「笑う警官」公式サイト
最近立て続けに彼女の出てくる映画ばかり見たもんで、「ゼロの焦点」見ながらどうして松雪泰子が出てないんだろうなんて漠然と思ってたぐらいにして。充分、出る価値あったと思うけど(広末の代わりに)。
で、「笑う警官」の前に松雪泰子さんを見たのが「クヒオ大佐」で、その前に見たのが「沈まぬ太陽」。去年見たのが「容疑者Xの献身」と「デトロイト・メタル・シティ」。さらにそれ以前にテレビで見たのが「フラ・ガール」かな?
「DMC」はおいといて、他の映画での松雪さんのイメージって、「尽くす価値のない男に尽くして一生を棒に振る女」です。恐い事にこの「女(達)」、自分が「価値のない男に尽くした」とは思ってないので「一生を棒に振った」とも思ってません。それで本人は「幸せ」だと思ってるから始末に負えない。
まあ、御本人がそれで幸せなら別にそれで構わないわけでもありますが、でもさ、映画の中であまりにそういうパターン化された女性像を松雪さんのような美しくて演技力もある女優さんに演じられてしまうとさ、何か間違った「理想の女性像」が生まれそうで恐いわけですよ、私は。「耐える女」とか「辛抱する女」の美化イメージね。
「耐えて」も「辛抱して」も、それで女性の登場人物が自己実現できるんならそれでいいです。自己実現した結果が「幸せ」でも「不幸」でも、少なくとも彼女は自分のために努力したんですから、彼女の「我慢」は女性として受け入れられる。
でもね、松雪さんが多く演じているキャラって、「耐えて」「辛抱する」のは男のためなんですよ。それは彼女が愛した男であって、その男が幸せになれば自分も幸せだとそのキャラは言ってるわけですが、それはそう思い込もうとしているだけで本当は幸せでも何でもないんですよね。
松雪さんの演じるキャラは自分で自分をだましてる。
或いは自己暗示をかけて自分は幸せだと思い込もうと必死になっている。
愛したところで報われるわけでもない男のために。
それって男にとっては大層美しい女性像でしょうが、女にとってはどうなの??? ですよ。
それでね、松雪さんが演技の上でそういう「自分の不幸に酔う女」を演じているならまだマシなんですが、彼女は恐ろしいことに、真実――自分はその男に利用されているだけであるという事実――に気づいていながら男のためにその真実に気づかぬふりをしている理知的な女性を演じているんです。
いくら恋は盲目といっても、そんなに冷静で頭のいい人が、くだらない(でも顔はいい)男のために、そこまで自分を捨てることないじゃない! と私は思ってしまうわけです。
分かっててやってるんだとしたら、それはそういう境遇に置かれている自分が好きなんだろうとしか、私には思えない。理知的な女性が理性的な判断を敢えて放棄しているのは、それより本能の方が強烈だからなのでしょう。どうしようもない男のDNAに恋い焦がれるDNAをその女性が生まれながらに持っているからだと思うしかないのです。はっきり言って「ドM」ですよね。
そういう生まれもっての「ダメンズウォーカー」の血というかDNA、それはあると思うんですよ。でもそういう人の特殊な幸せをあたかも「辛抱する女の美学」みたいに映画で語って欲しくないというかね、そういう憤懣を覚えてしまうわけです。
松雪さんって「DMC」の女社長がしっくり来る方ですから、強い女性のイメージ似合うんですよ。実際、「辛抱」し続けるのにも強さは必要ですから、「耐えキャラ」もぴったりだと思うんです。
でもそういう「耐えキャラ」を美化するような作品は、私は好きになれない。
だって「耐えキャラ」が耐えることで得をするのは男ばかりで、決して本人が幸せになれる日は来ないんだもの、少なくとも客観的には。特殊な喜びは本人がそうと自覚しない限り表だっての幸福には結びつかないし、松雪さんが演じているキャラにはあてはまらないから。
松雪さんにはそんな日本の男にとって都合いい役柄ばかり演じないで、もっと自分自身が直接の幸せになる道を遮二無二つっぱしるような役を演じて欲しいです。
ってゆーか、男って尽くせば尽くすだけ図に乗ってダメさが増すんだから、男ダメにしてるの女の責任でもあるのよね。いい加減、気付けっての!(←単なる心の叫び)
最近立て続けに彼女の出てくる映画ばかり見たもんで、「ゼロの焦点」見ながらどうして松雪泰子が出てないんだろうなんて漠然と思ってたぐらいにして。充分、出る価値あったと思うけど(広末の代わりに)。
で、「笑う警官」の前に松雪泰子さんを見たのが「クヒオ大佐」で、その前に見たのが「沈まぬ太陽」。去年見たのが「容疑者Xの献身」と「デトロイト・メタル・シティ」。さらにそれ以前にテレビで見たのが「フラ・ガール」かな?
