「ウルトラミラクルラブストーリー」公式サイト


*ネタバレがありますので、未見の方は御注意下さい。




青森。


御本人がおっしゃっているとおり、横浜監督がこの映画の中で描きたかったのは生まれ育った青森そのものだろう。


「青森」という名にふさわしい、緑滴る木々の下に木漏れ日が瞬く美しさ。

そしてそこに暮らす人々の日常――となるのが普通だろうが、監督自身の異質さによって描かれたのはそこに暮らす人々の「非日常」というか、異様さになってしまった。





「ウルトラミラクルラブストーリー」で描かれている葬儀の会場では農家の跡取り息子が亡くなったというのに誰一人悲しんでいない。会葬者達は心の中では彼の死を悼んでいたのかもしれないが、お葬式はまさしく宴会そのものと化していた。それが青森の一般的なお葬式スタイルだとこの映画を見た全国の人に思われたらたまらんと、この映画を見た青森在住の方の中には憤慨した人もいたかもしれない。


大丈夫。

誰もあれを見て「青森では葬式はこうなのかー」と思ったりはしないから。

「ウルトラミラクルラブストーリー」で語られている世界は異常すぎて、映画の中で葬儀が行われている部分まで見て来た人はその頃には現実感をすっかり喪失し、これがこの世の出来事なのかそうじゃないのかも判別付かない、一種の判断停止に陥っているはずだから。



だってあなた、死んだ人が死んだまま、生きてる人に混じって昼間っから出歩いてるんですぜ。


これって全ての映画のセオリーを覆したといっても過言ではないかも。


「クエスト」を見ていると横浜監督はやたらと業界人の受けがいいのだが、決まり切ったような作品ばかり作らされていると彼女の作品はとても新鮮に目に映るのだろう。特に昨今の「泣ける映画」に飽き飽きしている人達にとっては、「死」を美化せず悼まず泣いたりしない「ウルトラミラクルラブストーリー」のストーリー展開は震いつきたくなるほど斬新だったと思われる。しかも死者が普通に生活しているのにホラーでもないんだ、これが。



今までに見たことも聞いたこともないようなストーリーは、演じる者にとっては確かに挑戦的でやりがいのあるものかもしれない。


しかしどれだけ俳優陣が優れた演技で監督の要求に応え完成度の高い作品になったとしても、観客の方がそれを許容できない場合もある。「ウルトラミラクル~」はその一例と言えるだろう。


これが「SF」だとか「ホラー」のジャンルに分類されて売り込まれていれば、見る側もそれなりの心の準備ができるし、それが許容できない観客はそもそも見に来ない。でも「ウルトラミラクル~」は「ラブストーリー」として、ごく普通の映画として世に出たのである。


そのつもりで見ていた観客は、まず主人公の陽人が映画半ばで死んでしまう事に度肝を抜かれる(ホラーファンなら「スクリーム」でドリュー・バリモアが死んだシーンを思い出す)。

そしてさらに、その陽人が死んでいるのに死んだまま次の日からも普通の生活を続けていることに肝を潰すのである(ホラーファンでもこれにはビックリである)。


一応、生前及び死後の陽人が、自分の行動を大好きな町子先生の好みに合わすため、各種農薬をばしゃばしゃ頭から浴びたことが彼が死んでも生きてることの原因ではないかと匂わせている部分もあるのだが、子どもだってそんな理由、真に受けないと思う。放射能の影響を受けた蜘蛛に噛まれてスパイダーマンになるのと設定としてはどっこいどっこいかもしれないが、映画の中での説得力がまるで違う。


ということは、横浜監督にとって、陽人が死んでからも生きているというのは、別に理由なんかどうでもいいぐらいに、ごく当たり前の事態に相違ないのだ。だって蛇は首を落としてからも心臓だけはずっと動いてるじゃない、ぐらいの(屁)理屈で通してしまえることなのだろう。蛇の心臓だって数時間もすればちゃんと止まるんだけどね。


