでの精神の葛藤の凄まじさがそのまま「アイ・カム・ウィズ・ザ・レイン」で描かれているとすると、この人(監督)どんな人生送ってきたんだ、と思ってしまうけれど。
さて、監督の精神の三つの様相である美しい3人の男達にはそれぞれ深く関わり合う登場人物がいる。当然それらもまた監督の精神の一部分を形成しているペルソナという事になるだろう。
ドンポとシタオ双方に関わるリリ。
これは男性の中にある女性性(アニマ)であり、シタオと共通のバックボーンを持つものだ。
要するに生まれた時から備わっているので、自分から分離させ追い出すことはできても消し去ることができない。自我の重要な一部分を担うものであり、ドンポの執着の仕方を見ていると「自己愛」とさえ言えるかもしれない。
ドンポは監督の利己的な部分の集大成とも言えるから、リリが自己愛だとしても不思議はない。自己愛だから自分の負の部分(ドンポ)も正の部分(シタオ)も等しく愛せるのだ。
ドンポの女であるということは、魔王の妻。
彼女の名前の「リリ」はサタンの妻とも称される「リリス」に因んだものなのかもしれない。
クラインには友人のナン・ジー。
映画におけるジーの行動はドンポとそう変わらないほど暴力的で突拍子もないが、ほとんどが異常というかどこか逸脱している登場人物の中では一番普通で常識的なのが実は彼である。
クラインを中心に据えて展開を見直すと、香港に来てジーと一緒にいる間の彼は比較的まともだったと言えるだろう。彼の狂気が加速するのは、ドンポの差し向けた暗殺者にジーが重傷をおわされ入院することでストーリーからもスクリーンからも消えてしまってからである。
ジーの役割は恐らく、社会的常識に基づく「自制心」なのだ。
知性が発達すればそれに伴い自制心も発達する。この二つは割と切っても切り離せない関係にあるといえるだろう。社会的常識はいわば知性の発達と共に身につけていく知識でもあるわけで。
しかし「知性」にとって「自制心」は必ずしも歓迎できるばかりの存在ではない。人間誰しもハメを外して遊んだり騒いだりしたくなる時もある。そういう時「自制心」にはどっかに行ってて欲しいと願うものではないか?
映画におけるクラインとジーの腐れ縁的な雰囲気とか、ジーを見ているクラインの煙ったそうな表情とかを見ているとそんな気配が濃厚である。それでもクラインにとってジーは大切な友人なのである。
だから映画の中で殺されかけはしても、ジーは死にはしなかった。
「自制心」を完全に失ってしまったら行き着く先は完全な「狂気」しかない。常識をもって社会で暮らしていくためには、自制心はどうしても必要なもの。それは「知性」の取り外し可能な一部分なのである。
そう、ナン・ジーは香港の警官としてクラインとは別の場所に存在していた。
だからクラインは、香港に来るまで自制心を見失っていた事になる。
それすなわち「狂気」。
「狂気」を担っていた人物については、またこの次に。