自分一人が精一杯生きるのなら人生に勝ち負けなんてないはずだけど、人はつい、他人と自分とを見比べてしまう。
そして他人に比べて自分が見劣りすると思った時、意味もなく敗北感を味わうのだ。
その敗北感をはねのけるためには、相手を見返すしかない。
見返すためには今の自分を変えるための努力をしなければならない。
「サンシャイン・クリーニング」はその努力の過程を描いた作品である。
*この下からネタバレになります。
未見の方は御注意下さい。
上に書いたのは予告編で見当をつけた話であり、まあ実際映画の大部分はその過程をコミカルに描いているのではある。
ただ普通のコメディーだったらその努力が実って「がけっぷち姉妹」が見事成功を収め、周囲の人間を見返して達成感&勝利感を味わってめでたしめでたしになるところ――ならないんですね、この作品は、ええ。
予告編で判断した私が甘かった。
そ、これは「リトル・ミス・サンシャイン」のプロデューサー達が選んだ脚本、一筋縄でいくわけがない。
「リトル・ミス・サンシャイン」は、絆を失っていた家族が自分達のそれぞれ大切にしていたものを全て失ったあとで、最後に残されたのは家族しかいないことに気づいて再生を果たしていくという物語だった。
「サンシャイン・クリーニング」も同様で、登場人物の姉妹は成功を収めたりなどせず、無一文になるどころか借金まで背負ってしまう。
それでも、そうなったことで自分自身を見つめ直すきっかけが生まれ、そうして人生の新たな第一歩を踏み出すことができる、というのがラスト。そうすることで初めて本当の幸せがつかめるかもしれないという予感を匂わせてエンディング。でも見ている間はかなり辛い。
とはいえ、人生において誰もが「勝者」になれるわけではないし、努力が必ずしも報われるわけでさえないから、この作品が共感を持って受け入れられたというのはよくわかる。
でも、この作品の本質はそんな生やさしいものじゃない。
姉妹が背負っているのは、母の自殺した姿を目撃したという重い過去。
それも明るい夏の日、キラキラ光る水を浴びて二人で跳ね回り、一生で一番楽しい思い出を作ったその直後の急転直下の悲劇。
自分達が夢中で遊び呆けていなければ、ひょっとしたら母の自殺を止められたかもしれないという悔恨は、恐らく姉妹のどちらも感じただろう。
妹のノラの心はだから常に揺れている。
「自殺でも死んだ事がはっきりしている母と、生き別れで生死不明のままの母と、どちらがいいんだろう」と。
彼女の結論は
「死んだ事がはっきりしている母の方がいいに違いない」
だった。
ノラの母は死んだ事が明白で、彼女自身はそれで自分の人生なんとかやってきたと思っているからである。
だから彼女は、他人の結論もきっと自分と同じだろうと推理した。
ノラの自問はつきつめれば
「母に捨てられるのと、母を捨てるのと、どちらがいいか」
という命題になる。
ノラはほんの幼い頃に母を亡くし、トラウマを受けた心の一部はそこで成長が止まっている。幼い子にとっては母に捨てられる程ひどい苦痛はないだろう。だから彼女は自分と同じ苦痛を味わったであろう女性を探し、友達になって、苦しみを分け合おうとする。
ノラにとっては、行方不明の母を持つその友達よりも母の死を知っている自分の方が多少はマシなはずだから、彼女が母親の死を受け入れるまで力になってあげられるはずだという期待もあったのだ。誰かの力になれるだけの自分になって、自信をつけたかったのだろう。
ところがようやく見つけたはずのその友達、リンは母親が家を出て行方知れずになっていたのではなく、アル中の母親に見切りをつけて自分から縁を切った女だった。
リンはリンでで母親のアル中に長く苦しめられたのだろう。苦痛の根源は「生きている母親」だったわけで、「母の死」ではない。彼女にしてみれば大人になり独立した生活をめてからは「母親が生きている」という現実から目を背けて生きて来られたのに、のこのこ現れたノラが親切顔で「母の死」を伝えてくれた事で再び「母が生きていた」という苦痛に直面しなければいけなくなったのだ。母を思い出させたノラの顔など、二度と見たくないという彼女の気持ちもまたよく分かる。
しかしノラにしてみれば己の親切心があだになり、折角の新しい友達の心を傷つけ、その結果自分の心まで深く傷ついた事になる。結局、自分の苦しみが分かる人は他にはいない。分かるのは、自分と一緒に母を見つけた姉だけだ。
姉のローズの方は、毎日一生懸命生きている。
努力に努力を重ねているのに、でも何故か人生上手くいかない。
何故なのかは本人も薄々気づいている。でもそれは絶対に認めたくない。認めたくないから、ますますがんばる。でも、がんばるための土台がしっかりしていないから、小石の上に大きな石を積み重ねていくようなものでいつか必ず全部がひっくり返る日が来る。
ひっくり返ってもひっくり返っても、ローズはまた小石を一番下に置いてから石を積み始めるので、常に不安定なまま再びひっくり返る日まで頑張り続けるのだ。
