「ウルトラミラクルラブストーリー」公式サイト


「ウルトラミラクルラブストーリー」公開に先立ちWOWOWで横浜聡子監督を特集した番組が放送された。


クエスト~探求者たち~

その才能は奇想天外 映画監督横浜聡子」(こちら


録画したのを最初の方を少し見ていて、「ウルトラミラクル~」のネタバレがありそうだったので慌てて飛ばして最後の方だけをまた少し見たのだが、そこで紹介されていた映画学校の卒業制作か何かで作ったというフィルムを見ていてビックリ仰天してしまった。


そこで紹介されていた映像は作品のラスト直前で、それまでほとんど画面に登場することのなかった友人の家に向かって主人公が歩いているのだが、その主人公の目の前を何故か突如ガス爆発にあった友人が吹き飛ばされて横切っていくのである。その友人はその時もう死んでいるのか、その後地面に落ちてから死ぬのかはともかく、いずれにしろ免れ得ない死を約束された人体――死体そのものなのだ。


「死」というものを覆い隠そう覆い隠そうとする日本において、このような生(なま)な形の死にいきなり直面させる映像というのはかなり珍しい。


なにしろ空を飛んでいく主人公の友人の「死体」はかなり間が抜けているのである。


そこには一切の「美化」がない。


死による登場人物の神格化もなければ、ブラックユーモアとして笑いのめす事で「死」そのものから目を背けさせようという意図もない。死んだ人を悼むという行為さえ描かれない。


死は「死」であり、生命の抜けた人体はただの死体であるという事実が厳然として物語られているだけだ。


なんちゅーか、日本における死のタブーをあっけらかんと乗り越えてしまっている凄味がそこにはあった。


そしてこの映像作品の最も目をみはる点は監督の横浜聡子がそんなことを全く意図していないという所にある。狙ってそれをやってるわけじゃないのである。だから自然で、それだからこそ予想もしないインパクトがそこにあるのだ。



「クエスト」の中では他にも彼女の創作したものを見る機会があったが、そこにはほとんどと言っていいほど死体、或いは生命を感じさせない人体が登場していた。


その時私は思ったのだ。

横浜聡子は「死」に取り憑かれていると。



それは作家や監督といった人々においてはそう珍しいことではない。

たとえば先にあげたティム・バートン監督や作家ではスティーブン・キングがそれにあたる。

ただ、そういう人々はホラーを描く傾向が強いのだが、横浜聡子に限っては全然ホラーじゃないというのが珍しいのである。それはアメリカと日本の文化や国民性の違いのせいかもしれないが、普通は死体を動かそうと思ったら設定には超自然か超科学を持ち込むものだ。前者がホラーで後者だと一応SFってことになるだろう。


そう。

普通、死体は、動かない。

自分からは。


死体が自ら動くためには呪いによってゾンビになるとか吸血鬼になるとか、化学薬品か病原菌によってリビングデッド(いわゆるゾンビ)になるとか、「何らかの理由で」「人間以外のものになる」ことが必須条件なのである。そういえばお札によってキョンシーになるというのもあったっけ。


彼らは「死」を通過したことで生命と共に魂も失い、体が活力を取り戻しても「人間性」は失ったままというのが共通点である。


つまり、「死ぬ」ということは「生命」だけじゃなく「魂」(或いは言葉はなんであれそれに類するもの)が身体から抜け出ていってしまう事なのだと、ごく一般的に人々は漠然と感じていると言えるだろう。


死体に活動する力を再びもたらすことはできても魂をもう一度宿らせることはできない――だから死者は呼び返すな。そういう教訓めいた話は世界各地に伝わっているようだ。



ちなみに「生き返る」というのは、死体に再び生命と魂が宿ることだから、それはもはや「死んでいない」わけで、死んでない人が動き回るのは生きているから当たり前なので、「死体が自ら動く」というのとは全く違う事象である。それは奇跡であり、神の御わざであり、従って祝福されて然るべきなのである。



ところが横浜聡子の作品が不思議なのは、死体はあからさまに死体なのに、なんでかそれは生きているんである。いや、生きている役者が死体役を演じているんだからそれは当然なんだけれども、でも彼らが演じているのは死んでいるのに死んでいない死体の役なのだ。


それは言ってみれば、生命が抜けているのに魂だけが生きている時のまま残り続けている死体である。だから別にこの世のものに対して悪さをするわけではない。ただ死んだままそこに留まっているだけだ。


それが横浜聡子監督の「死」に対する認識なのである。

どう見ても普通一般の人の捉え方と違うその認識が、彼女の作品から感じる異質さの正体だ。


そのテイストはティム・バートン監督の「ビートルジュース」に通じるものがある。

「ビートルジュース」では冒頭で新婚夫婦が交通事故を起こす。その後家に辿り着いた二人は元の日常に戻ろうとするのだが、何故か上手くいかない。実は彼らは事故の際に死んでしまい、家に戻ってきたのはいわば幽霊なのだが彼ら自身は自分達が死んだ事に気づいていないのである。彼らが自分達が死んでいると気づくまでは観客も彼らは生きているものだと思い込んでいる仕組みで、そこでは生きたまま死んでいるような一種独特なシュールな世界が展開される。その味わいを横浜聡子作品を見て思い出したものだ。


ティム・バートン監督の「コープスブライド」や原案・原作を手がけた「ナイトメア・ビフォア・クリスマス」等からも同じテイストを感じる。ただこちらは死者は死者の国で楽しくやっていて、そこに生者が関わるという形なので主客が逆転しているわけだけれども。

ティム・バートンの異質さは横浜聡子ともまた違い、自分自身が「死者」に近い存在とみなしていたと覚しき点にある。或いは子どもの頃「生者」が理解できなかったのかもしれない。



横浜聡子の方は、子どもの頃「生者」と「死者」の違いが理解できなかったのだと思う。


「死」そのものに対する認識がない内に「死者」を間近に見てしまったのではないだろうか。或いは死んだ事を知らないままペットにえさをやり続けていたとか、うんと幼い頃の本人も覚えていないような体験があるのかもしれない。



さもなきゃ、「死んだ人が見える」とか。「シックス・センス」の主人公の少年のように。

彼女に見える死人が生前と同じままで特に悪さもしなければ脅える必要はさらさらないから、恐怖を乗り越えるためにホラーを描く必然性が生まれなくても当然なわけで。青森はイタコの本場だし(でも「ウルトラミラクルラブストーリー」を見た限りでは、そんな事はなさそうである)。



「生者」と「死者」の違いをその後学習し知識として身につけたにしろ、横浜聡子監督にはその本質的な違いというものが実はまだよく分かっていないに違いない。


「生」と「死」の間に明確な線引きができないから、人の死を悲しむことも死者を悼むことも上手にできない。それが彼女のコンプレックスを形成し、創作への強い動機と原動力になっているような気がする。



彼女の知識は死体を生命のないただの物体として表現させるが、しかしその一方でその死体は「生」と「死」のはざまの何とも表現出来ない曖昧な部分に存在しているのである。それが彼女の作品にオリジナリティーを与え、不思議な魅力となって人を惹き付けもするのだろう。


ただ、それは長編の映画を作るのにはまだ少々未消化すぎたかもしれない。

それ故「ウルトラミラクルストーリー」は万人には受けいれ難い作品となってしまったのである。