アイ・カム・ウィズ・ザ・レイン」公式サイト


*この記事は 


 「アイ・カム・ウィズ・ザ・レイン」――これは救世主の映画なのか?

 

                    ――イ・ビョンホンとショーン・ユーの役目


                      ――救世主・堕天使・魔王――


                    ――天使を地へと堕とすもの――

に続く内容となります。


*画像の下からネタバレになります。


Who killed Cock Robin?








Who killed Cock Robin?



恒例、前回までのおさらい。


これら一連の記事の中で私がやっているのは、「アイ・カム・ウィズ・ザ・レイン」という作品を監督が現在の自分に至るまでの精神の遍歴とし、登場人物達をそれぞれ監督の精神の一側面であるペルソナとして位置づける事である。


ジョッシュ・ハートネット来日時のインタビューを参考にし、各キャラクターに振り分けられていると私が考える監督の精神の側面は次の通り。


メインキャラクターに位置づけられているペルソナ

シタオ(木村拓哉)=救世主=生まれたままの無垢な魂。無私無欲の心

クライン(ジョッシュ)=堕天使=知性。疑問を感じ探求する心

ドンポ(イ・ビョンホン)=魔王=怒り、破壊衝動。自己中心の心


サブキャラとして登場し、メインキャラに深く関わるペルソナ

リリ(トラン・ヌー・イェン・ケー)=魔王の妻=アニマ(女性性)。自己愛

メン・ジー(ショーン・ユー)=天使=知性の一部。社会的常識による自制心



前回、上記の図式に従えば、何故クラインが「堕天使」なのかを考えた。


「堕天使」であるなら当然前身は「天使」であったはず。

何をもって彼は自分を「堕天使」であると規定するのか。


「天使」でありながら、自制できず誘惑に負けた自分が許せないから。


そこに起因する様々な葛藤が彼の中であふれかえり、その全てが最終的に彼の自意識を責め苛む結果となり、クラインは自ら死を選んだ――それが未遂に終わったのは、単に手当が早かったからに過ぎない。



人は狂気から自殺を試みるのか、それとも自殺という行為をしたがる精神から逃げて身(生存を続ける肉体)を守るために狂気に陥るのか、どちらなのだろう?


それがどちらであれ、現代では「目を離すと自殺を企てる可能性のある者」は病院へ送られ「狂気」というレッテルを貼られる。



すなわち「狂気」とは他者がクラインに対して下した判断であり、クライン本人には自分の「正気」と「狂気」を分ける明確な境界線というものは恐らくないのである。


クラインは、シタオの父にシタオの捜索を命じられた時点で、すでに「自制心を失った知性」だった。自分の行動の何が他人の目に「狂気」として映るかを学び、その行動を制御することで社会への復帰を認められた存在。しかし彼の内面はとっくに境界線を見失い、崩壊を起こしていたのだ。


クラインは、いわば抜け殻だった。

人格が崩壊し、様々な部分を喪失した末に最後に残ったもの。

監督自身の最後の拠り所、たぶんそれが知性だったのだ。



「アイ・カム・ウィズ・ザ・レイン」は「知性」がバラバラにしてどこかに置き去りにしてきてしまった自分自身の一部を拾い集めて元に戻していく過程を物語っている。まるでバラバラにされてエジプト中にばらまかれたオシリスの遺骸を妻であるイシスが旅に出て探し、拾い集めた末に復活させたオシリス神話のようでもある。宗教的というよりも、もはや神話に近い物語なのかもしれない。


その観点から見直すと、この物語は本当の始まりはクラインがシタオの父に面会するシーンになるだろう。再生はそこから始まるからだ。


そう、ここで物語られている精神は、かつて一度死んだのだ。


その死は回想シーンにおけるクラインの自殺未遂であり、銃撃されて殺されたシタオであり、相手の望みを叶えるように部下を撲殺するドンポであり、暗殺者を返り討ちにしながらも自分も重傷を負うジーであり、そして麻薬の依存症として緩慢な死の途上にあったリリであり、全てのペルソナが劇中で経験させられている。


彼ら全てを死の淵に追いやったのは、人間の生存本能に逆らってまで自ら命を絶とうとしたクラインであるといえよう。


映画の中で一旦は殺されてしまったシタオは、だから生存本能としての側面も併せ持っているのだろう。「自殺」という行動で断ち切られたとしても、肉体が生きている限り生存への欲求は失われる事はないはずだ。殺されても殺されても蘇ってくるシタオには、監督自身が気づいてなかった自分自身の生存欲求の強さへの畏怖の念がふくまれているのかもしれない。



