アイ・カム・ウィズ・ザ・レイン」公式サイト


*この記事は 


 「アイ・カム・ウィズ・ザ・レイン」――これは救世主の映画なのか?

 

                    ――イ・ビョンホンとショーン・ユーの役目


                    ――救世主・堕天使・魔王――

に続く内容となります。




間が空いたので、前回までのおさらいを少々(ネタバレなし)。


これら一連の記事の中で私がやっているのは、「アイ・カム・ウィズ・ザ・レイン」という作品を監督が現在の自分に至るまでの精神の遍歴とし、登場人物達をそれぞれ監督の精神の一側面であるペルソナとして位置づける事である。


ジョッシュ・ハートネット来日時のインタビューを参考にし、各キャラクターに振り分けられていると私が考える監督の精神の側面は次の通り。


メインキャラクターに位置づけられているペルソナ

シタオ(木村拓哉)=救世主=生まれたままの無垢な魂。無私無欲の心

クライン(ジョッシュ)=堕天使=知性。疑問を感じ探求する心

ドンポ(イ・ビョンホン)=魔王=怒り、破壊衝動。自己中心の心


サブキャラとして登場し、メインキャラに深く関わるペルソナ

リリ(トラン・ヌー・イェン・ケー)=魔王の妻=アニマ(女性性)。自己愛

メン・ジー(ショーン・ユー)=天使=知性の一部。社会的常識による自制心


彼ら、彼女はいずれも若く美しい俳優達が演じている。


*画像の下からネタバレになります。


若くて美しいショーン・ユー。
Who killed Cock Robin?


前の記事 では特に彼の役割を「天使」とは規定しなかったが、彼が「自制心」として「堕天使」クラインの象徴する「知性」の一部にあたるのであれば、当然メン・ジーも元々「天使」だったということになる。


クライン自身だって「魔王」のドンポに真っ向勝負をかけて(論戦だけど)いるのだから、本来「天使」であってもいいはずなのだ。サタンと直接対決しているのだからアークエンジェルのミカエルとみなしてもいいかもしれない。


ただクラインを演じたジョッシュは絶対自分の役を「天使」とは言わないだろうし、映画の中のクライン自身も自分を天使だとは決して思っていないだろう。ジョッシュが「堕天使」と言ったのは、元は天使のような存在だったクラインがあるきっかけで地に堕ちてしまったからだ。一度堕天した天使は、絶対自分を許すまい。他の者がどう言おうと、クラインにとって自分は永遠に許されざる罪を背負った汚れた存在なのである。



元々は一つのものであったはずの「知性」と「自制心」。

その「自制心」を自ら手放し、「知性」は「狂気」に逃げたのだ。



「狂気」と「知性」の間は、距離にするとLAから香港までの間である。

どちらから見てもほぼ地の果てという感じだろうか。


LA時代のクラインは一時期ひどく精神を病んでしばらく入院していたらしい。

それは香港に身をおいているクラインの精神にフラッシュバックとなって何度も立ち戻ってくる。

そうして折角自制心を取り戻しているクラインを暗い狂気の底へと誘惑するのだ。


「天使」を汚し、地に堕とすもの。

それは「魔王」ではない。

「魔王」はすでに堕ちたるものだからだ。



人を堕落させるのは常に誘惑である。

天使といえど同じ事。

誘惑に打ち勝っている間は清く正しく美しく天使のままでいられるば、負ければすなわち堕天使となって美しさを失い地の底へと堕ちるのだ。


本来「誘惑」そのものに罪はないと私は思う。

何かに誘惑されてしまう心も、その誘惑に負けてしまう弱さも個人のものだ。

でも人間の精神というものは自分が「弱い」とか「負けた」とか「正しくない」というマイナス感情には耐え続けていける程強靱なものではないので、自分が負ったマイナス感情をプラスに転換させるため、その感情を自分にもたらした原因となったものに非があることにしてしまう。


要するに

「誘惑に負けた自分が悪い」

のではなく

「自分を誘惑した相手が悪い」

という具合に、全部相手のせいにしてしまうのだ。


それができる人はごく普通に幸せに人生を全うできるだろう。

だってこの心理のシステムそのものにさえ疑問を感じなければ、ごくスムーズに「悪いのは全て他人で自分ではない」という最強の見解に基づいて「自分は正しい」と信じて生きていけるのだから。


アダム(男)が知恵の木の実を食べた事は悪いが、それよりもっと悪いのは彼にその行為をそそのかしたイブ(女)であり、さらにもっと悪いのはイブを誘惑した「蛇」(男の象徴だったりするんだけどね)だという事になっているのを見れば、人間の責任転嫁能力は創世記の時代から連綿と続いていることが分かるというものだ。男も女も、互いに悪いのは相手のせいにして人類は生きてきたのである。


しかしそれでいいのだ(天才バカボンのパパは正しい)。

人間はどこかで自分を許さなければ、自分を責め続けて破綻してしまう。

神による赦しだろうが蛇のせいにする責任転嫁だろうが、弱い人間の精神が人生を真っ当するために必要な措置なら、それはその人にとっては行うべき正しい行為なのである(願わくばそれが他人を傷つける事のありませんように)。



LAのどこかの精神病棟でのクラインの姿を思い出す。

彼は常に自分を責め続けていた。

自制心を捨て去るほどに激しく。

全てが自分の罪だと思い込んでいる人間に救いはない。


クラインは「知性」。

透徹した知性は論理によって人生の矛盾を見抜く。

自分の行為を掛け値なしに判断し、そこに非があれば断罪する。

自分自身に対する誰よりも厳しい裁判官だ。


彼は自分が誘惑に負けたのは、自分がそうしたかったからだと知っている。


誘惑に負ければ、天使といえど地に堕ちる。


だからクラインは堕天使なのだ。その精神性の故でなく、誘惑に負けたことを認め、それを許せずにいるがため。


その結果、クラインは生き続けることに耐えられず、自殺さえ計った。命はとりとめても、彼がその時死を決意していた事実は決して変えられない。


「知性」はそしてそのまま「狂気」へと変貌する。

それはアイデンティティーの喪失である。



そう、LAでシタオの父に依頼を受けた時、クラインは人間としてはすでに抜け殻のような存在だったのだ。


「アイ・カム・ウィズ・ザ・レイン」はクラインが少しずつ自分を取り戻していく話として、そこから始まるのである。