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*画像の下からネタバレになります。

Who killed Cock Robin?





Who killed Cock Robin?



症状、といっても役者が演じる事だから現実とは違うのだろうが、しかし「ビューティフル・マインド」でジョン・ナッシュを演じたラッセル・クロウはゴールデン・グローブ賞で、「シャイン」でデイヴィッド・ヘルフゴッドを演じたジェフリー・ラッシュはアカデミー賞で、それぞれ主演男優賞に輝いているわけだし、本作でナサニエル・エアーズを演じたジェイミー・フォックスもれっきとしたオスカー俳優なのだから、彼らがスクリーンで見せてくれる状態は恐らくとても真に迫ったものなのだろう。


彼ら三人の示した特有の反応はとてもよく似ていた。


その特有の反応を「症状」と呼び、同じ「症状」を示す行動様式を一種の「やまい」ととらえるならば、恐らく彼ら三人は同じ部分を病んでいるのだろう。それは医者が判断することで私がどうこういうことではないが。


ナサニエルがその名前をいやがったので、ここでは病名を書かない。

この映画の一番大きなメッセージは、診断を下し病名をつけて治療しようとしてもその人は幸せになれない、だったし。メッセージとは別に、映画のテーマは全然違う所にあったし。


ただ、私は思ったのだ。

デイヴィッドとナサニエルは音楽を、ジョンは数学を極めようとしていた。或いは極めたのかもしれない。

そういう人達が何故、あんな風になってしまうのだろうと。

音楽も数学も完全な調和、完成された美を作り出す(らしい)。

この世の中に完璧なものがあるとすればそれは音楽と数学で、まさにその二つの学問を通じて人は神に近づけるのではなかったのか?


「マトリックス」の中でエージェントがこんな事を言っていた。

最初に作り出した世界は完璧だったため、完璧さについていけずにその世界の人類は全滅した、と。


人は所詮人。

例え音楽や数学といった限られた世界においてでも神に近付くなどおこがましいという事なのだろうか?


それとも、完璧なものが手の触れる程近い所にあるはずなのに、ガラス一枚隔てているかのようにどうしてもそこに手が届かず、その近くにみえて無限に遠い距離を埋めようとして刻苦精励するあまり……脳の中のどこかが焼き切れてしまうのだろうか?



そういえばナサニエルはチェロの、デイヴィッドはピアノの演奏家だった。

演奏家というものは、努力すればするだけ自分が完璧に近づけると信じているものではないだろうか?

自分が完璧じゃないのは練習が足りないため。練習さえすればいつか完璧を自分のものにできる日がやってくると、無条件に思い込んでいるのではないだろうか。


自分に限界がある等と思いもしないでただひたすら完璧を目指して練習に打ち込む日々。

それは決して苦痛ではないはずだ。

何故なら自分は演奏しながら美しい音楽の一部となって心を天上に遊ばせているのだから。

苦痛はむしろ、現実に帰って来る所にある。

現実に立ち戻り、ゴハンを食べたりオフロに入ったりしなければ、肉体は滅びてしまう。肉体が滅ぶと共に心も一緒に消滅する可能性がある限り、心の存続のために肉体を保持しなければならない。

それはかなり面倒臭い事なので、こういう時に人間は心と体が切り離せればいいなあ等と夢想するのである。

他愛のない夢想でもそれで現実を容認することが軽くなればいいのだが、そういう息抜きの上手くできない人は音楽の醸し出す理想の世界と現実世界のギャップに次第についていけなくなるのかもしれない。


作曲家であれば、自分の理想の音楽は自分の頭が作り出すのだから、その完全な雛形は自分の頭の中にしかないと知っている。

指揮者であれば作曲家が書いた譜面から自分なりに解釈した和音の集大成は自分の頭の中にしか存在しないと知っている。


彼らが演奏家に要求するのは、だから完璧な音楽の完璧な再現ではなく、能う限り最大限に近づけたものに過ぎないのかもしれない。それはもちろん完璧なものが欲しいには違いないだろうが、演奏者は人間で、人間には限界がある。限りなく完璧に近付こうとも「完璧」そのものを要求するのは酷な事なのだ。


しかしナサニエルもデイヴィッドもまだ学生で、人間には限界があるということを知らされないまま(当たり前の事なので誰も教えてあげなかったのかもしれない)、そして恐らく自分自身ではその事に気づかないままただひたすら練習に練習を重ねた挙げ句……デイヴィッドは自分の心の一部を切り離して天上に置いてきてしまい、ナサニエルはつまらない現実との戦いに敗れ去ってしまったのだ。


自分の頭の中に流れる美しい音楽、演奏者はそれを他人に聞かせなければならない。自分の奏でる音を自分の耳は聞き、そしてそれを自分の頭の中の音楽と比べ、落差があればそれを自分の努力で埋めようとする。真面目で誠実であればあるだけ、演奏家の歩む道は厳しいものになるのだろう。


音楽は、のめりこめばのめりこむだけ、その人を「もっていってしまう」。

自分が歌ったり聞いたりした曲のメロディーがいつまでも頭の中に残る経験をした人は多いだろう。

音楽は人を支配する。音で人の感情をコントロールし、その人の人格を奪い去るのだ。

まあ、普段聞き流している程度なら別に何てことはないのだが、一つの曲を徹底的に演奏すると音符や休符のひとつひとつから、まるで作家が書いた小説の文章のように、作曲家のその時の意志や感情が伝わって来るのである。


それを現実に身体が振動する「音楽」として体験すると、頭の中だけでメロディーを再現するのとは桁外れの感動が生まれてくる。


そんなものを練習曲として何度も何度も体験してたら……芸術家の感じやすく傷つきやすい若い魂はそれだけで壊れてしまうのかもしれない。音楽に自分の中身を全て奪い取られ……そして戻って来て直面するのは学費とか狭い部屋とかそういったできれば直面したくないことばかり。その落差の生み出す苦痛がが激しければ、行ったきりになってもう戻って来ないか、さもなければもう行かずにその場に留まるか、道は二つしか選べなくなるのではないだろうか?


それとも音楽を司る部分だけを現実のつながりから断ち切るとか。


ナサニエルやジョンの頭の中には誰も、彼ら自身さえ入り込めない部分があって、そこには切り離された彼らの音楽だけが完璧な調べを荘厳に鳴り響かせているのかもしれない。その切り離しの際に、現実に適応して社会生活を営むのに必要な回路もダメージを受けてしまい、それで反応の様相が変わるのかも。



いずれにしても人間の精神というのは不可解である。

何故、彼らはそうなってしまったのか?

それは、たぶん、自分で自分を守るためだったのだと私は思う。


だって、音楽に身を捧げるあまり、ゴハンを食べるのを忘れたら、人間死ぬじゃないですか。


彼らの生存本能が彼らを生かすために見つけた方法が、それだったのだろう。


他人の目からは決して理解できないが、彼らにはそうなることが必要だったのかもしれない。そうなってしまった結果、現代社会に上手く適応できないからといって、それを私達が一方的な価値基準にあてはめて良し悪しを決めることはできないと、この映画は言っているような気がした。


「路上のソリスト」は美しい心に輝いているのだ。