だからこそ、クラインはシタオを探しに行かねばならなかったのだろう。


「生きる」ことへの欲求を取り戻すこと――それが一番大切なことだったのだ。


では、シタオを探すことをクラインに命じた「シタオの父」とは何だったのか。


劇中、決して顔を出すことのなかったシタオの父。

顔を持たない彼は、だから監督のペルソナ(仮面)には数えられない。


シタオの父ということは、すなわち全てのペルソナの父でもある。

クラインにとってはその全ての要求に問答無用で従わねばならない雇い主。

十字架に磔にされたシタオが叫ぶ「ファーザー」という言葉には、キリスト教における「父と子と精霊」の「父」の意味も含まれているだろう。それは「神」ということだ。「天使」がいるなら「神」も存在していて当然だ。


「アイ・カム・ウィズ・ザ・レイン」における「神」。

それは監督の中にあるスーパーエゴだろう。


スーパーエゴ(超自我)はエゴ(自我)のいわば上にあって、ルール、道徳観、倫理感、自己の規制を自我に伝える機能を持つ(参考:WIKI )。


社会的常識による自制心が自分の中に生まれる前は、行動の規範は自分を育成した存在の意志により決定される。一般的には親による躾で決まるわけだが、自我が芽生える以前のその規制が心の中に残っていて自分の行動を決定づける要因の一部となっているわけである。



バラバラになり、カオスの状態になっているエゴに、それでも鞭打つようにひっきりなしに投げかけられてくる言葉。耳を貸したくなくても、聞かざるを得ないエゴよりも以前からそこにある心の声。


それがクラインに命じたのだ。

知性によって引き裂かれた心なら、知性によって取り戻せ。

罪悪感と自己憐憫に浸るのはもうおしまいだ。

立ち上がれ。

立ち上がって、一歩を踏み出せ。

そして再び、生きる力を取り戻せ、と。



クラインが探し出さねばならないシタオとは、表層意識の上っ面にしか存在しない知性には計り知れないほど大きな力を秘めた生きる欲求、生存本能そのもので、それはこの世に生まれ落ちた直後から保護者とは強い絆で結ばれるものなのだろう。だからスーパーエゴは「シタオの父」としてこの映画の中に登場する。決して「クラインの父」ではないのである。


その父とシタオの関係はほとんど描かれていない。

極度の潔癖症から他人とはカメラとマイクを通じてしか接触しない父親は実体を持たないも同然である。

それでも父親は子を深く思い、子であるシタオは命の危機に際して「ファーザー」と父の名を絶叫する。

それはこの世の親子関係を超えた父と子の在り方だ。

シタオの父は、この物語の中でまさに「神」なのである。



「神」の命じに従って、クラインはシタオを探しに行く。

エゴの上に君臨するスーパーエゴが、彼に生きろと命じるから。

知性は暴走するとしばしば自分が生命体の一部であることを忘れてしまう。

あたかも「知性」だけが人格であるかのように思い込み、可能ならば「幽体離脱」を果たしたアストラルボディー(幽体)となって、無駄な感情とも肉体に囚われた本能とも無縁な生活(それを果たして「生活」というのかどうかはおいといて)をおくりたいと夢想する。


修行すれば仏陀のように悟りをひらいたり、仙人になって天に昇ったり、といった事が可能になるかもしれない……と、考えてきた人間は古来たくさんいたのである。


しかし本気で断食したら、人間普通は悟りをひらく前に飢えて死ぬ。仏陀だって餓死したら何にもならない気づいて乳粥を貰ったから、その後生きて教えを広めることができたのだ。



「生きる」ことは決して綺麗事ではないので、「真理」=「美」を求める「知性」は、しばしば自分も「生きている」ということに対し、臭い物に蓋をするように見て見ぬふりをしたりする。


しかしそれは自己欺瞞だ。



実際に「死」に直面した時、人は初めて自分の中にある生存本能の強さ、「生きたい!」という欲求の強靱さに気づくのだろう。無邪気な「知性」が甘美に憧れる「死」はその時を境に忌避すべき存在へと変貌と遂げるのである。



そのことを「知性」に実感させるべく、シタオの父はクラインをシタオ探しの旅に出させる。生命の根源を今一度しっかりと認識させる旅へ送り出すのだ。野蛮ともいえる自然、原始的な程に濃い緑したたる熱帯雨林へ。


LAも確かに緑はたくさんあるが、それはほとんどが計画されたものだ。

計画的な近代都市の中で見失った生存本能を取り戻すため、クラインは生命のるつぼのようなミンダナオ島へ趣かされる。


シタオはそこですでに一旦殺され、その後蘇っているのだが、それはキリストの復活をほのめかすと同時に彼が常に濃い緑の中に暮らすことからまるで神の死体から五穀が実る死体化生神話を見るようでもある。



シタオの父=神は、決してキリスト教のそれと同一ではない。

キリスト教的な体裁をしながら、その中にもっと複雑な宗教観を包含している。



その複雑な「父」を知るために「知性」は己を研ぎ澄まし、結果、自分自身を見失ったのだろうか。


だからこそ「知性」にもう一度命をふきこむため、「父」は天上から降りてこなければならなかったのだ。

「知性」が死を選ぼうとしたその遠因は、「父」自身にあったのかもしれないのだから。