*画像の下からネタバレになります。
「MW -ムウ-」は何故か読む気のおきなかった手塚マンガだった。
だから映画化されたと知った時も、見るのにそれ程乗り気ではなかったのだけれど、せっかくのいい機会だからここでこの作品に触れておこうと思ったのだ。
私は手塚治虫の熱心なファンというわけではないので、当然読んでいない作品もたくさんある。
「アトム」や「リボンの騎士」といったファンタジックで美しい手塚作品が好きだった私にとって、たぶん「ムウ」は最初から毛色が違う事を感じさせる作品だったのだ。理由は分からない。だが幾らでも手にとって読む機会はありながら、一切食指が伸びなかった。決して手塚のダークな作品群がキライだったわけではないのだが、これだけは何故かいやだった――そうだ、思い出した、私は「ムウ」というカタカナのロゴも「MW」というアルファベットのロゴも、そのデザインが嫌いだったのだ!
ロゴのデザインを見るだけで嫌悪感がはしっていたのでは、そりゃ作品を読む気にはならないだろう。
たぶんそのロゴはすぐれたデザインで、そのイメージを通して作品のテーマを伝えていたに違いない。
それがその時の私にとっては読みたくないテーマだったため、嫌悪感さえ感じて作品に近付かないですんだということだ。デザインが人に及ぼす影響はとても強いのである。
歳月を経て再びであった「ムウ」は、映画化作品ということで様々な部分が現代的に洗練され、原作本来がもつ「私が嫌悪感を感じた部分」というのは薄められていた。だからこそ見る気にもなったのだが、こんな作品だったとはまるで思いもしなかったものだった。
映画「ムウ」を見ながら、中盤からずっと思い出されていたのが同じ手塚の「メトロポリス」である。
これも若い頃はなかなか読む機会のなかった作品で、確か映画化された時に復刻版か何かで手にとったのが記憶にある中では初めてある。
「メトロポリス」のメインキャラは天使の美貌と悪魔の能力を持ち、それを最大限利用して地球を荒らし回った挙げ句、あたかも体内に時限爆弾を抱えていたかのように最後の瞬間には変わり果てた姿になって死んでゆくのだ。それはまるで「ムウ」の主役である結城美智雄にそっくりではないか?
「メトロポリス」の、あのギリシャの彫像のような美しいキャラクターの名前は何だったけ、と映画を見ながらずっと思い出そうとしていたのだが、思い出した瞬間にはひどく衝撃を受けてしまった。
そのキャラクターの名前は「ミッチイ」。
私は何故手塚が「ムウ」の主人公の名前を「美智雄」にしたのだろうと(原作では「美知夫」だそうだ)と名付けたのだろうとずっと疑問に思っていたのだが――というのもこの手のキャラクターの名前は「ロック」とか「緑朗(ろくろう)」であるのが手塚マンガでは常套だったから――、その疑問がその時氷解したのであえる。
結城美智雄は、「メトロポリス」の時代から現代に生まれ変わったミッチイだったのだ。
少年にも少女にも姿を変えられる人造人間のミッチイは一種の両性具有者で、それはそのままなまめかしい美貌を誇るバイセクシュアルの青年の姿に重ねられる。彼は男も女も同様に翻弄できる、この世で最強の存在なのだ。
手塚の初期の作品である「メトロポリス」。これは今読むとあまりに短い。当時のマンガはストーリーを追うだけでディテイルにこだわるという部分がなかったから当然ではあるのだが、今読むとあまりに惜しいのである。今ならば、もっともっとサイドストーリーを盛り込み登場人物の感情や生い立ちを描写して長く深い物語にできたはずなのだ。
その思いは恐らく手塚にもあったのだろう。
とはいえ同じストーリーで二度同じマンガを描くことは彼の芸術家としてのプライドが許さなかったに違いない。
だからコンセプトはそのままに、現代に沿った、そしてもっと暗くてどろどろしたストーリーを練り上げた(当時はそういうものが流行していたのかもしれない)。
それが「ムウ」として結実したのだろう。
タイトルの「MW -ムウ-」。
私がそのロゴを見て不快な気持ちになったのは、実はそのMとWが「MAN」と「WOMAN」のイニシャルであり、そのデザインがアルファベットもカタカナも男女の隠喩に見えたからなのである。当時の私にはその隠喩は背徳的な男女の営みにしか思えなかったものだが、実はそれは両性具有の象徴でもあったのに違いない。デザインに背徳的な匂いが漂っているのは、ひょっとすると当時は今以上にずっと背徳的とされていた男色が描かれている内容であることを示唆していたのかもしれない。
私が見たのは手塚作品を原作とした映画なので、ひょっとしたらこの「ミッチイ=結城美智雄」説は監督の頭の中にあるものなのかもしれないが、恐らくその解釈は正しいのだと思う。
美智雄のフォローをする賀来裕太郎は、「メトロポリス」では主役だったケンイチにあたる。本当は「メトロポリス」でも主役はミッチイであるべきなのだが、当時悪役を主役に据えることは子ども向けのマンガではできなかったのだろう。悪役であり同時に主役であるという本来の性質に戻り、ミッチイ改め結城美智雄は「ムウ」の中でより光り輝いたのではないだろうか?
その輝く美貌は、ある時がくると瞬時にして失われてしまうものなのだが。
ミッチイも結城美智雄も、予め決定されている期間しか生きられない。
だが彼らにはその最後の瞬間をみとってくれる人がいる。
それは最初から決まっている。
だからこそ、彼らはその短い生を精一杯輝かせる事ができるのではないか?
恐らくこれらの作品の中で手塚のポジションはみとる側なのだ。
自分の憧れであり理想の存在である両性具有の、男にも女にも平等に冷酷な天使に仕え、振り回され、後始末をしながら、しかし彼らの生きた証は自分の存在なくしてあり得ないと知っている存在。
彼らの物語をマンガとして作品に残すことで、キャラクターに永遠の命を与えられる希有な漫画家。賀来の生き方は幸せだったといえるのか?
手塚治虫本人が亡くなっても、こうしてその作品は新たに世に出続ける。
手塚自身もケンイチとして賀来として、その人格の一部を作品に閉じ込めたことで永遠の命を与えられたのかもしれない。
だが、目の前で愛するものに死なれたケンイチはその後幸せだったのか?
案外、死んでしまった方が楽だったのではないのか?
その答えはわからない。
わからないが、たぶん、彼らはミッチイや結城が生きている方が自分は幸せだと思っていただろう。それだけは確かである。