「DMC」はおいといて、他の映画での松雪さんのイメージって、「尽くす価値のない男に尽くして一生を棒に振る女」です。恐い事にこの「女(達)」、自分が「価値のない男に尽くした」とは思ってないので「一生を棒に振った」とも思ってません。それで本人は「幸せ」だと思ってるから始末に負えない。
まあ、御本人がそれで幸せなら別にそれで構わないわけでもありますが、でもさ、映画の中であまりにそういうパターン化された女性像を松雪さんのような美しくて演技力もある女優さんに演じられてしまうとさ、何か間違った「理想の女性像」が生まれそうで恐いわけですよ、私は。「耐える女」とか「辛抱する女」の美化イメージね。
「耐えて」も「辛抱して」も、それで女性の登場人物が自己実現できるんならそれでいいです。自己実現した結果が「幸せ」でも「不幸」でも、少なくとも彼女は自分のために努力したんですから、彼女の「我慢」は女性として受け入れられる。
でもね、松雪さんが多く演じているキャラって、「耐えて」「辛抱する」のは男のためなんですよ。それは彼女が愛した男であって、その男が幸せになれば自分も幸せだとそのキャラは言ってるわけですが、それはそう思い込もうとしているだけで本当は幸せでも何でもないんですよね。
松雪さんの演じるキャラは自分で自分をだましてる。
或いは自己暗示をかけて自分は幸せだと思い込もうと必死になっている。
愛したところで報われるわけでもない男のために。
それって男にとっては大層美しい女性像でしょうが、女にとってはどうなの??? ですよ。
それでね、松雪さんが演技の上でそういう「自分の不幸に酔う女」を演じているならまだマシなんですが、彼女は恐ろしいことに、真実――自分はその男に利用されているだけであるという事実――に気づいていながら男のためにその真実に気づかぬふりをしている理知的な女性を演じているんです。
いくら恋は盲目といっても、そんなに冷静で頭のいい人が、くだらない(でも顔はいい)男のために、そこまで自分を捨てることないじゃない! と私は思ってしまうわけです。
分かっててやってるんだとしたら、それはそういう境遇に置かれている自分が好きなんだろうとしか、私には思えない。理知的な女性が理性的な判断を敢えて放棄しているのは、それより本能の方が強烈だからなのでしょう。どうしようもない男のDNAに恋い焦がれるDNAをその女性が生まれながらに持っているからだと思うしかないのです。はっきり言って「ドM」ですよね。
そういう生まれもっての「ダメンズウォーカー」の血というかDNA、それはあると思うんですよ。でもそういう人の特殊な幸せをあたかも「辛抱する女の美学」みたいに映画で語って欲しくないというかね、そういう憤懣を覚えてしまうわけです。
松雪さんって「DMC」の女社長がしっくり来る方ですから、強い女性のイメージ似合うんですよ。実際、「辛抱」し続けるのにも強さは必要ですから、「耐えキャラ」もぴったりだと思うんです。
でもそういう「耐えキャラ」を美化するような作品は、私は好きになれない。
だって「耐えキャラ」が耐えることで得をするのは男ばかりで、決して本人が幸せになれる日は来ないんだもの、少なくとも客観的には。特殊な喜びは本人がそうと自覚しない限り表だっての幸福には結びつかないし、松雪さんが演じているキャラにはあてはまらないから。
松雪さんにはそんな日本の男にとって都合いい役柄ばかり演じないで、もっと自分自身が直接の幸せになる道を遮二無二つっぱしるような役を演じて欲しいです。
ってゆーか、男って尽くせば尽くすだけ図に乗ってダメさが増すんだから、男ダメにしてるの女の責任でもあるのよね。いい加減、気付けっての!(←単なる心の叫び)