その小石とは学生時代の恋人で、とっくに他の女と結婚して子どもまで作っているのにローズとの関係を絶たないクズ男である。それも不倫であって、いわゆる愛人ではない。つまり、その男がローズの生活全般の面倒を見ているわけではないのだ。たまにくだらないプレゼントをよこすぐらいである。
ローズがどうしてそんな男との関係をいつまでも、いつか結婚して貰えるかもしれないという希望的観測のみに基づいて続けているのかは語られない。恐らくよくあることだからだろう。
何故彼女がそんなクズ野郎といつまでも切れないでいるのか実は私にはよく分からなかったのだが、彼、マックとローズは高校の時は人も羨む花形カップルだったらしいので(その男がスティーブ・ザーンというのが私にはイマイチ解せないのよね~。ブラッド・ピットならともかく)、自分が一番輝いていた頃を思い出せるからなのかもしれない。
しかしそんなローズにも現実を直視する日がやってくる。
マックの妻に不倫していることを知っていると面と向かって言われ、それで嫉妬されるならまだしも、蔑まれたのである。
つまり、彼の妻は、夫とローズの付き合いが遊びでしかないことをよ~く理解していて、それで離婚する気は微塵もないということだ。彼女にその気がこれっぽっちもないのなら、マックが離婚なんかできるわけがない。
それに気づいたローズが自分からマックに別れを告げる。
それは、ローズがマックなしでも高校の頃の人気者だった自分を取り戻せるかもしれないとほんの少し自信をつけたからでもあるのだが、それを自分自身に証明しようとして当時のクラスメートが集まるパーティーに無理をして出かけたことが彼女にとって裏目に出ることになる。
ここでローズが成功した姿を見せてめでたしめでたしかと思わせておいて、どんでん返しもいいところだ。
フィクションとはいえ、こんなにがんばってるローズが不幸のどん底に落ちなければいけない理由はどこにあるのだ?
不倫はもう清算したはずなのに? それにどちらかというと、ローズは男にだまされてた側じゃないか?
人生とはそういうものだからか?
人生の初期段階において道標となるべき母親を自死という形で失ったせいか? それは彼女のせいではないではないか(たぶん)。
とはいえ脚本家はローズを責めているわけではない。
ローズの不運の元凶であるノラを責めているわけでもない。
逆にローズやノラのように人生の舵取りを上手くできない人々を見捨てない優しさを作品の中に込めている。
どんなにがんばっても、土台があやふやだったり方向性を間違ったりしていて、上手に人生を渡っていけない人はたくさんいる。それは彼や彼女だけに原因があるわけではない。彼や彼女の力の及ばないところで何かの力が働いているのかもしれない。
重要なのは、へこたれずにやり直すこと。
できれば、自分が最初にどこを間違っていたのか突き止めて、そこからもう一度やり直すこと。
ローズとノラの抱える問題の一番底にあったのは、自分達が母親の死んでいる姿しか覚えていないことだった。
その血まみれの姿があまりにショッキングで、生前の母の姿を思い出すことができなくなったのだろう。
彼女達を苦しめていたのは「死んだ母親」。
現実に葬った挙げ句、心の中にさえ生きた姿が残っていない「死んだ母親」。
ローズとノラは、生きている母親の記憶をなくしたことで、まるで自分達自身が母親を殺したように感じていたのかもしれない。母親の肉体を滅ぼしたのは母親自身だけれども、その魂を葬り去ったのは自分達であるかのように。
彼女達が生前の母の姿を自分の中に取り戻した時、ようやくそれまで二人の心に重くのしかかっていた枷が外れる。現実の生活では全てを失ったに等しい二人なのに、その時始めて心から満たされたような顔になる。「死んだ母親」の呪縛を「生きている母」が解いてくれた瞬間だ。
ただのエピソードでしかなかった母にまつわる話が血肉を備えた母の姿として蘇ったことで、母の亡骸と共に葬られていた姉妹の魂も再び彼女達の肉体に舞い戻ったのだ。生き返ったように溌剌とした表情のローズとノラに、今度こそ幸せになれそうな予兆を見せながら映画は終わる。
映画の中で姉妹が始める事業は事件現場の清掃。
人がそこで死んだという形跡を消し去るのが仕事である。
でも、幾ら現場を綺麗に掃除して痕跡を消し、あたかも何ごともなかったかの如く復元してみせたとて、そこで人が死んだという事実は消せない。
表面は気丈に振る舞いながら「母の死」に深く傷つき苦しんでいるローズを見ると、愛する者を失うことの悲痛さが伝わって来る。
反面、いつまでも「母の死」にとらわれているノラからはその記憶を消し去ってあげられたらと思う。
「母に捨てられるのと、母を捨てるのと、どちらがいいか」という問題の解答が人によって違うように、人それぞれによって解答は様々なのだろう。
解答を出すのが「サンシャイン・クリーニング」のテーマではない。
これは問題を観客に呈示する作品なのである。