生き返ってくれたら未完で終わった「レクィエム」を是非とも完成させてもらうのだ。

映画「アマデウス」を見た方はお分かりだろうけど、モーツァルトは「レクィエム」を完成させる前に死んでしまった。未完の曲は弟子によって補筆完成されたけれど、それでももしモーツァルトが生きて完成させることができたならよりすぐれた傑作になったであろうことは間違いない。

この四部合唱のモーツァルトが手がけた部分を歌っていると、あまりの完成度の高さに歌っている最中から天の高みに連れて行かれそうになる。

いや、その美しさは楽譜を開いた瞬間に息を呑むほど美しい譜面にすでに現れているのだ。

例え楽譜が読めないとしても、5線の上に繰り広げられる音符の黒玉の並びと休符のスペースが織りなすバランスの絶妙なことは分かるだろう。それはまるで完成されたテキスタイルのデザイン画を見ているようだ。

しかしモーツァルトの天才が分かるのは、実際に歌った時である。
歌詞を読み上げることによって発声される言葉の音(おん)一つ一つが上下する音階の音符の一つ一つにぴたりとはまると、自分の口から出てくるメロディーの美しさに酔いしれてしまう程だ。

「レクィエム」で歌われている内容は案外単純な繰り返しが多く、「キリエ」などは

Kyrie eleison.
Christe eleison.
Kyrie eleison

主よ、あわれみたまえ。
キリストよ、あわれみたまえ。
主よ、あわれみたまえ。

の純然たるリピートにすぎないのだが、これがモーツァルトの手にかかると常に上昇を続け昂揚を高めていく神への愛の究極の発露になってしまう。言葉とメロディーとリズムと和声の完璧なる調和が歌う人間の情動を駆り立て感情を爆発させてくれるのだ。幸いなことに、どれだけ爆発させても元が神への祈りの言葉なので暴力には至らない。自分の中が美しさで満たされる幸福を体で味わうだけである。

歌っていて大変不満な事に、この感激は「レクィエム」の途中で終わってしまう。
10曲目まではなんとかモーツァルトの手が残っていて合唱部分で歓喜を味わうことができるのだが、11,12曲目にはそれもない。それまで感極まって歌っていたのがこの2曲を歌うと気持ちが一気に萎えてしぼんでしまう。14曲はモーツァルトの書いた1曲目と2曲目が彼自身の指示によって使われているが、なんとなくギクシャクした感じが残っているためオリジナルの1曲目2曲目を歌った時に感じる充実感や達成感は味わえないのである。


できるなら、最後までモーツァルトが全部書いた「レクィエム」の合唱でソプラノを歌いたかった!
その完全な音楽を自分の体を通じて感じる事ができたなら、歌い終わったあとにその場で倒れて死んでも満足だっただろう。究極の歓喜を味わうことができたのだから。

歌うことは純然たる快楽で、その最高のものを与えてくれるのがモーツァルトなのだ。


ま、そういう意味ではモーツァルトが「レクィエム」を完成させないまま天に召されてしまったのは、それこそ天の配剤だったのかもしれない。

だって、「レクィエム」を演奏するたびに合唱団のメンバーから何人も死人が出たんじゃ大変だもんね。そうなったら「致死合唱曲」として音楽自体が封印されてしまう。

今の形で歌えるのは、ある意味ラッキーなのかもしれないです。