*この記事は
「アイ・カム・ウィズ・ザ・レイン」――これは救世主の映画なのか?
に続く内容となります。
*画像の下からネタバレになります。
前回付け加えたのは
・監督自身の精神の側面をうつしているペルソナ(メインキャラクター達)の上にスーパーエゴが存在している。
・それは映画の中ではシタオの父として顔を出さないまま登場し、クラインにシタオの捜索を命じることで、暴走の末狂気に走った知性(クライン)に生存意欲(シタオ)を取り戻すきっかけを与えた。
・そのスーパーエゴ=シタオの父は父でありかつ一種の神として監督の中に存在するものだが、それは必ずしもキリスト教に限られた宗教観とはいえないようだ。
ということぐらいだろうか。
キリスト教的な神や天使といった言葉にあてはめて説明するのは分かりやすくて便利ではあるのだが、そろそろ難しくなってきた。
「アイ・カム・ウィズ・ザ・レイン」という作品にトラン監督の全てが込められているわけではない。自己表現の限りを尽くしたような映画ではあるが、しかしそこに描かれていないものも頑として存在する。
それは「母」の存在だ。
この映画の中に「父」はいるが(そして神も同然だが)、「母」はいない。
シタオの母については確か死別という情報があったと思ったが、その他のメインキャラクター達にはそもそも両親さえいそうにない。ペルソナだけに、アニメのキャラクター同様、役目を振られてポンとその場に今の形で生まれ落ちたという感じである。もちろん彼ら全ての父親はスーパーエゴであるシタオの父が兼ねているわけだが、では母親はどこにいるのかと見回せば、どこにも存在していないのである。
映画の中には瀕死の重傷を負った子の母とか、娘に連れられ病を癒しに来たらしい老母とか、記号としての「母」は登場する。しかしそれは全て他人の母親である。
メインキャラクター達の、ペルソナ達の母はどこにいるのか?
彼ら、すなわち監督自身を生んだ母は、母性の象徴はどこにいったのか?
それはどこにもない。
この映画の中の「母」は空虚である。
母でも娘でもない女達はすべて娼婦のようで、将来一家の主婦となり母親となって子どもを守り育てていくであろうという母性の存在を微塵も感じさせてはくれない。彼女達の仕事ぶりさえ、生殖に直結する部分は決して見せていないのである。
実際、この映画の中では、命は女性を介さずに生まれてくるではないか?
一度死んだはずのシタオが蘇るというのは、新たな生命がそこで勝手に生まれたことを示唆してはいないか?
シタオの亡骸には蛆がたかっていたが、その前段階である蝿が卵を産み付ける場面はない。何もそこまでして母というものを排除しなくても、とさえ思ってしまう。
娼婦=男性の性欲のはけ口と考えれば、実の所それは「女」である必然性はない。ものの本によれば人間である必要も、人の形をしている必要さえないそうである(聖書で獣姦を禁じてるのは、それを実行していた男がいたってことでしょう)。
娼婦さえも記号としての「女」でしかないとすれば、「子どもを産む性」としての女=「母」が出て来ないこの作品には「女性」が存在しないことになる。
監督は男性だからそのペルソナが全て男&男の中の女性性であるアニマであるのは不思議はないが、しかし、普通男性は、自分の母親に対して思慕を抱くものではないのか? 俗に「マザコン」という言い方があるけれど、男の子にとって異性を意識する最初の存在は自分の母親ではなかったのか?
その母親が、ここにはいない。
父なる神が一神教として父権をふりかざすキリスト教でさえ、母なるものへのあふれる愛をせき止めることができずマリアを聖母として認め、従来の地母神信仰を吸収したというのに。
「アイ・カム・ウィズ・ザ・レイン」における母なるもの、それは男の子が意識する異性としては存在しない。それは人間でさえない。
それは単に命を宿すもの。
聖母マリアがイエスを処女懐胎で授かったように、自然に命が宿るもの。
大地そのものなのである。
シタオの亡骸は自然にできた洞穴に放り込まれた(と思う。さすがにもう記憶が定かじゃないので)。傍らを水が流れるその洞穴は、まるで子宮のようではないか? 大地の子宮の中でシタオは自然に新たな命を授かった。処女懐胎の赤子のように。だから彼はキリストにも似た癒しの力を得たのだろう。
映画の中でシタオは二度殺される。
二度目は大地の上に置かれた板に両掌を釘付けにされ、放置されて。
ドンポが打ち込んだ釘はシタオの掌を貫き、下の腐った板も貫き、そのとがった先を地面に突き立てただろうか?
その時シタオが流した血を、大地はしっかりとその身に留めたのだろうか?
大地はシタオの体液である血液を受けて命を宿した。
しかし血液に含まれるゲノムが作れるのは同じゲノムの複製だけ。
だから大地が生み出せるのは常に同じシタオでしかないのかもしれない。
複製するだけで進化のない生命の連鎖。
始まりは終わりに戻り、終わりは始まりにつながる。
それはまるでクラインの壺
。
「アイ・カム・ウィズ・ザ・レイン」の世界では、男性が自分のゲノムだけで自己の複製=自分の命の再生産を行っているのだ。だからその世界において母となる女性はもう必要のない存在なのである。
さて、そこで疑問は最初に立ち戻る。
何故、監督は、自分の作品世界から母を排除したのか。
自分自身の母に対する思いも、自分の子どもの母となるはずの女性も、そこにはいない。
(監督自身は「アイ・カム・ウィズ・ザ・レイン」でリリを演じた女優であるトラン・ヌー・イェン・ケーさんと結婚しているそうなので、以後書く事は監督本人ではなくその作品世界の事である)
何故、自己のゲノムによる自己複製という形の命の再生産を作品の中で呈示するのか。
――それは、普通の形での子孫の誕生を望めないからではないのだろうか?
男性と女性のゲノム一組ずつで誕生する新しい個体の生命、すなわち赤ん坊という形での生命の連鎖は「アイ・カム・ウィズ・ザ・レイン」の中ではあり得ないのである。
それは女性を相手にした生殖行為ができないということだ。それが心の問題なのか体の問題なのかは別にして。
「チェイサー 」という韓国映画がある。
これは大変おもしろい傑作なので見た方もいるかもしれない。
この映画にはある「犯人」が出てくるのだが、この犯人のような人が現実に存在して、犯罪を犯すほど頭が悪くなく、それどころか芸術的に秀でた感性を持っていたとするなら、彼が作る映画はひょっとしたら「アイ・カム・ウィズ・ザ・レイン」のような作品になるのではないかと私は思った。
クラインが香港の警察署で見かけた時のシタオの、傷だらけになった身体の表現を見た時に。
シタオのナイフで切り裂かれたような傷口は、そこから穀物を芽生えさせる神の遺骸のようでもある。
ドンポによって釘付けにされ大地に抱きとめられた時、或いはシタオ自身が生命を生み出す地母神の役目を担っていたのかもしれない。