しかし陽人は心臓が止まっているのに、止まったまま普通に生活しているのである。それを「生きている」と称していいのかどうか見解は人それぞれだろうが、少なくとも心臓が止まっている間は「生き返った」事にはならないだろう。


死んだあとも尚、彼の体を活動させているのは彼の胸にあふれる町子先生への思い、愛の力というわけで、だからこの映画のタイトルは「ウルトラミラクルラブストーリー」なのである。たぶん、かなり安易。


まあでも、そのおかげで陽人は生前は微妙に距離を置かれていた町子先生と表面だけは両思いっぽい関係にまで発展できたので、何も文句はなかったに違いない。


ところがその関係がもう一歩先へ進んだりしないまま、陽人はもう一回死ぬんですな。今度は熊と間違ったハンターに射殺されるんだけど、元々死んでた陽人を撃ったハンターは過失致死どころか事故扱いにさえならなかったと思われる。



陽人は、きっと最初に死んだ時は自分が死んだ事に気づかないままだったのだろう。

「死」を認識しない脳は心臓が止まった体でも平気で生きていた時のまま活動させることができたけれど、「撃たれた」事を音と衝撃で認識した脳はそれで「死」を迎えるものと判断してしまった。故にその死のあとで陽人の身体が再び動くことはなかった――という事になるのだろうか。


死んでるのに動き回ってた死体がようやくおとなしく死んでくれたままになったせいか、陽人のお葬式では町子先生を除くほぼ全員が浮かれ騒いでいたのがすごかった。騒げば気になった陽人が天照大神のようにもう一度お棺をあけて出てくると思って騒いでいるわけでもないらしい。


実はこの町子先生というキャラも、今一つ「死」というものを認識していない人として描かれている。自分が「死んだ」と思わない限り、相手は「死んでいないはず」とどこか思い込んでいるような女性である。


映像では松山ケンイチの演じる陽人にばかりスポットが当てられ観客の目も彼にばかり行ってしまうが、町子というキャラに焦点を当てるならばこの「ウルトラミラクルラブストーリー」という作品は彼女が「死」とは何かと考え続け、自分なりの結論を出すまでを描いた映画ということになるのである。


町子にとっては、首を失って死んだはずの恋人は想像の中で首を探しながら生き続けているし、自分を思ってくれる陽人は心臓が止まっても普通に生活しているし、射殺されたあとだって町子がその瓶詰めの脳を持っている限りは本当に死んだ事にはなっていないのである。


最後の最後には、山で熊に襲われそうになった町子(プラス彼女が担当している園児達)がその危機から逃れるため、携えていたビンから陽人の脳を取り出してて熊に投げ与えるのだが、熊がその脳を食べるのを見守りながら彼女は何故か満足そうな笑みを浮かべるのだ。


それはあたかも、陽人の脳を熊が食べる事で、陽人の生命が熊に移るの見守っているかのようだった。命は失われるのではなく、食物連鎖によって次々に宿る場所を変えていくだけとでもいうような、原始の頃から伝わる一種の宗教観に通じるものを町子はそこで見つけたようだ。


個人の自意識は失われても、そこに存在した生命というか生命力というものは失われず、肉体の一部を食べられることによって食べた相手に受け継がれていく、みたいなアニミズムにも似た考え方がそこにはある。


そう考えれば「死」は悲しくないし、だから悼む必要もない。


それが横浜聡子監督がとりあえず行き着いた結論だったのだろうか?


「ウルトラミラクルラブストーリー」はそこで唐突に終わるから、監督の中でもまだ「これ!」と言い切れるだけの明確な結論は出ていないのだろう。


とりあえず、今日は、ここまで。

そう言われて突然目の前で絵本をパタンと閉じられた子どもの気分を久しぶりに味わった。


それを物足りないと思うか、そこから自分の想像の翼を広げるための叩き台にするか、それは観客一人一人に委ねられているのだろう。


少なくとも、観客を思考停止にさせて泣かせることばかりを目指したような映画よりは、歯応えのある分私は好きである。


何より松山ケンイチ君がよかったしね♪